北溟のアナバシス

三笠 陣

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第一章 風雲極東編

1 赤い艦隊

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 白地に赤い星と鎌と鎚を描いた軍艦旗をはためかせた艦隊が、東シナ海を北上していた。

「何とも気味の悪い光景だな」

 それを追跡して監視を続ける軽巡名取の艦橋で、艦長の猪口敏平大佐は呟く。
 一九四三(昭和十八)年六月、マラッカ海峡を抜けて南シナ海へと入ったソビエト社会主義共和国連邦の艦隊は、ヴィシー・フランス政府に属するフランス領インドシナのカムラン湾で一度補給を受けた後、ウラジオストクを目指してさらなる北上を続けていた。
 まるで、約四十年前のロシア帝国海軍バルチック艦隊を彷彿とさせる動きであった。
 名取は、南シナ海の大日本帝国領・新南群島(南沙諸島)あたりからウラジオストクへと向かうソ連艦隊の追跡を開始していた。
 ソビエト連邦として初めて就役させた戦艦であるソヴィエツキー・ソユーズ、そしてその二番艦ソビエツカヤ・ウクライナを基幹とする艦隊は、まさしく四十年の時を超えて蘇ったバルチック艦隊の亡霊のように、猪口の目には見えていた。
 しかし、日露戦争と違うのは、対馬沖で連合艦隊が待ち構えていないということだ。
 日本とソ連は、戦争状態にあるわけではない。それどころか、二年前の一九四一(昭和十六)年には日ソ中立条約すら結んでいた。
 一九三九(昭和十四)年のノモンハン事件に代表される日ソ間の武力衝突は、中立条約締結以降、発生してはいない。
 だというのに、中立条約締結以降も日ソ関係は緊張状態が続いていた。
 日本の統治する朝鮮半島東岸では、海流に乗ってソ連から流れてきたと見られる機雷によって多数の船舶が犠牲になっている。
 その最大の悲劇は、敦賀―清津間の連絡船気比丸けひまる沈没事件であった。この事件により、気比丸乗員・乗客一五六名が犠牲となった。
 しかしながら、日本側の度重なる抗議にもかかわらず、ソ連側は機雷の敷設は国際法上認められていること、漂流している機雷がソ連のものであるとの証拠がないという理由から、一切の補償に応じていない。
 内地では、ソ連膺懲論まで持ち上がっていると聞く。
 そうした状況下での、ソ連最新鋭戦艦の極東回航。
 ソ連は明らかに、日ソ関係のさらなる緊張化を狙っているとしか思えなかった。

「あの程度の艦隊、帝国海軍が全力を挙げれば即座に撃滅することが可能であろうに……」

 もちろん、猪口自身もソ連艦隊の監視に留めなければならないことに歯がゆさを禁じ得なかった。出来ればこの名取でソ連戦艦に突撃し、魚雷を叩き込んでしまいたいとすら思う。
 しかし、日本を取り巻く国際情勢は、それを許すほど楽観的な雰囲気に満ちてはいなかった。
 一九三一年九月の満洲事変とその後の満洲国建国、日本の国際連盟脱退によって日米関係は十年近い緊張関係にあり続けている。アメリカから対日経済制裁が科されているわけではなかったが、軍事的圧力は年々増し続けていた。
 特に海軍軍人である猪口にとっては、何よりもアメリカ合衆国海軍の増強ぶりが気に掛かっていた。
 かつて帝国海軍内部で盛んに唱えられていた対米七割論。
 しかし、一九四二年を境にして、帝国海軍は対米七割の艦艇保有比率を維持出来なくなっていた。
 原因は、一九三九年九月、ドイツ第三帝国のポーランド侵攻によって始まった第二次欧州大戦であった。この戦争は翌四〇年七月にフランスの降伏、独英の講和という形で終結していたが、アメリカはこれを契機として太平洋と大西洋、両洋情勢の緊張化を理由に「両洋艦隊法」を成立させ、総計約一三〇万トンという大規模な海軍拡張計画に取りかかっていたのである。
 それ以前に進められていた三次にわたるヴィンソン計画と合わせれば、米海軍は帝国海軍連合艦隊を上回る艦隊を新たに一つ、造り上げることとなる。最早、帝国海軍は対米保有比率五割を維持出来れば良い方と言える状況にまで追い込まれていたのである。
 その対米関係にも増して緊張化の度合いを高めているのが、対ソ関係であった。
 欧州での戦火が止んで、すでに三年が経とうとしている。この間、極東情勢も欧州情勢も表面的には静謐を保っていた。
 日本は満洲事変以降、中国大陸での軍事行動は行っておらず、ドイツもまたフランスを降伏させイギリスと講和を結んだ後は、ユーゴスラビアで発生した反独派将校たちによるクーデターに軍事介入して鎮圧したのを最後に武力による周辺諸国への侵攻を止めていた。
 欧州での戦火が止んだことでソ連の関心が極東方面に向くことを恐れた日本は日ソ中立条約を結ぶことに成功してはいたものの、果たしてソ連側にその条約を守る意思がどれほどあるのか、極めて疑わしかった。

「太平洋の米艦隊と対峙しなければならないというのに、日本海にあのような艦隊がやってくるとは……」

 恐らくは、ソ連海軍は日米関係の緊張化に乗じて日本に対する軍事的圧力を高めようとしているのだろう。その目的がどこにあるのか、猪口には判らない。
 あるいは帝政ロシアのごとく、南下政策をおし進めようというのか。
 猪口の憂慮を他所に、ソ連艦隊はなおも東シナ海を北上していた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「本日、東シナ海を北上していたソ連艦隊は、対馬海峡を抜けて日本海に入りました」

 猪口が艦長を務める軽巡名取が東シナ海を北上するソ連艦隊を監視してから数日後、瀬戸内海柱島に錨を降ろしている連合艦隊旗艦・戦艦武蔵にて、そのような報告が司令長官・古賀峯一大将の元に届けられた。
 報告者は、先任参謀の柳沢蔵之助大佐であった。
 武蔵の右舷中央部舷側寄りにある連合艦隊司令長官公室には、参謀長・塚原二四三にしぞう中将始め司令部の者たちが集まっている。皆一様に、眉根に皺を寄せたり腕を組んだりして、険しい雰囲気をかもし出していた。

「日本海側の情勢は、これで一段と厳しくなったな」

 呻くように、古賀司令長官が言った。
 ソ連側からの機雷漂流により、日本海を航行する船舶の安全確保は海軍にとって重要な役割となっていた。すでに、少なからぬ数の掃海艇が日本海側に回航されている。
 掃海艇は戦艦や空母に比べて目立たぬ艦種ではあったが、軍港や要港の防備、そして戦時前進根拠地の整備などには欠かせない艦種であった。帝国海軍では掃海艇の数が根本的に不足しており、一九三七(昭和十二)年の第三次海軍軍備補充計画以降、建造が進められているものの、サイパン島やトラック諸島といった南洋群島の島々の存在を考えれば、依然として絶対数は不足しているといえた。
 その貴重な掃海艇が、太平洋方面ではなく日本海方面に引き抜かれているのである。
 仮に対ソ戦となれば、ソ連海軍が極東地域に配備している一〇〇隻超とも言われる潜水艦(その実態は沿岸防衛用の小型潜水艦であったが)をも相手取らねばならず、さらに海軍戦力が日本海側に引き抜かれるだろう。
 日ソ関係の緊迫化は、アメリカを第一の仮想敵国とする帝国海軍にとって決して望ましいものではなかったのである。

「いったい、ソ連側の意図は奈辺にあるのか……」

 日ソ中立条約が結ばれたとはいえ、日ソ間の懸案事項はそれだけではない。北方海域での日ソ漁業条約延長交渉や北樺太油田の利権を巡る問題など、外交課題は山積している。そうした外交交渉を有利に進めるためにソ連側は軍事的圧力を強めているのかもしれないが、最新鋭戦艦をわざわざ極東に回航するのは過剰であるとも言えた。

「長官」

 塚原参謀長が、口を開いた。

「この上は、日本海方面を担当する新たな艦隊の新編が必要かと存じます」

「うむ」難しい表情のまま、古賀は頷いた。「日露戦争時のウラジオ艦隊の事例を考えれば、一理ある意見ではあろう」

 古賀は自らの参謀長の意見の正しさを認めてはいたが、一方でただでさえ米海軍に対して七割を切っている戦力が、さらに減少してしまうことに懸念を抱いてもいた。
 現在、連合艦隊は艦隊決戦の主力部隊である第一艦隊、夜戦部隊である第二艦隊、空母機動部隊である第三艦隊、南洋群島の防衛を担当する第四艦隊、本土東方および北方海域の警備を担当する第五艦隊、そして潜水艦隊である第六艦隊の六個艦隊から成っている。
 そこに、新たにもう一個、日本海を担当する艦隊を編成しようというのだ。
 これ以上、太平洋方面の戦力が日本海方面に引き抜かれることは、古賀にとっても認めがたいものであった。しかし一方で、北方から強まるソ連の脅威にも対抗しなければならないことも、また事実であった。

「……私の方から、軍令部には上申しておく。諸君らは、対米作戦のみならず、万が一対ソ開戦となった場合についても、研究しておくように」

 結局、古賀はそう結論付けざるを得なかった。大日本帝国を取り巻く情勢は、最早海軍を対米作戦のみに集中させておくだけの余裕を与えなかったのである。





 そして一九四三年十月一日、平時艦隊編制が改訂され、日本海を担当する第七艦隊が新たに編成されることとなった。
 それは、極東地域に不穏な暗雲が立ちこめ始めていることを示す証左でもあったのである。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 拙作をお読み下さり、誠にありがとうございます。

 これまで私は太平洋戦争中のある一海戦を改変しつつ物語を進める形式の架空戦記ばかり書いてきましたが、本作はそれ以前の時代から改変を加える形式の物語となります。

 なお、参考文献については執筆途中で増えていく可能性がございますので、完結時にまとめて掲載する形にしたいと思います。

 それでは、新たな拙作を何卒、よろしくお願いいたします。
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