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84.抱っこ
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アツリュウがいつも一人になりたい時に来る、古い見張り台跡に佇んで夕日を見ていた。
夏の暑さは、エイヘッドでは夕方になると退いていくようで、日中の暑さは無かったが、石壁はまだ昼間の熱を残していた。
頭の中を占める映像に、先ほどから苦しめられている。
スオウに抱き上げられた姫様が彼に強くしがみついている。違うそうじゃない、あの時彼女は11歳の少女だったはずだ。どうして今の姿で想像してしまうのだろう、誰か俺を止めてくれとアツリュウは心の中で叫ぶ。
それでも11歳は少女とはいえ、抱っこされるには不釣り合いな年齢だろう。女性らしさも少し出てくる頃ではなかろうか。
スオウは知っているのだ。腕に抱いた時の姫様の体の熱や重み、頬に彼女の髪が触れる柔らかさや、彼女の香りをそして………
『ぎゅーってしがみ付いて……』
どうして自分はあの言葉を聞いてしまったか。アツリュウは頭をぐしゃぐしゃに搔きむしって、強烈に込み上げる不快感に耐える。
姫様に強く抱き付かれた時、スオウはどんな気持ちだっただろう。専属で護衛官をしていたなら、姫様があの館で虐げられて、孤独に戦っていることを痛いほど知っていただろう。その少女が必死でしがみついてきたら……
どれほど愛おしかっただろう。
それが恋愛感情でないことは分かる、でも男だったら守ってやりたいと強く思ったはずだ。
スオウはずっと見守ってきたと言っていた。それは大切に思ってきたと告げているのと同義だ。
だからきっと、抱き付いてきた姫様を受けとめた時……スオウも姫様を抱きしめた。
「俺の知らない姫様をスオウは知っている。抱きしめたときの感覚を、あの男の体は知っている」
もう駄目だ、嫉妬の泥沼に深く沈んでいく。どうやってここから這い出したらいいのか、救いは無い気がした。息もできない、苦しくてたまらない。
第一城門から馬車が入ってくるのが見えた。やがて馬車停めに着き、中からヨンキントが出てくるのが見えた。ここにこのまま立っていれば、彼の目に留まるだろう。それとも姿を隠すべきだろうか。
今自分は彼に会いたいのだろうか、こんな嫉妬にまみれて情けないだけの、ごみ屑みたいな……
アツリュウが決められないでいるうちに、広場からヨンキントが自分の姿を見つけてたのだろう、見上げて手を振ってくる。
その様子を見て、少しほっとしている自分がいた。
◇◇◇ ◇◇◇
「どうしたんですか? アツリュウ殿」
求めていた通りの優しい声をヨンキントは掛けてくれた。それなのに素っ気なく答えてしまった。
「どうもしないです」
「そうですか、夕日でも見ていましたか、それではお休みなさい」
ええ! せっかく来てくれたのに行ってしまうのか?
ものすごい情けない顔をしたんだろう。ヨンキントは笑ってそのまま去らずにいてくれた。
「どうしたの?」
いつものように、石壁に肱をかけて、遠くエイヘッドの街並みを見ながらアツリュウは話し出した。
「姫様がすぐに帰ってしまう」
「ああ、この頃リエリー様は領主城によくお越しになりますものね。彼女言っていましたよ、アツリュウは忙しいから、お茶はご一緒しても長居をしないように気をつけていますと。だから、あなたがもっといて欲しいと一言告げれば良いのではないですか?」
「言えません」
「そうでしょうね」
即答されて、ばっと隣に立つ彼の顔を見上げた。少し冷たい目をして彼は笑っていなかった。
「自分で言ったのでしょう? 結婚できないと」
「あなたは何でも知っているんですね」
「何でもでは無いですよ、リエリー様が私に教えてくれたことだけです」
「あなたの所で、姫様は長くいるのでしょう?」
「そうですね、領主城でアツリュウ殿に会った後、私を訪ねてくれます。私も忙しいのでいつでも神殿にいる訳ではないですから、それほど頻繁ではないですけれど、刺繍の作品作りのために1刻ほど一緒に過ごすこともあります」
「姫様はあなたに会うついでに、俺に顔を見せるのだ。きっとそうだ」
子供じみた嫉妬をぶつけているのだと分かっているのに、止められない。なんでこんな話になってしまったのだろう。
「本当にそう思うのですかアツリュウ殿?」
それには答えずに、さらに馬鹿げたことを言ってしまう。
「ヨンキント様はいつか妻帯するつもりなのか?」
神官は2種類の人々がいる。一生独身で神へ身を捧げる者と、妻帯して子を持つ者とだ。
月女神は愛の女神であるから、男女の愛を尊ぶ教義の宗教だ、我が国では神官が妻帯することを禁じる戒律は無い。けれどヨンキントのような上級の神官たちは独身であることが一般的だ。逆にいえば、妻帯しないことが出世の条件なのかもしれない。
「私に興味がおありですか。私自身には、妻帯の希望はありませんが、ヨウクウヒの王家に連なる家の出自では個人の意思ではどうにもできないこともあるのです。将来子を成すことは絶対に私が果たさねばならない当主からの命令ですね。呪縛ともいいましょうか」
神官の口から呪縛というそぐわない言葉が出た。感情を感じさせずに語ったが、彼の複雑な心情を知る気がした。
「それで? 私とリエリー様の仲が気になるの? いつか私が彼女に子供を産ませる気があるのかと聞きたいのですか?」
ずばり直接的に言われて、アツリュウはたじろぐ。
「あなたはリエリー様と結婚しないのでしょう? どうして気になるのですか?」
何も答えられない。この人に嫉妬をぶつけたところで返り討ちにあうだけだと初めから分かっていたことなのに、どうしてこんな情けない方へ落ちていってしまうのか。
「まあ、落ち込んでいるあなたをそんなに追いつめてもかわいそうですかね。あのですね、私は31歳ですので、17歳の姫様はあまりにお若い、そういう気持ちで見たことは一回もないですね。彼女を大好きなあなたに言ってもご理解いただけないとは思いますが」
大好きと言葉にされると辛かった。また街に目をやる、夕日はほとんど沈みかけていた。
「どうしてそんなに私と姫様の仲が気になるのです」
「あなたは私よりもずっと姫様に相応しいと思うからです」
「アツリュウ殿は姫様に相応しくないのですか?」
横を向いたまま頷いた。
「姫様に相応しいかどうかは、あなたが決めるのではなく、姫様が決めるのですよ」
この人は言い返し難いことばかり言う。
「姫様が俺を相応しいと思ったとしても、それは本当の俺を知らないからだ。姫様は俺のことを知りたいというけれど、俺は知られるくらいなら死んだ方がましだ」
ヨンキントが声をだして笑った。
「なんで笑うんです。俺は真剣に話しているのに」
「いや、思春期の少年のようなことをあなたが真面目に言うので、あまりに可愛くて」
「いつもそうだ、ヨンキント様は俺のことを可愛いという。どれだけ屈辱的が分かっていない。スオウだってそうだ、鼻でわらって、可愛いからデカい男に俺が食われるって言いやがった。俺だって好きで小さく生まれたわけじゃないんだ。スオウの馬鹿野郎は、なんでエイヘッドに来たりしたんだ、きっと姫様に会いにきたんだ。あいつはあんな澄ました顔しているけど、姫様に気があるんだ」
一体何を言ったのか、そして何を言いたいのかも訳が分からなくなって、アツリュウはわあわあ早口でまくし立てた。
「ははは、いやもう、勘弁してください、何をそんなに怒っているのか知りませんけど、私をこれ以上笑わせないで。スオウ殿にも嫉妬してるの? ちょっと冷静になってみてくださいよ、スオウ殿がエイヘッドに来た時、姫様はモーリヒルドにいましたよ。姫様に気があるならモーリヒルドにいた方がいいのではないですか?」
言われて我に返る。そうだった、姫様は後から来たのだった。
「それなら、姫様がスオウに会いにきたんだ」
言葉に出した後、物すごく恥ずかしくなった。姫様は命をかけて、俺に危険があると教えに来たのだ。それなのに姫様の気持ちを貶めるようなことを言ってしまったと思った。
「もう酔っぱらっているかと思うくらい、ぐだぐだのどろどろで嫉妬の塊になっているのですね、スオウ殿が姫様に何かするとは思えないのですけど何かあったのですか?」
「何にもない、絶対に何もない!」
むきになって言い返すと、ヨンキントが嫌な感じで、にやりと口の端を上げた。
「分かりましたよ。『あの時』を聞いてしまったのですね」
びくっとして、体を無意識のうちに後ろに引いていた。この人怖い、なんで分かったんだ。
「私もね、あのお茶会で姫様が『あの時もありがとう』とスオウ殿に言ったとき、なんだか時別な感じだなと思ったのですよ。ああー、アツリュウ殿それを聞いてしまったんだ。そして、その出来事がものすごく特別だったのですね、何だったのです、興味があります教えてください」
身を引いた分だけ、ずいとヨンキントが体を寄せて来た。
「特別なことなんて何も……」
「ふふ、あの時を聞いてしまったことを否定しないんですね」
この人の話術にどんどんはめられて、逃げ道を塞がれていく。
「それで、スオウ殿と姫様の間に何があったのです、二人はキスでもしていましたか?」
「そう言うことを言葉にするな!」
苛立ちに顔をぐっと近づけて睨みつけた。ヨンキントはひどく驚いた顔をした。
「ものすごい反応ですね。ちょっとびっくりしました。アツリュウ殿はもしかして、言葉にすると瞬時に映像を思い浮かべてしまう性質なのですか? 今もキスの映像がはっきり頭に浮かんだ?」
「何を言っているんですか、みんなそうでしょう?」
「いえいえとんでもない、あなたのように言葉を聞いたと同時に映像を思い浮かべることは、全ての人ができる訳ではないのです。そしておそらく、アツリュウ殿はそれがものすごく得意で鮮明に思い浮かべてしまうのでしょう」
思いがけない話で、ヨンキントの言っていることがすぐには飲み込めなかった。
「私は神官ですから人の悩みを、とにかくたくさん聞くのです。それで分かったのですが、身体感覚というのは本当に人それぞれ違うのです。あなたとは逆に、どんなに言葉を尽くして説明しても、映像で想像できない人もいるのですよ」
そう言われると、思い当たることがあった。さっきまで自分を苦しめていたのは、まさにそれだ。スオウにしがみ付いている姫様が頭の中に鮮明な姿で見えるのだから。
「姫様が……抱っこされたと言ったのです。怪我をした時、護衛官だったスオウに抱いて運ばれたことがあると……彼女が11歳の時の話です」
「なんだ、それだけ」
ヨンキントはおやおやとつぶやいた。
「誰からも抱き上げてなどもらえずに独りだったから、抱っこされてすごく嬉しかったそうです。ぎゅーってしがみ付いたら安心したと。本当は歩けるのにそれを黙っていたそうです」
「可愛らしい話ですね。スオウ殿もきっと可愛いなあと思ったでしょうね。少女に対して大人としてですよ」
アツリュウは頷いた、スオウが分別ある大人としてその時対処したであろうことを分かっていた。ならばどうしてこんなに苦しいのか。
「まあ、想像してしまえば、ちょっと強烈な映像ではあります。嫉妬してしまう気持ちもわかります」
アツリュウは肩を下ろした。想像しないようにするのは難しいだろうなと思った。
「そういう場合は、事実を事実として反芻するんです。例えを出しますよ、生まれつき足の悪い少年が、どうして僕は走れないのかと考えます。一つは僕は駄目な奴だだから走れないと自分を責める。もう一つはこう考える。自分は足が悪いから走れないのだな。アツリュウ殿はどちらが少年にとって良い考え方だと思いますか?」
「後者ですかね」
「そうですね、私もそう思います。走れないという事実は、どちらにしろ変わらない。ですが、気持ちの感じかたは違う。前者は己を責めますが、後者はただ、事実をそのまま事実として受け止めただけです。気持ちの負担はこちらの方が軽いのではないでしょうか」
アツリュウはその通りだと思った。
「では、アツリュウ殿に置き換えてみて、想像するのを止められない。自分はこんなことを想像して駄目だと言う替わりに、事実を事実として言うならば、『自分は想像してしまう性質なのだ』と己に言ってやりなさい」
面食らって「はい」と生徒が答えるように言ってから、少しぽかんとしてした。
嫉妬の底なし沼から、もう出られないと思ったが、この人が手を伸ばしてきてするりと引き上げられた。この人はいったい何者なんだろう……ああそうか神官か。
ぼーっとヨンキントを見ていた。彼の背の空は次第に暮れて、夕日の最後の朱色が藍色に溶けだしていた。
「アツリュウ殿、私は思うのですが、あなたが向き合うべき問題の本質がずれています」
真面目な顔の彼に「なんですか?問題の本質って」と聞き返した。
「あなたは、リエリー様と結婚しないと告げたどころか、他の誰かと結婚して欲しいと言ったそうですね。すなわちそれは、リエリー様が他の男と暮らして、その男に彼女が抱かれてもかまわないと言っているのと同じですよ。あなたはそれに耐えられるのですか? 子供の時の抱っこでさえ、そんなにぐらぐらしているのに」
俺が姫様に言った意味なんて分かっている。自分が耐えられない事だって知っている。
アツリュウは拳を握りしめた。
「どうして結婚できないんです」
「俺が姫様に相応しくないからです」
「またそれだ、アツリュウ殿はその考えに捕らわれている」
そう彼は言ったきり、探るように目を覗き込んでくる。嫌な予感がした、この人は話さないことまで読んでくる。
「嫉妬の塊なのに、結婚を拒否する。その理由も訳がわからない……あなたは姫様から逃げてきたのですね。アツリュウ殿違いますか?」
何も答えて無いのにヨンキント様はふふっと意地悪く笑った。
「リエリー様が他の男のものになるのを目の前にするなんて、あなたが耐えられる訳がない。だから逃げて来た。モーリヒルドから最も遠いこの北の果てのエイヘッドに」
そのまま、質問責めにされるのかと思ったが、ヨンキントはため息をついて「困りましたね、アツリュウ殿、ここまで逃げたのに、姫様追いかけて来てしまいましたね」と優しく言った。
「苦しいですか?」
それは意外な問いかけだった。そしてその問いに素直に頷いたら最後、この恐ろしい人に、自分の何もかもを暴かれてしまう気がした。ごみ屑のように価値の無い、汚らしい自分に気づかれてしまう恐怖が一気に襲い掛かってきた。
「苦しくない」
顔も見ずに告げて、ヨンキントに背を向けた。
「もう薄暗いから危ないですよ、神殿側の階段から降りましょう」
「大丈夫です、落ちた場合のことはいつでも想定して動いているから」
アツリュウはいつものように石壁の上に飛び乗った。
「この高さから落ちてもアツリュウ殿は何とかなるの?」
振り返って無理やり笑い顔をつくった。
「この高さから落ちたら、さすがに死ぬ」
「え、ちょっとアツリュウ殿」
ヨンキントの声には振り返らずに、石壁の上を飛びながら領主城に逃げた。
夏の暑さは、エイヘッドでは夕方になると退いていくようで、日中の暑さは無かったが、石壁はまだ昼間の熱を残していた。
頭の中を占める映像に、先ほどから苦しめられている。
スオウに抱き上げられた姫様が彼に強くしがみついている。違うそうじゃない、あの時彼女は11歳の少女だったはずだ。どうして今の姿で想像してしまうのだろう、誰か俺を止めてくれとアツリュウは心の中で叫ぶ。
それでも11歳は少女とはいえ、抱っこされるには不釣り合いな年齢だろう。女性らしさも少し出てくる頃ではなかろうか。
スオウは知っているのだ。腕に抱いた時の姫様の体の熱や重み、頬に彼女の髪が触れる柔らかさや、彼女の香りをそして………
『ぎゅーってしがみ付いて……』
どうして自分はあの言葉を聞いてしまったか。アツリュウは頭をぐしゃぐしゃに搔きむしって、強烈に込み上げる不快感に耐える。
姫様に強く抱き付かれた時、スオウはどんな気持ちだっただろう。専属で護衛官をしていたなら、姫様があの館で虐げられて、孤独に戦っていることを痛いほど知っていただろう。その少女が必死でしがみついてきたら……
どれほど愛おしかっただろう。
それが恋愛感情でないことは分かる、でも男だったら守ってやりたいと強く思ったはずだ。
スオウはずっと見守ってきたと言っていた。それは大切に思ってきたと告げているのと同義だ。
だからきっと、抱き付いてきた姫様を受けとめた時……スオウも姫様を抱きしめた。
「俺の知らない姫様をスオウは知っている。抱きしめたときの感覚を、あの男の体は知っている」
もう駄目だ、嫉妬の泥沼に深く沈んでいく。どうやってここから這い出したらいいのか、救いは無い気がした。息もできない、苦しくてたまらない。
第一城門から馬車が入ってくるのが見えた。やがて馬車停めに着き、中からヨンキントが出てくるのが見えた。ここにこのまま立っていれば、彼の目に留まるだろう。それとも姿を隠すべきだろうか。
今自分は彼に会いたいのだろうか、こんな嫉妬にまみれて情けないだけの、ごみ屑みたいな……
アツリュウが決められないでいるうちに、広場からヨンキントが自分の姿を見つけてたのだろう、見上げて手を振ってくる。
その様子を見て、少しほっとしている自分がいた。
◇◇◇ ◇◇◇
「どうしたんですか? アツリュウ殿」
求めていた通りの優しい声をヨンキントは掛けてくれた。それなのに素っ気なく答えてしまった。
「どうもしないです」
「そうですか、夕日でも見ていましたか、それではお休みなさい」
ええ! せっかく来てくれたのに行ってしまうのか?
ものすごい情けない顔をしたんだろう。ヨンキントは笑ってそのまま去らずにいてくれた。
「どうしたの?」
いつものように、石壁に肱をかけて、遠くエイヘッドの街並みを見ながらアツリュウは話し出した。
「姫様がすぐに帰ってしまう」
「ああ、この頃リエリー様は領主城によくお越しになりますものね。彼女言っていましたよ、アツリュウは忙しいから、お茶はご一緒しても長居をしないように気をつけていますと。だから、あなたがもっといて欲しいと一言告げれば良いのではないですか?」
「言えません」
「そうでしょうね」
即答されて、ばっと隣に立つ彼の顔を見上げた。少し冷たい目をして彼は笑っていなかった。
「自分で言ったのでしょう? 結婚できないと」
「あなたは何でも知っているんですね」
「何でもでは無いですよ、リエリー様が私に教えてくれたことだけです」
「あなたの所で、姫様は長くいるのでしょう?」
「そうですね、領主城でアツリュウ殿に会った後、私を訪ねてくれます。私も忙しいのでいつでも神殿にいる訳ではないですから、それほど頻繁ではないですけれど、刺繍の作品作りのために1刻ほど一緒に過ごすこともあります」
「姫様はあなたに会うついでに、俺に顔を見せるのだ。きっとそうだ」
子供じみた嫉妬をぶつけているのだと分かっているのに、止められない。なんでこんな話になってしまったのだろう。
「本当にそう思うのですかアツリュウ殿?」
それには答えずに、さらに馬鹿げたことを言ってしまう。
「ヨンキント様はいつか妻帯するつもりなのか?」
神官は2種類の人々がいる。一生独身で神へ身を捧げる者と、妻帯して子を持つ者とだ。
月女神は愛の女神であるから、男女の愛を尊ぶ教義の宗教だ、我が国では神官が妻帯することを禁じる戒律は無い。けれどヨンキントのような上級の神官たちは独身であることが一般的だ。逆にいえば、妻帯しないことが出世の条件なのかもしれない。
「私に興味がおありですか。私自身には、妻帯の希望はありませんが、ヨウクウヒの王家に連なる家の出自では個人の意思ではどうにもできないこともあるのです。将来子を成すことは絶対に私が果たさねばならない当主からの命令ですね。呪縛ともいいましょうか」
神官の口から呪縛というそぐわない言葉が出た。感情を感じさせずに語ったが、彼の複雑な心情を知る気がした。
「それで? 私とリエリー様の仲が気になるの? いつか私が彼女に子供を産ませる気があるのかと聞きたいのですか?」
ずばり直接的に言われて、アツリュウはたじろぐ。
「あなたはリエリー様と結婚しないのでしょう? どうして気になるのですか?」
何も答えられない。この人に嫉妬をぶつけたところで返り討ちにあうだけだと初めから分かっていたことなのに、どうしてこんな情けない方へ落ちていってしまうのか。
「まあ、落ち込んでいるあなたをそんなに追いつめてもかわいそうですかね。あのですね、私は31歳ですので、17歳の姫様はあまりにお若い、そういう気持ちで見たことは一回もないですね。彼女を大好きなあなたに言ってもご理解いただけないとは思いますが」
大好きと言葉にされると辛かった。また街に目をやる、夕日はほとんど沈みかけていた。
「どうしてそんなに私と姫様の仲が気になるのです」
「あなたは私よりもずっと姫様に相応しいと思うからです」
「アツリュウ殿は姫様に相応しくないのですか?」
横を向いたまま頷いた。
「姫様に相応しいかどうかは、あなたが決めるのではなく、姫様が決めるのですよ」
この人は言い返し難いことばかり言う。
「姫様が俺を相応しいと思ったとしても、それは本当の俺を知らないからだ。姫様は俺のことを知りたいというけれど、俺は知られるくらいなら死んだ方がましだ」
ヨンキントが声をだして笑った。
「なんで笑うんです。俺は真剣に話しているのに」
「いや、思春期の少年のようなことをあなたが真面目に言うので、あまりに可愛くて」
「いつもそうだ、ヨンキント様は俺のことを可愛いという。どれだけ屈辱的が分かっていない。スオウだってそうだ、鼻でわらって、可愛いからデカい男に俺が食われるって言いやがった。俺だって好きで小さく生まれたわけじゃないんだ。スオウの馬鹿野郎は、なんでエイヘッドに来たりしたんだ、きっと姫様に会いにきたんだ。あいつはあんな澄ました顔しているけど、姫様に気があるんだ」
一体何を言ったのか、そして何を言いたいのかも訳が分からなくなって、アツリュウはわあわあ早口でまくし立てた。
「ははは、いやもう、勘弁してください、何をそんなに怒っているのか知りませんけど、私をこれ以上笑わせないで。スオウ殿にも嫉妬してるの? ちょっと冷静になってみてくださいよ、スオウ殿がエイヘッドに来た時、姫様はモーリヒルドにいましたよ。姫様に気があるならモーリヒルドにいた方がいいのではないですか?」
言われて我に返る。そうだった、姫様は後から来たのだった。
「それなら、姫様がスオウに会いにきたんだ」
言葉に出した後、物すごく恥ずかしくなった。姫様は命をかけて、俺に危険があると教えに来たのだ。それなのに姫様の気持ちを貶めるようなことを言ってしまったと思った。
「もう酔っぱらっているかと思うくらい、ぐだぐだのどろどろで嫉妬の塊になっているのですね、スオウ殿が姫様に何かするとは思えないのですけど何かあったのですか?」
「何にもない、絶対に何もない!」
むきになって言い返すと、ヨンキントが嫌な感じで、にやりと口の端を上げた。
「分かりましたよ。『あの時』を聞いてしまったのですね」
びくっとして、体を無意識のうちに後ろに引いていた。この人怖い、なんで分かったんだ。
「私もね、あのお茶会で姫様が『あの時もありがとう』とスオウ殿に言ったとき、なんだか時別な感じだなと思ったのですよ。ああー、アツリュウ殿それを聞いてしまったんだ。そして、その出来事がものすごく特別だったのですね、何だったのです、興味があります教えてください」
身を引いた分だけ、ずいとヨンキントが体を寄せて来た。
「特別なことなんて何も……」
「ふふ、あの時を聞いてしまったことを否定しないんですね」
この人の話術にどんどんはめられて、逃げ道を塞がれていく。
「それで、スオウ殿と姫様の間に何があったのです、二人はキスでもしていましたか?」
「そう言うことを言葉にするな!」
苛立ちに顔をぐっと近づけて睨みつけた。ヨンキントはひどく驚いた顔をした。
「ものすごい反応ですね。ちょっとびっくりしました。アツリュウ殿はもしかして、言葉にすると瞬時に映像を思い浮かべてしまう性質なのですか? 今もキスの映像がはっきり頭に浮かんだ?」
「何を言っているんですか、みんなそうでしょう?」
「いえいえとんでもない、あなたのように言葉を聞いたと同時に映像を思い浮かべることは、全ての人ができる訳ではないのです。そしておそらく、アツリュウ殿はそれがものすごく得意で鮮明に思い浮かべてしまうのでしょう」
思いがけない話で、ヨンキントの言っていることがすぐには飲み込めなかった。
「私は神官ですから人の悩みを、とにかくたくさん聞くのです。それで分かったのですが、身体感覚というのは本当に人それぞれ違うのです。あなたとは逆に、どんなに言葉を尽くして説明しても、映像で想像できない人もいるのですよ」
そう言われると、思い当たることがあった。さっきまで自分を苦しめていたのは、まさにそれだ。スオウにしがみ付いている姫様が頭の中に鮮明な姿で見えるのだから。
「姫様が……抱っこされたと言ったのです。怪我をした時、護衛官だったスオウに抱いて運ばれたことがあると……彼女が11歳の時の話です」
「なんだ、それだけ」
ヨンキントはおやおやとつぶやいた。
「誰からも抱き上げてなどもらえずに独りだったから、抱っこされてすごく嬉しかったそうです。ぎゅーってしがみ付いたら安心したと。本当は歩けるのにそれを黙っていたそうです」
「可愛らしい話ですね。スオウ殿もきっと可愛いなあと思ったでしょうね。少女に対して大人としてですよ」
アツリュウは頷いた、スオウが分別ある大人としてその時対処したであろうことを分かっていた。ならばどうしてこんなに苦しいのか。
「まあ、想像してしまえば、ちょっと強烈な映像ではあります。嫉妬してしまう気持ちもわかります」
アツリュウは肩を下ろした。想像しないようにするのは難しいだろうなと思った。
「そういう場合は、事実を事実として反芻するんです。例えを出しますよ、生まれつき足の悪い少年が、どうして僕は走れないのかと考えます。一つは僕は駄目な奴だだから走れないと自分を責める。もう一つはこう考える。自分は足が悪いから走れないのだな。アツリュウ殿はどちらが少年にとって良い考え方だと思いますか?」
「後者ですかね」
「そうですね、私もそう思います。走れないという事実は、どちらにしろ変わらない。ですが、気持ちの感じかたは違う。前者は己を責めますが、後者はただ、事実をそのまま事実として受け止めただけです。気持ちの負担はこちらの方が軽いのではないでしょうか」
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「では、アツリュウ殿に置き換えてみて、想像するのを止められない。自分はこんなことを想像して駄目だと言う替わりに、事実を事実として言うならば、『自分は想像してしまう性質なのだ』と己に言ってやりなさい」
面食らって「はい」と生徒が答えるように言ってから、少しぽかんとしてした。
嫉妬の底なし沼から、もう出られないと思ったが、この人が手を伸ばしてきてするりと引き上げられた。この人はいったい何者なんだろう……ああそうか神官か。
ぼーっとヨンキントを見ていた。彼の背の空は次第に暮れて、夕日の最後の朱色が藍色に溶けだしていた。
「アツリュウ殿、私は思うのですが、あなたが向き合うべき問題の本質がずれています」
真面目な顔の彼に「なんですか?問題の本質って」と聞き返した。
「あなたは、リエリー様と結婚しないと告げたどころか、他の誰かと結婚して欲しいと言ったそうですね。すなわちそれは、リエリー様が他の男と暮らして、その男に彼女が抱かれてもかまわないと言っているのと同じですよ。あなたはそれに耐えられるのですか? 子供の時の抱っこでさえ、そんなにぐらぐらしているのに」
俺が姫様に言った意味なんて分かっている。自分が耐えられない事だって知っている。
アツリュウは拳を握りしめた。
「どうして結婚できないんです」
「俺が姫様に相応しくないからです」
「またそれだ、アツリュウ殿はその考えに捕らわれている」
そう彼は言ったきり、探るように目を覗き込んでくる。嫌な予感がした、この人は話さないことまで読んでくる。
「嫉妬の塊なのに、結婚を拒否する。その理由も訳がわからない……あなたは姫様から逃げてきたのですね。アツリュウ殿違いますか?」
何も答えて無いのにヨンキント様はふふっと意地悪く笑った。
「リエリー様が他の男のものになるのを目の前にするなんて、あなたが耐えられる訳がない。だから逃げて来た。モーリヒルドから最も遠いこの北の果てのエイヘッドに」
そのまま、質問責めにされるのかと思ったが、ヨンキントはため息をついて「困りましたね、アツリュウ殿、ここまで逃げたのに、姫様追いかけて来てしまいましたね」と優しく言った。
「苦しいですか?」
それは意外な問いかけだった。そしてその問いに素直に頷いたら最後、この恐ろしい人に、自分の何もかもを暴かれてしまう気がした。ごみ屑のように価値の無い、汚らしい自分に気づかれてしまう恐怖が一気に襲い掛かってきた。
「苦しくない」
顔も見ずに告げて、ヨンキントに背を向けた。
「もう薄暗いから危ないですよ、神殿側の階段から降りましょう」
「大丈夫です、落ちた場合のことはいつでも想定して動いているから」
アツリュウはいつものように石壁の上に飛び乗った。
「この高さから落ちてもアツリュウ殿は何とかなるの?」
振り返って無理やり笑い顔をつくった。
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「え、ちょっとアツリュウ殿」
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