旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾

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私はここへ一度だけ来たことがあった。
スコットが世話になった老婆と、炭焼き男に礼をするためだった。


「あんたは随分使えるね。あの男よりよっぽどいいや」

老婆はバーナードにそう言った。

川で魚を釣って、森で獲物を捕らえる。
力仕事は何でもこなすし、炭焼きの手伝いも上手くできるようになった。

それに何より、バーナードはソフィアに献身的に尽くした。髪を洗い体を拭く。
洗濯をして、いつもきれいなシーツにソフィアを寝かせた。
意識のないソフィアに声をかける。

「心配するな、君は大丈夫だ」

薬も苦い物はすり潰して、果物の実などと一緒にソフィアの口に流し入れた。

人間は意識がなくとも口を開けるものだと老婆は言った。

最初に運ばれた病院で縫われた傷口は化膿せずに塞がっている。

肌に傷跡が残らないようオイルを塗った。老婆は美容にも良いからこれは高値で売れるんだと自らが作ったオイルを自慢した。

「きっと目が覚めたら、彼女は喜ぶでしょう」

表情の出ない顔を覗き込んで、笑ってみせた。

筋肉が固まらないよう、数時間おきに体の向きを変えて寝かせる。毎日関節のマッサージをする。
彼女はとても痩せてしまった。
もっと栄養のある物を食べさせてやりたい。
少ししか喉を通らない彼女のため、何回にも分けて食事を与えた。
ほんのスプーン一杯だけの物だったが、少しずつ量が増えてきているように思える。


「あんたがいれば、老後の面倒もみてくれそうだ」

老婆は薬草を煎じながら楽しそうにガハハと笑った。
バーナードは老婆の老後とはいつのことだと思ったが、口には出さなかった。

彼女に苦しそうな表情が出たときには、バーナードは涙を流して喜んだ。 
ソフィアの意識が戻ったのは、ここへ来て一カ月後のことだった。
それまでは水分を口から入れて、老婆が作った流動食を喉の奥に流し込み、様子を窺う毎日だった。
彼女は自らの意思で水を欲しがった。

あの医者は一週間の命だと言っていた。

けれど彼女は生きた。

三カ月が経つ頃、ソフィアは話ができるようになり、赤子のことを毎日話し、ひたすら心配していた。早く会いたい。帰りたいとしきりに言うようになった。

「すまないソフィア。まだ駄目なんだ。もう少し元気になったら、一緒に帰ろう」

バーナードはそう言ってソフィアを宥めた。

バーナードはソフィアがいなかった間の領地の話をした。
収穫量が増えたから、今年は冬の備蓄食料が沢山確保できた。
保存食として特産のリンゴを使ったジャムづくりを始めた。

サイクスのレーヨンがボルナットにも多く輸出されるようになった。

「そうなのね。領地は潤っているのね。領民たちが安心して暮らせるのは嬉しいことだわ」

バーナードはできるだけ明るい話題を出して話そうとした。

半年後、やっとソフィアは自分の足で歩けるようになった。
ゆっくりとだが、辛くても彼女は頑張ってリハビリに励んだ。

「貴方とこんなに一緒にいるなんて、結婚してから一度もなかったわね」

「そうだな。本当に勿体ないことをしていたと思うよ」

ソフィアに笑顔が見られるようになった。
二度と見ることができないんじゃないかと思っていた。彼女の笑顔に目頭が熱くなった。

ここへ来た時、老婆と一つだけ約束をした。それは、絶対に他の者と連絡を取らないということだった。皆に無事を知らせたかったが、ソフィアのためだと思い、老婆の言い付けを忠実に守った。
そう言えばスコットも、まったく連絡が取れなかったなと思いだしていた。
彼は死んだものだと思っていた。

バーナードはここまで、王宮の馬車でやって来た。途中からは馬車が通れなかったからソフィアを抱いてここまで歩いた。多分ステラ様は自分たちを捜索しているだろう。もしかしたら、居場所は知られているのかもしれない。
けれど、そのことは老婆には黙っていた。

老婆は「ソフィアの命が助からなかったら、罪人になるかもしれないだろう。たまったもんじゃない」と言った。
王様の怒りなんて買いたくないからなと。


バーナードは老婆に「何でもする。金ならいくらでも払う。命と引き換えるなら自分の命を差し出すから、ソフィアを助けてくれ」と泣きながら土下座して頼んだ。

スコットの命を救った老婆だ、ソフィアも必ず助けてくれるとバーナードは信じていた。

「この子の生命力が強かったんだ。若くなきゃ助かってなかった」

老婆はそう言った。


ソフィアは木の切り株に腰を下ろし、森の中の湿った空気を吸い込んだ。

「被害というのは感じやすいけれど、加害というのは感じにくいものなのね」

「どういうことだ?」

「被害を受けてる人っていうのは、すごく大げさに感じるんだけど、加害者はそれほど気にしてないってこと」

「それは……俺に言ってるのか?」

「ふふ、そうよ。嫌味を言ったの」

ソフィアは楽しそうに笑った。

ソフィアは被害者だった。私が加害者だった、私が思っている何倍も自分は辛い思いをしたんだと言いたいのだろう。

「すまなかった。一生かけて償わせてほしい」

「そうね。お願いするわ」

彼女はほほ笑んだ。

冗談かもしれないが、ソフィアも意地悪を言うんだなと私は苦笑した。

しかし彼女は「お願いするわ」と言ってくれた。

一生かけて私に償わせてくれるのだろうか。


口に出さないと、思っていることは伝わらない。
彼女の内に秘めた思いは、余すことなく全て知りたいと思った。

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