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序章
第16話 六歳幼女、領地裏の森へ潜入する
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世界がまだ、深い藍色の帳に包まれている時間。
早朝。
鳥さえもまだ微睡み、夜と朝の境界線が曖昧に溶け合うこの静寂こそが、私の狙っていた唯一の死角だ。
私は自室の窓枠に手をかけ、ひんやりとした朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
屋敷の中は静まり返っている。
あの鉄壁のメイド長アミナといえど、この時間は厨房の下準備のために本館の奥へ移動しているはずだ。
他のメイドたちも巡回を終え、交代の狭間にある。
今しかない。
「行ってきまーす」
私は小さく呟き、窓から身を躍らせた。
二階からの落下。
普通なら大怪我をする高さだが――
「風よ、我が足裏を撫でよ《エア・クッション》」
無詠唱に近い短縮呪文。
足の裏に圧縮した空気の層を展開し、落下衝撃を殺す。
猫が着地するように、音もなく芝生の上に降り立った。
成功だ。
芝生は朝露で濡れている。
心臓がトクトクと早鐘を打っている。
これは恐怖ではない。高揚感だ。
どうせ後でバレて、アミナや父母から雷が落ちることは確定事項だ。
けれど、今はその説教の恐怖よりも、渇望が勝っていた。
私は建物の影を縫うように走り、屋敷の敷地境界へと向かう。
整備された美しい庭園を出た。
そうして、しばらく歩くと、そこには鬱蒼とした木々が黒い壁のようにそびえ立っていた。
領地のすぐ裏手に広がる『嘆きの森(フォレスト・オブ・モーニング)』だ。
一歩、足を踏み入れる。
瞬間、肌にまとわりつく空気が変わった。
腐葉土と、古い樹皮、そして何かの獣の気配が混じり合った、濃厚な森の息吹。
「……久しぶりね、この感覚」
私は一度深呼吸をして、森の奥へと歩を進めた。
◇ ◇ ◇
森の中は、想像以上に過酷だった。
屋敷の庭とは違い、地面はぬかるみ、木の根が血管のように複雑に隆起している。
頭上を覆う枝葉が日光を遮り、薄暗い霧が立ち込めていて、方向感覚を狂わせる。
「……よいしょ、っと」
隆起した根をまたぎ越すだけでも、六歳の体には一苦労だ。
体力の消耗が早い。
十分も歩かないうちに、息が上がり始めた。
情けない。かつては飛翔魔法で空を飛び、大陸を横断したこともある私が、たかだか数百メートル歩いただけで音を上げそうになっているなんて。
私は額の汗を拭いながら、周囲を見渡した。
この森は生きている。
木々の一本一本が微弱な魔力を放ち、それが大気中で混ざり合い、独特の生態系を作っている。
クライブが「危ないから行くな」と止めたのも頷ける。
ここは、人の領域ではない。
魔物が跋扈する、弱肉強食の世界だ。
私は立ち止まり、目を閉じた。
極小の魔力を使い、周囲の空気の振動を感知する。
風が私の肌を撫で、情報を伝えてくる。
小鳥のさえずり、葉擦れの音、小川のせせらぎ。
そして――。
――ズシン、ズシン。
明らかな、異物が引っかかった。
重い。あまりにも重い振動。
そして、下卑た笑い声。
「……こっちね」
私は目を開き、気配のする方角を見定めた。
慎重に、音を立てないように。
私は茂みをかき分け、泥に足を取られないように注意しながら進んだ。
やがて、少し開けた場所に出た。
巨木が倒れ、ぽっかりと空いた空間。
私は大きな岩場の陰に身を隠し、そっと様子を覗き見る。
息を呑んだ。
そこにいたのは、子供のお伽話に出てくるような可愛いクマさんではない。
悪夢から抜け出してきたような、異形の怪物だった。
体高は三メートル近いだろうか。
全身を鋼のような剛毛に覆われた、二足歩行の巨熊。
あれは戦熊だ。
ただの熊ではない。魔力によって変異し、知性を獲得した上位種だ。
分厚い筋肉の鎧を纏ったその体は、圧倒的な暴力を具現化したかのよう。
その丸太のような腕には、血と泥で黒ずんだ巨大な戦斧が握られている。
二足歩行に、武器の使用。知能が高いわね。
戦熊は何かを怒鳴り散らしながら、足元の地面を斧の柄で小突いていた。
「オラオラァ! どうした、もう終わりか? ええ?」
その視線の先にいたのは――小さな、黒い塊だった。
私は目を凝らす。
それは、黒い毛並みの子猫だった。
早朝。
鳥さえもまだ微睡み、夜と朝の境界線が曖昧に溶け合うこの静寂こそが、私の狙っていた唯一の死角だ。
私は自室の窓枠に手をかけ、ひんやりとした朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
屋敷の中は静まり返っている。
あの鉄壁のメイド長アミナといえど、この時間は厨房の下準備のために本館の奥へ移動しているはずだ。
他のメイドたちも巡回を終え、交代の狭間にある。
今しかない。
「行ってきまーす」
私は小さく呟き、窓から身を躍らせた。
二階からの落下。
普通なら大怪我をする高さだが――
「風よ、我が足裏を撫でよ《エア・クッション》」
無詠唱に近い短縮呪文。
足の裏に圧縮した空気の層を展開し、落下衝撃を殺す。
猫が着地するように、音もなく芝生の上に降り立った。
成功だ。
芝生は朝露で濡れている。
心臓がトクトクと早鐘を打っている。
これは恐怖ではない。高揚感だ。
どうせ後でバレて、アミナや父母から雷が落ちることは確定事項だ。
けれど、今はその説教の恐怖よりも、渇望が勝っていた。
私は建物の影を縫うように走り、屋敷の敷地境界へと向かう。
整備された美しい庭園を出た。
そうして、しばらく歩くと、そこには鬱蒼とした木々が黒い壁のようにそびえ立っていた。
領地のすぐ裏手に広がる『嘆きの森(フォレスト・オブ・モーニング)』だ。
一歩、足を踏み入れる。
瞬間、肌にまとわりつく空気が変わった。
腐葉土と、古い樹皮、そして何かの獣の気配が混じり合った、濃厚な森の息吹。
「……久しぶりね、この感覚」
私は一度深呼吸をして、森の奥へと歩を進めた。
◇ ◇ ◇
森の中は、想像以上に過酷だった。
屋敷の庭とは違い、地面はぬかるみ、木の根が血管のように複雑に隆起している。
頭上を覆う枝葉が日光を遮り、薄暗い霧が立ち込めていて、方向感覚を狂わせる。
「……よいしょ、っと」
隆起した根をまたぎ越すだけでも、六歳の体には一苦労だ。
体力の消耗が早い。
十分も歩かないうちに、息が上がり始めた。
情けない。かつては飛翔魔法で空を飛び、大陸を横断したこともある私が、たかだか数百メートル歩いただけで音を上げそうになっているなんて。
私は額の汗を拭いながら、周囲を見渡した。
この森は生きている。
木々の一本一本が微弱な魔力を放ち、それが大気中で混ざり合い、独特の生態系を作っている。
クライブが「危ないから行くな」と止めたのも頷ける。
ここは、人の領域ではない。
魔物が跋扈する、弱肉強食の世界だ。
私は立ち止まり、目を閉じた。
極小の魔力を使い、周囲の空気の振動を感知する。
風が私の肌を撫で、情報を伝えてくる。
小鳥のさえずり、葉擦れの音、小川のせせらぎ。
そして――。
――ズシン、ズシン。
明らかな、異物が引っかかった。
重い。あまりにも重い振動。
そして、下卑た笑い声。
「……こっちね」
私は目を開き、気配のする方角を見定めた。
慎重に、音を立てないように。
私は茂みをかき分け、泥に足を取られないように注意しながら進んだ。
やがて、少し開けた場所に出た。
巨木が倒れ、ぽっかりと空いた空間。
私は大きな岩場の陰に身を隠し、そっと様子を覗き見る。
息を呑んだ。
そこにいたのは、子供のお伽話に出てくるような可愛いクマさんではない。
悪夢から抜け出してきたような、異形の怪物だった。
体高は三メートル近いだろうか。
全身を鋼のような剛毛に覆われた、二足歩行の巨熊。
あれは戦熊だ。
ただの熊ではない。魔力によって変異し、知性を獲得した上位種だ。
分厚い筋肉の鎧を纏ったその体は、圧倒的な暴力を具現化したかのよう。
その丸太のような腕には、血と泥で黒ずんだ巨大な戦斧が握られている。
二足歩行に、武器の使用。知能が高いわね。
戦熊は何かを怒鳴り散らしながら、足元の地面を斧の柄で小突いていた。
「オラオラァ! どうした、もう終わりか? ええ?」
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