手放したのは、貴方の方です

空月そらら

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第15話 公爵の執務室

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翌日の午前、私はクラウス執事に案内され、ライオネル公爵の執務室へと向かった。昨日、公爵から直接「来るように」と言われたものの、いざその時が近づくと、やはり緊張で心臓が早鐘を打つのを感じる。

(私なんかの意見が、本当に役に立つのだろうか……)

不安がなかったわけではない。けれど、それ以上に、ほんの少しでも自分の能力を試せる機会を与えられたことへの、微かな興奮のようなものも感じていた。エスタードでは、私の意見は常にレオンハルト殿下というフィルターを通してしか世に出ることはなかった。けれど、ここでは……もしかしたら、違うのかもしれない。

公爵の執務室は、屋敷の最上階に近い、日当たりの良い角部屋だった。重厚な扉を開けると、そこには広々とした空間が広がっていた。壁一面は天井まで届く書架で埋め尽くされ、そこにはびっしりと専門書や資料らしきものが並んでいる。大きな執務机の上には、書類の山と、いくつかの精巧な工芸品のような道具――おそらくは天球儀や最新の測定器具か何かだろう――が置かれている。華美な装飾は一切なく、徹底的に機能性を追求した、まさに「仕事場」といった雰囲気だ。

窓からは、ヴァルテンシュタットの街並みと、その向こうに広がるガルディアの雄大な大地が一望できた。この場所から、公爵は国全体を見渡し、様々な決断を下しているのだろう。そう思うと、自然と背筋が伸びる思いがした。

ライオネル公爵は、すでに執務机に向かい、何かの書類に目を通していた。その真剣な横顔は、普段の冷たい印象に加えて、さらに厳しい知性が加わったように見える。私が入室したことに気づくと、彼は顔を上げ、静かに言った。

「来たか、アリアナ。そこに掛けるといい」

彼が示したのは、執務机の向かいに置かれた、客用の椅子だった。私は緊張しながらも、言われた通りに腰を下ろした。

「さて、早速だが……」

公爵はそう言うと、机の上に広げられていた一枚の大きな地図と、いくつかの資料を私の前に滑らせた。

「これは、我が国の北部山岳地帯における、新たな鉱物資源の採掘計画に関するものだ。すでにいくつかの有望な鉱脈が発見されているが、問題は、その採掘方法と、採掘した資源の輸送ルート、そして何よりも、周辺環境への影響と、そこに住む少数民族への配慮だ」

彼の説明は、簡潔で的確だった。示された資料には、地質調査のデータ、輸送コストの試算、環境アセスメントの初期報告などがまとめられている。それは、エスタードではお目にかかれないほど詳細で、専門的な内容だった。

「君には、これらの資料を読み込み、忌憚のない意見を聞かせてもらいたい。特に、環境保護と少数民族の権利という観点から、何か見落としている点や、改善すべき点があれば指摘してほしい」

(環境保護と、少数民族の権利……)

それは、経済的な利益ばかりを優先しがちな為政者が見落としやすい、しかし非常に重要な視点だ。この冷徹と噂される公爵が、そういった点にまで配慮しようとしていることに、私は少し驚いた。そして同時に、彼が私に求めているものの大きさを感じ、身が引き締まる思いがした。

最初は、あまりの専門的な内容に戸惑った。けれど、資料を読み進めるうちに、私は自然と、その問題点や改善策について考え始めている自分に気づいた。それは、エスタードで殿下の仕事を手伝っていた時と、何も変わらない感覚だった。ただ、違うのは、目の前にいるのが、私の意見を真摯に聞こうとしてくれている、この国の最高権力者の一人だということ。

数時間、私たちはほとんど言葉も交わさず、それぞれ資料に没頭した。時折、公爵が鋭い質問を投げかけてくることもあったが、それも私の思考を深める助けとなった。

そして、一通り資料を読み終えた時、私はいくつかの疑問点と、自分なりの提案をまとめていた。

「公爵様……いくつか、気づいた点がございまして……」

おそるおそる切り出すと、公爵はペンを置き、私の顔をじっと見つめた。その黒い瞳には、真剣な光が宿っている。

「聞こう」

彼のその一言に後押しされ、私は自分の考えを述べ始めた。輸送ルートの代替案、環境負荷を低減するための具体的な技術、そして何よりも、少数民族との対話の重要性と、彼らの生活文化を尊重した上での共存策……。

話し終えると、公爵はしばらくの間、黙って何かを考えていた。彼の表情からは、何を考えているのか読み取れない。私の意見は、的外れだったのだろうか。それとも、彼の期待に応えられなかったのだろうか。不安が胸をよぎる。

やがて、公爵はゆっくりと口を開いた。

「……なるほど。確かに、その視点は重要だ。特に、少数民族との合意形成プロセスについては、我々も見落としていた点があったかもしれん」

その言葉は、決して手放しの称賛ではなかったけれど、私の意見を真剣に受け止め、評価してくれていることは間違いなく伝わってきた。

(役に、立てた……のかもしれない……)

ほんの少しだけ、胸の中に温かいものが広がっていくのを感じた。それは、達成感と、そして誰かに認められたという喜びだった。

「アリアナ。君の意見は、今後の計画を進める上で、大いに参考にさせてもらう。……ありがとう」

最後に付け加えられた「ありがとう」という言葉は、やはり感情の抑揚はなかったけれど、それでも私の心に深く染み入った。

この日を境に、私とライオネル公爵の間には、「仕事」という共通の話題が生まれた。それは、ぎこちなかった二人の関係に、ほんの少しの変化をもたらす、最初のきっかけとなったのかもしれない。
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