手放したのは、貴方の方です

空月そらら

文字の大きさ
15 / 60

第15話 公爵の執務室

しおりを挟む
翌日の午前、私はクラウス執事に案内され、ライオネル公爵の執務室へと向かった。昨日、公爵から直接「来るように」と言われたものの、いざその時が近づくと、やはり緊張で心臓が早鐘を打つのを感じる。

(私なんかの意見が、本当に役に立つのだろうか……)

不安がなかったわけではない。けれど、それ以上に、ほんの少しでも自分の能力を試せる機会を与えられたことへの、微かな興奮のようなものも感じていた。エスタードでは、私の意見は常にレオンハルト殿下というフィルターを通してしか世に出ることはなかった。けれど、ここでは……もしかしたら、違うのかもしれない。

公爵の執務室は、屋敷の最上階に近い、日当たりの良い角部屋だった。重厚な扉を開けると、そこには広々とした空間が広がっていた。壁一面は天井まで届く書架で埋め尽くされ、そこにはびっしりと専門書や資料らしきものが並んでいる。大きな執務机の上には、書類の山と、いくつかの精巧な工芸品のような道具――おそらくは天球儀や最新の測定器具か何かだろう――が置かれている。華美な装飾は一切なく、徹底的に機能性を追求した、まさに「仕事場」といった雰囲気だ。

窓からは、ヴァルテンシュタットの街並みと、その向こうに広がるガルディアの雄大な大地が一望できた。この場所から、公爵は国全体を見渡し、様々な決断を下しているのだろう。そう思うと、自然と背筋が伸びる思いがした。

ライオネル公爵は、すでに執務机に向かい、何かの書類に目を通していた。その真剣な横顔は、普段の冷たい印象に加えて、さらに厳しい知性が加わったように見える。私が入室したことに気づくと、彼は顔を上げ、静かに言った。

「来たか、アリアナ。そこに掛けるといい」

彼が示したのは、執務机の向かいに置かれた、客用の椅子だった。私は緊張しながらも、言われた通りに腰を下ろした。

「さて、早速だが……」

公爵はそう言うと、机の上に広げられていた一枚の大きな地図と、いくつかの資料を私の前に滑らせた。

「これは、我が国の北部山岳地帯における、新たな鉱物資源の採掘計画に関するものだ。すでにいくつかの有望な鉱脈が発見されているが、問題は、その採掘方法と、採掘した資源の輸送ルート、そして何よりも、周辺環境への影響と、そこに住む少数民族への配慮だ」

彼の説明は、簡潔で的確だった。示された資料には、地質調査のデータ、輸送コストの試算、環境アセスメントの初期報告などがまとめられている。それは、エスタードではお目にかかれないほど詳細で、専門的な内容だった。

「君には、これらの資料を読み込み、忌憚のない意見を聞かせてもらいたい。特に、環境保護と少数民族の権利という観点から、何か見落としている点や、改善すべき点があれば指摘してほしい」

(環境保護と、少数民族の権利……)

それは、経済的な利益ばかりを優先しがちな為政者が見落としやすい、しかし非常に重要な視点だ。この冷徹と噂される公爵が、そういった点にまで配慮しようとしていることに、私は少し驚いた。そして同時に、彼が私に求めているものの大きさを感じ、身が引き締まる思いがした。

最初は、あまりの専門的な内容に戸惑った。けれど、資料を読み進めるうちに、私は自然と、その問題点や改善策について考え始めている自分に気づいた。それは、エスタードで殿下の仕事を手伝っていた時と、何も変わらない感覚だった。ただ、違うのは、目の前にいるのが、私の意見を真摯に聞こうとしてくれている、この国の最高権力者の一人だということ。

数時間、私たちはほとんど言葉も交わさず、それぞれ資料に没頭した。時折、公爵が鋭い質問を投げかけてくることもあったが、それも私の思考を深める助けとなった。

そして、一通り資料を読み終えた時、私はいくつかの疑問点と、自分なりの提案をまとめていた。

「公爵様……いくつか、気づいた点がございまして……」

おそるおそる切り出すと、公爵はペンを置き、私の顔をじっと見つめた。その黒い瞳には、真剣な光が宿っている。

「聞こう」

彼のその一言に後押しされ、私は自分の考えを述べ始めた。輸送ルートの代替案、環境負荷を低減するための具体的な技術、そして何よりも、少数民族との対話の重要性と、彼らの生活文化を尊重した上での共存策……。

話し終えると、公爵はしばらくの間、黙って何かを考えていた。彼の表情からは、何を考えているのか読み取れない。私の意見は、的外れだったのだろうか。それとも、彼の期待に応えられなかったのだろうか。不安が胸をよぎる。

やがて、公爵はゆっくりと口を開いた。

「……なるほど。確かに、その視点は重要だ。特に、少数民族との合意形成プロセスについては、我々も見落としていた点があったかもしれん」

その言葉は、決して手放しの称賛ではなかったけれど、私の意見を真剣に受け止め、評価してくれていることは間違いなく伝わってきた。

(役に、立てた……のかもしれない……)

ほんの少しだけ、胸の中に温かいものが広がっていくのを感じた。それは、達成感と、そして誰かに認められたという喜びだった。

「アリアナ。君の意見は、今後の計画を進める上で、大いに参考にさせてもらう。……ありがとう」

最後に付け加えられた「ありがとう」という言葉は、やはり感情の抑揚はなかったけれど、それでも私の心に深く染み入った。

この日を境に、私とライオネル公爵の間には、「仕事」という共通の話題が生まれた。それは、ぎこちなかった二人の関係に、ほんの少しの変化をもたらす、最初のきっかけとなったのかもしれない。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん
恋愛
社交界の華と謳われた伯爵令嬢セレスティアは、王太子から「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄を告げられる。傷心のまま逃げるように向かったのは、亡き祖母が遺した田舎の小さな屋敷だった。 荒れ果てた屋敷、慣れない一人暮らし、そして庭に住みついた五匹の野良猫たち。途方に暮れるセレスティアの隣には、無愛想で人嫌いな青年医師・ノアが暮らしていた。 「この猫に構うな。人間嫌いだから」 冷たく突き放すノアだが、捨て猫を保護し、傷ついた動物を治療する彼の本当の姿を知るうちに、セレスティアの心は少しずつ惹かれていく。 猫の世話を通じて近づく二人。やがて明かされるノアの過去と、王都から届く縁談の催促。「完璧な令嬢」を脱ぎ捨てた先に待つ、本当の自分と本当の恋——。

【完結】悪役令嬢は折られたフラグに気が付かない〜王子たちは悪役令嬢の平穏を守れるのか!?〜【全23話+おまけ2話】

早奈恵
恋愛
エドウィン王子から婚約破棄されて、修道院でいじめ抜かれて死んでしまう予知夢を見た公爵令嬢アデリアーナは、男爵令嬢のパナピーアに誘惑されてしまうはずの攻略対象者との出会いを邪魔して、予知夢を回避できるのか試そうとする。 婚約破棄への道を自分で潰すつもりなのに、現実は何だか予知夢の内容とどんどんかけ離れて、知らないうちに話が進んでいき……。 宰相インテリ子息、騎士団長の脳筋子息、実家を継ぐために養子になったわんこ系義弟、そして婚約者の王太子エドウィンが頑張る話。 *リハビリに短編を書く予定が中編くらいになってしまいましたが、すでにラストまで書き終えている完結確約作品です。全23話+おまけ2話、よろしくお願いします。 *短い期間ですがHOTランキング1位に到達した作品です。

【完結】廃墟送りの悪役令嬢、大陸一の都市を爆誕させる~冷酷伯爵の溺愛も限界突破しています~

遠野エン
恋愛
王太子から理不尽な婚約破棄を突きつけられた伯爵令嬢ルティア。聖女であるライバルの策略で「悪女」の烙印を押され、すべてを奪われた彼女が追放された先は荒れ果てた「廃墟の街」。人生のどん底――かと思いきや、ルティアは不敵に微笑んだ。 「問題が山積み? つまり、改善の余地(チャンス)しかありませんわ!」 彼女には前世で凄腕【経営コンサルタント】だった知識が眠っていた。 瓦礫を資材に変えてインフラ整備、ゴロツキたちを警備隊として雇用、嫌われ者のキノコや雑草(?)を名物料理「キノコスープ」や「うどん」に変えて大ヒット! 彼女の手腕によって、死んだ街は瞬く間に大陸随一の活気あふれる自由交易都市へと変貌を遂げる! その姿に、当初彼女を蔑んでいた冷酷伯爵シオンの心も次第に溶かされていき…。 一方、ルティアを追放した王国は経済が破綻し、崩壊寸前。焦った元婚約者の王太子がやってくるが、幸せな市民と最愛の伯爵に守られた彼女にもう死角なんてない――――。 知恵と才覚で運命を切り拓く、痛快逆転サクセス&シンデレラストーリー、ここに開幕!

「醜い」と婚約破棄された銀鱗の令嬢、氷の悪竜辺境伯に嫁いだら、呪いを癒やす聖女として溺愛されました

黒崎隼人
恋愛
「醜い銀の鱗を持つ呪われた女など、王妃にはふさわしくない!」 衆人環視の夜会で、婚約者の王太子にそう罵られ、アナベルは捨てられた。 実家である公爵家からも疎まれ、孤独に生きてきた彼女に下されたのは、「氷の悪竜」と恐れられる辺境伯・レオニールのもとへ嫁げという非情な王命だった。 彼の体に触れた者は黒い呪いに蝕まれ、死に至るという。それは事実上の死刑宣告。 全てを諦め、死に場所を求めて辺境の地へと赴いたアナベルだったが、そこで待っていたのは冷徹な魔王――ではなく、不器用で誠実な、ひとりの青年だった。 さらに、アナベルが忌み嫌っていた「銀の鱗」には、レオニールの呪いを癒やす聖なる力が秘められていて……?

【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った

五色ひわ
恋愛
 辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。アメリアは真実を確かめるため、3年ぶりに王都へと旅立った。 ※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話

本物聖女の力は無力でした ――見世物レベルの聖女のおかげで婚約破棄されました――**

鷹 綾
恋愛
魔法が存在しないと信じられていた世界に、 突如として現れた「本物の聖女」。 空中浮遊、瞬間移動、念動力―― 奇跡を披露した平民の少女は、たちまち市民の熱狂を集め、 王太子はその力に目を奪われる。 その結果、 王太子の婚約者だった公爵令嬢アストリアは、 一方的に婚約を破棄されてしまった。 だが、聖女の力は―― ・空中浮遊は、地上三十センチ ・瞬間移動は、秒速一メートル ・念動力は、手で持てる重さまで 派手ではあるが、実用性は乏しい。 聖女の力は、見世物レベル。 少なくとも、誰もがそう判断していた。 それでも人々は喝采し、 権威は少女を縛り、 「聖女」という立場だけが一人歩きしていく。 そんな中、婚約破棄された公爵令嬢アストリアは、 ある違和感に気づき始める。 ――奇跡よりも、奪われているものがあることに。 派手な復讐はない。 怒鳴り返しもしない。 けれど静かに、確実に、 “正しさ”は明らかになっていく。 見世物にされた奇跡と、 尊厳を取り戻す少女たちの物語。 ---

【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。

みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」 魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。 ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。 あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で一人の騎士と運命的な出会いをする。 【2024年3月16日完結、全58話】

【完結】ルイーズの献身~世話焼き令嬢は婚約者に見切りをつけて完璧侍女を目指します!~

青依香伽
恋愛
ルイーズは婚約者を幼少の頃から家族のように大切に思っていた そこに男女の情はなかったが、将来的には伴侶になるのだからとルイーズなりに尽くしてきた しかし彼にとってルイーズの献身は余計なお世話でしかなかったのだろう 婚約者の裏切りにより人生の転換期を迎えるルイーズ 婚約者との別れを選択したルイーズは完璧な侍女になることができるのか この物語は様々な人たちとの出会いによって、成長していく女の子のお話 *更新は不定期です *加筆修正中です

処理中です...