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4.雪の日
しおりを挟む八雲町は大きくはないが小さくもない人口と広さ。周囲には山が連なり、東と南西に街道が繋がっている。
八雲町含む周辺を統治する藩主に朝陽の父親は仕えていた。山間にあるこの町は街道で多くの町を繋ぎ、便利である反面、攻め入る敵を抑え込むための防衛という役割も担っていた。
その防衛のための要所の一つであったため、藩主が自分に仕える武士の中でも腕のたつものを管理者として任命しており、父親含む歴代の当主たちはその役割をいただいたことを誇りに思っていた。
その考えや気持ちを朝陽はどちらかといえば理解出来る。
家を守り立てることはやはり大事だ。
『三兄弟の中で最も優れているものを、我が家、そして武道場の跡取りにする』
だが朝陽が成人となった四年前、現当主である父親から発せられたこの言葉に色々なものが形を変えた。
母親がこれからの時代は知も大事だと上の兄の優遇を父親に訴え、下の兄と朝陽を冷遇するようになった。
武道場に通う門下生たちの態度が変わった。それまでは三兄弟に分け隔てなかった態度が誰が次代当主となるか伺うようになり、やたらと懐へ入ろうとしてくる者が現れた。
それらはまだマシなほうで、当主自ら指導する武道場には朝陽だけでなく彼の兄二人もいて、三人は父親からの指導のもと、日々体を鍛えて過ごしていたが……人には向き不向きがどうしてもあるわけで、上の兄は武においてはあまり力を発揮できないようだった。
「お前は知のほうが向いているようだな」
下の兄は、怠け癖があった。父親の目がないと、鍛錬より遊びに興じていた。
「お前はもう少し鍛えたほうがいい」
気難しい人で口調こそ冷淡ではあったが、父親はただ事実を口にしただけだろう。
単純に嫌がることもなく鍛錬を続けていた朝陽が、三人の中で最も武を得意としていたのを見抜いていたのもあるのだろう。
それが兄二人の強い嫉妬となり、父親の言葉がきっかけで彼らの行動が酷いものとなった。
「いたた……」
今日の寒さは昨日ほどではないが冷えも重なり、木刀を振る兄の一撃を左手のひらに受けてかなり痛みが走る。
見てわかるほどに赤くなっているが、なんとか指は動くので折れてはいなさそうだ。そう考えて、右手には沸かしたお湯を張った桶を持ち、左手を軽く振りつつその日の鍛錬を終えて自室へ戻った。
四年前ほどの苛烈さはなくなったが、未だに続く兄二人の嫌がらせを超えた虐めにため息しか出ない。
「こんなことする前に、自分を鍛錬すればいいのに」
痛む手を擦りながら誰に言うでもなく呟くと、桶を畳の上に置いて肩から掛けていた手拭いで汗を拭いては桶のお湯で洗うを繰り返す。
少なくとも幼い頃は優しい兄たちだったから、跡継ぎ、当主という立場になりたいがために狂ったんだろうと頭の中で理解はできても、怪我が絶えないのは本当に勘弁してほしいと常々思っている。
何度目かわからないため息を吐き出して、拭き終えたために着物を整えていると、視界の端で動く何かに気づいて顔を上げた。
格子窓の向こうに白い雪がちらついている。
「やっぱり降ってきた」
どんよりと重い雲が空を覆い、一昨日から続く底冷えで雪が降るかもしれないと予想はしていたものの、実際降り出すと寒いよりもふた月ほど前のことを思い出してしまっていた。
「…………」
あの日のように、彼女のいる団子屋は暖かいに違いない。
そう思いついたら我慢できず、朝陽は羽織を着て急ぎ足で屋敷を出た。
地面はまだ雪が降り積もるほどではないものの、人が踏み込まない道の端や屋根の上のあちらこちらに雪がまばらに積もっている。
綾菜に会いたかった。
ただそれだけで足早に道を進み、団子屋の前にたどり着く。
店先には長椅子もなく、人もおらず、しんとしている。だが、店の奥にある調理場には人影があり動いている。
耳を澄ますと微かに声も聞こえてきた。
「お父さん、この組み合わせで新商品にしてみたら美味しいかも」
「ふむ、良いかもしれんな」
彼女の声にホッとして、唇が震えてきたのでぐっと力を入れる。
今にも涙が溢れそうで、そんな顔を見せたくなくて帰ろうと踵を返したのだが、地面を踏む音が聞こえたのか、たまたまなのか、奥の障子が開いてひょっこりと綾菜が顔を覗かせた。
「まあ! 朝陽さま!」
びくりと思わず震えた朝陽に、驚きを隠せない様子の綾菜が駆け寄る。
「こんな寒い中、店に来てくださったのですか!? 散らかっておりますが調理場は暖まっていますので、暖をとってください!」
冷え切った朝陽の右手を取り普段見せない強引さで彼女が引っ張り、調理場へ。
鍋でさつまいもが煮てあり、まな板の上に餅が置いてあった。火を使っているため、調理場は言われた通り暖かい。
無理やり大きめの空箱に座らされると、ふっくらとした体格の綾菜父が調理場から出ていったが、すぐに黒縁に赤い半纏を手に戻ってきた。
「着古したものですがね、冷えた体を暖めてくだせぇ」
羽織の上から朝陽に着せると、火をかけていた鍋からさつまいもを取り出して、洗った鍋に改めて水を張り火にかけると「かーちゃんとこ行ってくるわ」と言い残し、再び調理場から出ていった。
「ごめん、邪魔して」
「いえ大丈夫ですよ」
「お父さん戻ってきたら帰るよ」
「はい」
穏やかな笑顔で綾菜は頷く。
そこで二人は無言となったが、鍋の水が沸いたために綾菜がお茶を淹れてくれた。温かな湯気の上がる湯呑みを受け取り、朝陽はお茶を口にする。
調理場で座るところがないため、綾菜は朝陽と同じ箱の反対側に座った。
背中合わせで顔が見えないのが寂しい反面、今はとてもありがたかった。
涙が滲んで、好きな相手に見せられる顔ではなかったから。
「……」
ふた月前のあの日、兄たちの仕打ちが酷かった。酷いと一口で括っていいのかすら、今でも分からない。
同じように雪がちらつくあの日も鍛錬を終えて汗を拭こうと手拭いと桶を持ったときだった。
汗をかいただろうからと、外で水を張っていたために桶の中で凍っているほどの冷水を掛けられた。
それまで命の危機を感じるほどではなかったが、頭や着物から滴り落ちる雫を呆然と見つめながら、雪が降る日に冷水を掛けるなどもうこれは死んで欲しいと同義だと感じた。
ここまでするほど下の弟が憎くなったのか、狂ったのかと思ったと同時に、そんなに望むなら死のうかなと思い至った。
幸い濡れなかった手拭いで簡単に顔の滴を拭き取ると、笑う兄たちを無視してそのまま外に出た。濡れていることで寒さを感じるはずなのに、それよりも虚しさが勝って人がほぼいない通りを無心で歩く。
どこで死のうかな。あもり様のところがいいかも。天へと昇った龍神様だし、と大通りから社に向かって踵を返して歩き出したところで、偶然通りの路地から出てきた綾菜に見つかった。
「び、びしょ濡れではありませんか!!!」
驚きと恐怖に似た表情で綾菜は見つけた朝陽に駆け寄り、持っていたらしい雪のように白い手拭いで上から拭いていくが凍り始めている着物にそれらの行為に意味はなく、彼女は無理やり手を掴むと家族で営む団子屋まで引いて小走りで向かった。
その日も店内で焚いていた火鉢のそばに朝陽を座らせ、バタバタと大量の手拭いで呆然としている朝陽の髪や手を拭き、お茶を淹れ、着替えを持ってきた。
「…………なんで」
力なく振り絞ったのはこんな言葉。
「放っておけば死んでしまうような状態になった方を雪の降るこんなにも寒い日に放ってはおけません!」
真っ直ぐに自分を見つめる真剣なその眼差しと、心の籠もった真摯な言葉に、勝手に涙が溢れた。
「………あー」
たったふた月ほど前のこととはいえ、思い出した途端、気恥ずかしさで胸がいっぱいになって湯呑みを持っていない手で顔を覆った。
その動きに気づいて、綾菜が体を少し動かしてこちらを伺う。
「どうされました?」
「何でもないよ」
振り向かずに頭を振り、こっそりと手の甲で僅かに滲んでいた涙を拭った。
ふた月前に、すでに泣き顔見られてた。情けない姿見られてた。その事実を思い出して、顔が熱くなる。
死のうかなと考えた日にたまたま出会えた人が放ってはおけないとそばにいてくれた。
おかげであの日からも死なずに生きている。
彼女がいなければ今の自分はいないから、綾菜が特別になるのは当たり前だ。
あの日からきっと綾菜を好きになったのだろう。
鈍すぎる自分が気づかなかっただけで。
「あっ、朝陽さま。実は父と新商品を考えているところなんです。完成したら、ぜひ食べてみてくださいね」
斜め後ろにいる彼女が明るい声でそう話し出した。顔だけで振り向くと、満面の笑みがそこにはある。
にこにこと浮かべている笑顔に釣られて彼は微笑んだ。
「うん、完成したら教えて。楽しみにしてる」
気持ちに気づいても尚、彼女は自分にとって変わらず癒やしの人。
愛しい人。
できることなら、変わらず一緒にいられたらと願わずにはいられなかった。
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