14 / 60
第14話 公爵邸での生活
しおりを挟む
ライオネル公爵との最初の面会は、私の予想を良い意味で大きく裏切る形で終わった。縁談の理由が、私のささやかな能力への評価だったという事実は、驚きと共に、長い間凍てついていた私の心に、ほんの少しの温もりを与えてくれた。
その日から、ヴァルテンベルク公爵邸での私の新しい生活が始まった。公爵の言葉通り、私には広々とした、しかしやはり華美な装飾のない、機能的で落ち着いた雰囲気の部屋が与えられた。窓からは手入れの行き届いた庭園が見渡せ、日当たりも良い。エスタードの侯爵邸で与えられていた部屋よりも、ずっと快適な空間だった。
食事は、基本的に公爵と共に、大きなダイニングホールでとることになった。最初のうちは、あの威圧的な公爵と二人きりで(実際には給仕をする使用人たちが常に控えているのだが)食事をするというのは、緊張で味がしないほどだった。会話もほとんどなく、食器の触れ合う音だけが響く、どこかぎこちない時間が過ぎていく。
公爵は、食事中も何か考え事をしているのか、あまり私に話しかけてくることはなかった。私も、何を話せばいいのか分からず、ただ黙々と料理を口に運ぶだけ。出される料理はどれも最高級の食材を使った、洗練されたものばかりだったけれど、最初の数日はその味を堪能する余裕など全くなかった。
公爵邸で働く使用人たちは、皆、執事のクラウスさんを筆頭に、非常に規律正しく、無駄口ひとつ叩かない。彼らは私に対しては礼儀正しく接してくれるものの、どこか距離を置いているような、観察されているような視線を感じることもあった。無理もないだろう。突然現れた、婚約破棄された異国の令嬢。彼らにとって、私は得体の知れない存在に違いない。
(まあ、エスタードの屋敷で、家族にすら冷遇されていたことを思えば、これでもずっとマシだけれど……)
孤独であることには変わりないけれど、少なくともここでは、あからさまな悪意や侮蔑の視線に晒されることはない。ただ、この巨大な屋敷の中で、私はまだ、自分の居場所を見つけられずにいる、という感覚だった。
日中は、特にこれといった役割も与えられず、自室で読書をしたり、庭園を散策したりして過ごすことが多かった。エスタードから持ってきた数少ない書物はすぐに読み終えてしまい、公爵邸の図書室を使わせてもらえないかクラウスさんに尋ねると、彼は少し驚いたような顔をしながらも、快く許可してくれた。
公爵邸の図書室は、想像を絶する規模だった。壁一面に天井まで続く書架には、古今東西のあらゆる分野の書物がぎっしりと並べられている。歴史、法律、経済、哲学、文学、さらには軍事戦略や最新の科学技術に関するものまで。その蔵書の質と量に、私はただただ圧倒された。
(これだけの書物を……公爵は読破されているのかしら……)
あの冷徹な公爵の、知的な側面を垣間見たような気がした。
図書室で過ごす時間は、私にとって唯一の心の安らぎとなった。本を読んでいる間だけは、自分の境遇や未来への不安を忘れ、物語の世界や知識の海に没頭することができたからだ。
そんな日々が数日続いたある日のこと。夕食の席で、ライオネル公爵が不意に私に声をかけてきた。
「ベルンシュタイン嬢。……いや、アリアナ、と呼んでも?」
「え……あ、はい。どうぞ、お構いなく」
突然名前で呼ばれ、私は少し動揺してしまった。公爵が私の名前を呼んだのは、これが初めてだった。
「アリアナ。明日から、私の執務室へ来るように」
「……執務室、でございますか?」
「うむ。君の意見を聞きたい案件がいくつかある。……もちろん、無理強いはしない。気が進まなければ断ってくれて構わないが」
そう言いながらも、彼の黒い瞳は、私の返事を待つようにじっと私を見つめている。その視線には、有無を言わせぬような圧力が、やはり込められていた。
(意見を、聞きたい……?)
それはつまり、私に、何らかの形で公爵の仕事を手伝えということなのだろうか。初対面の時に言っていた、「貴女の才能は我が国でこそ活かされるべきだ」という言葉は、決して社交辞令ではなかったということか。
緊張と、ほんの少しの……期待。もし、私が本当にこの人の役に立てるのだとしたら。もし、ここで自分の能力を発揮できるのだとしたら。それは、私にとって、新しい生きがいを見つけるチャンスになるのかもしれない。
「……いえ、とんでもございません。私でお役に立てることがございましたら、喜んで」
私は、意を決してそう答えた。公爵は、私の返事に満足したのか、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。いや、気のせいかもしれない。彼の表情は、相変わらず読み取りにくいままだったけれど。
明日から、何かが変わるかもしれない。そんな予感が、私の胸をかすかに高鳴らせていた。
その日から、ヴァルテンベルク公爵邸での私の新しい生活が始まった。公爵の言葉通り、私には広々とした、しかしやはり華美な装飾のない、機能的で落ち着いた雰囲気の部屋が与えられた。窓からは手入れの行き届いた庭園が見渡せ、日当たりも良い。エスタードの侯爵邸で与えられていた部屋よりも、ずっと快適な空間だった。
食事は、基本的に公爵と共に、大きなダイニングホールでとることになった。最初のうちは、あの威圧的な公爵と二人きりで(実際には給仕をする使用人たちが常に控えているのだが)食事をするというのは、緊張で味がしないほどだった。会話もほとんどなく、食器の触れ合う音だけが響く、どこかぎこちない時間が過ぎていく。
公爵は、食事中も何か考え事をしているのか、あまり私に話しかけてくることはなかった。私も、何を話せばいいのか分からず、ただ黙々と料理を口に運ぶだけ。出される料理はどれも最高級の食材を使った、洗練されたものばかりだったけれど、最初の数日はその味を堪能する余裕など全くなかった。
公爵邸で働く使用人たちは、皆、執事のクラウスさんを筆頭に、非常に規律正しく、無駄口ひとつ叩かない。彼らは私に対しては礼儀正しく接してくれるものの、どこか距離を置いているような、観察されているような視線を感じることもあった。無理もないだろう。突然現れた、婚約破棄された異国の令嬢。彼らにとって、私は得体の知れない存在に違いない。
(まあ、エスタードの屋敷で、家族にすら冷遇されていたことを思えば、これでもずっとマシだけれど……)
孤独であることには変わりないけれど、少なくともここでは、あからさまな悪意や侮蔑の視線に晒されることはない。ただ、この巨大な屋敷の中で、私はまだ、自分の居場所を見つけられずにいる、という感覚だった。
日中は、特にこれといった役割も与えられず、自室で読書をしたり、庭園を散策したりして過ごすことが多かった。エスタードから持ってきた数少ない書物はすぐに読み終えてしまい、公爵邸の図書室を使わせてもらえないかクラウスさんに尋ねると、彼は少し驚いたような顔をしながらも、快く許可してくれた。
公爵邸の図書室は、想像を絶する規模だった。壁一面に天井まで続く書架には、古今東西のあらゆる分野の書物がぎっしりと並べられている。歴史、法律、経済、哲学、文学、さらには軍事戦略や最新の科学技術に関するものまで。その蔵書の質と量に、私はただただ圧倒された。
(これだけの書物を……公爵は読破されているのかしら……)
あの冷徹な公爵の、知的な側面を垣間見たような気がした。
図書室で過ごす時間は、私にとって唯一の心の安らぎとなった。本を読んでいる間だけは、自分の境遇や未来への不安を忘れ、物語の世界や知識の海に没頭することができたからだ。
そんな日々が数日続いたある日のこと。夕食の席で、ライオネル公爵が不意に私に声をかけてきた。
「ベルンシュタイン嬢。……いや、アリアナ、と呼んでも?」
「え……あ、はい。どうぞ、お構いなく」
突然名前で呼ばれ、私は少し動揺してしまった。公爵が私の名前を呼んだのは、これが初めてだった。
「アリアナ。明日から、私の執務室へ来るように」
「……執務室、でございますか?」
「うむ。君の意見を聞きたい案件がいくつかある。……もちろん、無理強いはしない。気が進まなければ断ってくれて構わないが」
そう言いながらも、彼の黒い瞳は、私の返事を待つようにじっと私を見つめている。その視線には、有無を言わせぬような圧力が、やはり込められていた。
(意見を、聞きたい……?)
それはつまり、私に、何らかの形で公爵の仕事を手伝えということなのだろうか。初対面の時に言っていた、「貴女の才能は我が国でこそ活かされるべきだ」という言葉は、決して社交辞令ではなかったということか。
緊張と、ほんの少しの……期待。もし、私が本当にこの人の役に立てるのだとしたら。もし、ここで自分の能力を発揮できるのだとしたら。それは、私にとって、新しい生きがいを見つけるチャンスになるのかもしれない。
「……いえ、とんでもございません。私でお役に立てることがございましたら、喜んで」
私は、意を決してそう答えた。公爵は、私の返事に満足したのか、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。いや、気のせいかもしれない。彼の表情は、相変わらず読み取りにくいままだったけれど。
明日から、何かが変わるかもしれない。そんな予感が、私の胸をかすかに高鳴らせていた。
1,167
あなたにおすすめの小説
お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!
にのまえ
恋愛
すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。
公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。
家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。
だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、
舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。
報われなくても平気ですので、私のことは秘密にしていただけますか?
小桜
恋愛
レフィナード城の片隅で治癒師として働く男爵令嬢のペルラ・アマーブレは、騎士隊長のルイス・クラベルへ密かに思いを寄せていた。
しかし、ルイスは命の恩人である美しい女性に心惹かれ、恋人同士となってしまう。
突然の失恋に、落ち込むペルラ。
そんなある日、謎の騎士アルビレオ・ロメロがペルラの前に現れた。
「俺は、放っておけないから来たのです」
初対面であるはずのアルビレオだが、なぜか彼はペルラこそがルイスの恩人だと確信していて――
ペルラには報われてほしいと願う一途なアルビレオと、絶対に真実は隠し通したいペルラの物語です。
【完結】真の聖女だった私は死にました。あなたたちのせいですよ?
時
恋愛
聖女として国のために尽くしてきたフローラ。
しかしその力を妬むカリアによって聖女の座を奪われ、顔に傷をつけられたあげく、さらには聖女を騙った罪で追放、彼女を称えていたはずの王太子からは婚約破棄を突きつけられてしまう。
追放が正式に決まった日、絶望した彼女はふたりの目の前で死ぬことを選んだ。
フローラの亡骸は水葬されるが、奇跡的に一命を取り留めていた彼女は船に乗っていた他国の騎士団長に拾われる。
ラピスと名乗った青年はフローラを気に入って自分の屋敷に居候させる。
記憶喪失と顔の傷を抱えながらも前向きに生きるフローラを周りは愛し、やがてその愛情に応えるように彼女のほんとうの力が目覚めて……。
一方、真の聖女がいなくなった国は滅びへと向かっていた──
※小説家になろうにも投稿しています
いいねやエール嬉しいです!ありがとうございます!
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
最愛の人に裏切られ死んだ私ですが、人生をやり直します〜今度は【真実の愛】を探し、元婚約者の後悔を笑って見届ける〜
腐ったバナナ
恋愛
愛する婚約者アラン王子に裏切られ、非業の死を遂げた公爵令嬢エステル。
「二度と誰も愛さない」と誓った瞬間、【死に戻り】を果たし、愛の感情を失った冷徹な復讐者として覚醒する。
エステルの標的は、自分を裏切った元婚約者と仲間たち。彼女は未来の知識を武器に、王国の影の支配者ノア宰相と接触。「私の知性を利用し、絶対的な庇護を」と、大胆な契約結婚を持ちかける。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
虐げられてきた妾の子は、生真面目な侯爵に溺愛されています。~嫁いだ先の訳あり侯爵は、実は王家の血を引いていました~
木山楽斗
恋愛
小さな村で母親とともに暮らしていアリシアは、突如ランベルト侯爵家に連れて行かれることになった。彼女は、ランベルト侯爵の隠し子だったのである。
侯爵に連れて行かれてからのアリシアの生活は、幸福なものではなかった
ランベルト侯爵家のほとんどはアリシアのことを決して歓迎しておらず、彼女に対してひどい扱いをしていたのである。
一緒に連れて行かれた母親からも引き離されたアリシアは、苦しい日々を送っていた。
そしてある時彼女は、母親が亡くなったことを聞く。それによって、アリシアは深く傷ついていた。
そんな彼女は、若くしてアルバーン侯爵を襲名したルバイトの元に嫁ぐことになった。
ルバイトは訳アリの侯爵であり、ランベルト侯爵は彼の権力を取り込むことを狙い、アリシアを嫁がせたのである。
ルバイト自身は人格者であり、彼はアリシアの扱われた方に怒りを覚えてくれた。
そのこともあって、アリシアは久方振りに穏やかな生活を送れるようになったのだった。
そしてある時アリシアは、ルバイト自身も知らなかった彼の出自について知ることになった。
実は彼は、王家の血を引いていたのである。
それによって、ランベルト侯爵家の人々は苦しむことになった。
アリシアへの今までの行いが、国王の耳まで行き届き、彼の逆鱗に触れることになったのである。
義母の企みで王子との婚約は破棄され、辺境の老貴族と結婚せよと追放されたけど、結婚したのは孫息子だし、思いっきり歌も歌えて言うことありません!
もーりんもも
恋愛
義妹の聖女の証を奪って聖女になり代わろうとした罪で、辺境の地を治める老貴族と結婚しろと王に命じられ、王都から追放されてしまったアデリーン。
ところが、結婚相手の領主アドルフ・ジャンポール侯爵は、結婚式当日に老衰で死んでしまった。
王様の命令は、「ジャンポール家の当主と結婚せよ」ということで、急遽ジャンポール家の当主となった孫息子ユリウスと結婚することに。
ユリウスの結婚の誓いの言葉は「ふん。ゲス女め」。
それでもアデリーンにとっては、緑豊かなジャンポール領は楽園だった。
誰にも遠慮することなく、美しい森の中で、大好きな歌を思いっきり歌えるから!
アデリーンの歌には不思議な力があった。その歌声は万物を癒し、ユリウスの心までをも溶かしていく……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる