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83.私の知らないあなたを
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頭の中の半分はアツリュウのことを考えてしまうことを自分に許しつつ、リエリーは黙々とリョマリョマの臭いの研究に励んだ。
リエリーがリョマリョマの研究をする中で、一つ興味深い発見があった。
先日買ったリョマリョマの毛皮が付いた靴が臭くないのだ。
鼻を近づけれは確かにリョマリョマの臭いがする。けれどリエリーが使う獣毛よりもずっと臭いが弱いし、なんというか種類の違う香りが混ざっている。
『森の香り』
ヨンキントが森の人にあった時、リョマリョマの毛皮を身に付けていたと話してくれた。その時の香りの印象が森の香だった。この靴の毛皮から香るのは正にそれだと思った。
カーリンに伝えると、初めは彼女の関心をあまり引かなかった。
「リエリーこの靴の毛皮からもリョマリョマの臭いはするよ」と彼女は言う。
「カーリン、確かに臭いです。でもこの毛皮は洗剤で洗っていないのに、この程度しか臭わないということなのです。その違いに気づきませんか? この森の人が持ってきた毛皮と、私達がリョマリョマ牧場で作る獣毛には違いがあるのです」
カーリンはリエリーが言わんとしていることに気づいてくれた。
洗わなくてもこの程度の臭いしかしない毛を、洗剤で洗えばどのような結果になるか是非とも試したい。臭いのしない不織布を手に入れる手がかりがこの毛皮にあると二人は確信した。
ずっと進展しなかったリョマリョマの研究が前に進んだように感じた。この先どうなるのかは分からない、良い結果がでると何の約束もない、けれどわくわくする。エイヘッドで自分で考えて、自分で行動することの楽しさを知った。
さあ、森の人のリョマリョマ毛皮を手に入れるにはどうしたらいいのだろう?
次にするべきことの計画にリエリーは取り掛かった。
◇◇◇ ◇◇◇
「どうぞ」といつもの声がしてリエリーは執務室の扉を開けた。すぐ後ろに付いて来た護衛官を廊下に残し、リエリーは一人で中に入る。
正面の大きな机に書類を乗せて、アツリュウがいつものように書き物をしていた。
挨拶すると「姫様ようこそ、どうぞおかけください」と手を止めて、彼が感情の無い声で告げる。彼はまた書類に目を戻して仕事を再開した。
リエリーは言われた通りに、部屋の中央にある机に向かって、椅子に座った。机の上にはすでにお茶の用意がしてある。キボネが手慣れた所作で熱いお茶を注ぐとすぐに下がった。二人きりの部屋は静かで、アツリュウが動かすペンが、紙をこする音が聞こえる。
遠乗りの後、カーリンにすっぱり諦めるのか、未練タラタラでアツリュウを追うのか聞かれたが、自分が今しているのは、未練タラタラの方なのだろう。
2日に1度はこうしてアツリュウを訪ねてはお茶を一緒にしていた。
リエリーはアツリュウを待たずに、カップを持ち上げてお茶を飲んだ。
キボネは領主城に来る度にいろいろなお菓子を用意してくれる。モーリヒルド国の茶菓子の時は茶碗に緑茶が定番であるが、今日は帝国式のカップに紅茶が注がれていた。帝国の菓子の時はこちらだ。どちらも言わずもがな美味しい。幸せな一時だ。
未練タラタラとの未練とはなんだろう。アツリュウが心変わりをして自分と結婚してくれる未来を期待しているということだろうかとリエリーは考える。
そうなったら嬉しいことに間違いはない、けれどこうして何度も執務室を訪れて、二人の時間を過ごすうちに気づく気持ちがあった。
今この時が、幸せなのだと。
彼は素っ気なく、何もリエリーに望んでこない。日によっては、彼は何も喋らず、仕事をしたままお茶を飲んでくれないこともある。それでも、彼と一緒にいるだけで、心の底から心地よい。一緒に同じ部屋にいるだけで満足する。
この先の未来に、この人との結婚が無いのだとしても、今この時を大切にしたいとリエリーは思う。
『いいですかリエリー様、知っているとは思いますがアツリュウ殿は猫なのです』
神殿で刺繍を一緒にしている時、ヨンキントが真面目な顔で猫との付き合い方を教えてくれた。
『猫というものは、第一に驚かせてはいけません。正面から迫っていけば必ず逃げます。猫を手なずけるコツは、そうっと近くに寄って、興味の無いふりをして待つことです。そうすると、向こうから寄ってきますよ』
思い出してふふっと笑ってしまった。
書類を集める紙の音と椅子を動かす音がした。我慢してそちらを見ないでいると、彼が正面に座った。
「何を笑っているのですか? 姫様」
アツリュウが不思議そうにこちらを見ている。カーリンがことあるごとに良い顔という。本当にそう思う。近くで見ると心臓がすぐに忙しく動き出す。心の中でキボネは本当に素敵な従者だと感謝する。
キボネあなたの選んだ筒着物が似合っています、アツリュウは今日もとてもかっこいいですよ。
「ヨンキントのお話しを思い出していました」
「そう……ですか。刺繍は進んでいるのですか?」
「まだ刺繍は刺していません。大作ですから前準備があるのです、今は構図を決めています」
アツリュウはそれ以上は刺繍のことを尋ねてこなかった。
「この前も聞いてもらった『森の人』について、お話ししてもいいですか」
アツリュウはどうぞと答えて、焼き菓子を大きな口で食べるとぱっと明るい表情になった。この『美味しい』の幸せそうな顔を見るのが大好きだと思う、これを見るのがリエリーにとってのご褒美になっている。
「アリタ山の登り口にある山小屋で暮らしているお爺さんが、エイヘッドでは一番『森の人』に詳しい方なのだそうです。お爺さんのところに、時々『森の人』がやってきて、日用品と、毛皮などを物々交換するそうです。ですのでそのお爺さんの山小屋をカーリンと訪ねて行きたいのですがいいですか?」
アツリュウは持っていた菓子を置いて、真剣な表情で少し眉根を寄せた。
「それは許可できません。姫様のリョマリョマ研究のお話しは、何度もお聞きしているので、『森の人』に繋がるそのお爺さんに会うことがとても重要なことだと私にも分かります。ですが『黒の集団』の件が解決するまでは、人里離れた場所に姫様が行くのは護衛を連れていったとしても不安です」
アツリュウの言うことは理解できる。残念だと思いつつ仕方がないかなと小さく息を吐いた。
「姫様、代わりに別の者をやって話を聞いてきてもらうのはどうでしょう」
「そうですね、できれば直接お会いしたいけれど、アツリュウの案が今は一番良いように思います」
「すみません姫様」と彼が謝る。「謝ることなどないですよ」とすぐに返した。
「あなたが、こんなにも熱心に取り組んでいることだから、できる限り協力したい。それなのに、許可できなくて残念です。そのお爺さんに代理で会いに行く人が決まったら教えてください、こちらでしっかり護衛を付けますから」
「ありがとうアツリュウ」
ここに来てお茶をする時、世間話と自分の研究の話しかしないことにしている。その限りであれば、彼はいつだってリエリーの気持ちを思いやってくれる。そして優しい眼差しを向けてくれる。
見つめると、まるで「なに?」と問いかけるように彼も見つめかえしてくれた。
このままずっと見つめていたい大好きな琥珀色から視線を外した。
「それではアツリュウ、お仕事あまり無理をしてないでください、休憩してくださいね。私はこれで」
淑女の礼をして部屋を去ろうとした。
「姫様待って」
お茶にここを訪れるようになって、5回目くらいだろうか、今回初めてアツリュウに呼び止められた。
アツリュウが立ち上がると、ゆっくり近づいてきて小さな瓶を手渡された。
何故か彼は横を向いてこちらを見ない。口元を手で覆ってとても小さな声で言った。
「これ香油、キボネから。洗剤を使う仕事は手が荒れるから。夜寝る前に手に塗るといいそうだ」
自分への贈りものだと分かった。むき出しの瓶をそのまま渡すのだから、改まった贈り物ではないのだろう。ありがたく頂戴した。
「ありがとうございます。この後キボネにお礼を言いますね」
「……ああ」
それではと扉に手をかけると、また「姫様」と彼が呼んだ。振り返ると、先ほどのまま、手で口を覆って眉根を寄せ、こちらを見ていた。
「アツリュウもしかして具合が悪いのですか?」
彼は慌てて首を左右に振った。
「その……実は、姫様に前から聞きたいことがありまして」
「何ですか?」
そのまま彼は迷っているようで、なかなか口を開かない。扉の前で、戻って座るべきか、このままここで立っているべきなのか困ったまま待っていた。
アツリュウが息を吸い込み、「よし」と掛け声のような声を出した後、聞いてきた。
「あの時とは」
「はい?」
「この前のお茶会でスオウと話していたあの時とは、彼と何があったのですか?」
すぐに『あの時』の意味が分からず、少し考えて思い当たった。アツリュウがとても緊張して聞きたいことがあるなどと言うから心配したけれど、こんなことかとほっとした。
「スオウは昔私の専属で護衛についていてくれたことがあるのです。6年くらい前ですね。あの日はいつものようにお祖父様と大神殿に行っていたのですが、お祖父様が混乱して、杖で私のことを殴ってしまったのです。そのときスオウが助けてくれたことがありました」
殴られたという言葉に、アツリュウが反応して「殴られたのですか」と辛そうな顔をした。
「その時、スオウは私を抱っこして、館まで運んでくれました。」
「抱っこ!」
アツリュウが目を見開いて、あまりに大きな声を出したので、びっくりしてしばらく固まってしまった。
「そうです……抱っこ……です」
どうしてそんなに驚いているのか分からなけれど、もう一度そう告げると、アツリュウは今度は呟くように「抱っこ」ともう一度言った。
「殴られたのは頭や肩だったから、歩こうと思えば歩けたのです。でも私は抱っこがあまりにも嬉しくて、降ろされるのが嫌で黙っていました。だから館に着いた時、スオウごめんなさいと謝ったのです。そうしたら、スオウはすごく怒って、どうしてお祖父様の杖の前に出たのかと、もう2度としてはいけないと何度も言って、悲しそうな顔をしました。私はいつも静かなスオウがすごい勢いで話すからびっくりしてしまって、それで、スオウにありがとうとお礼を伝えるのを忘れてしまったのです」
アツリュウは固まった感じで、聞いているのかどうか不安になった。彼は何か苦いものでも食べたみたいな顔をしていた。これ以上話していいか迷っていると、ちょっと怒った感じで「それで?」と小さく言った。
「だから明日スオウが来てくれた時に、言えばいいと思ったのですけど。それきりスオウは館に来なくなりました。誰もどうしてか教えてくれなくて、ずっと待っていたけどそれきりでした。私は抱っこしてくれてありがとうって結局言えなかったのです」
あの時の館の情景が目に浮かぶように思い出された。寂しくスオウを待っていた時の気持ちを思い出して、少し切なくなった。
「その後、スオウがリュウヤ兄様の護衛をしている姿を、時々遠目に見ました。リュウヤ兄様が亡くなってからは、セウヤ兄様の護衛で館に来ることもあったけれど、何年も経っているから、スオウはきっと忘れているだろうと思っていました。覚えていたとしても、彼にとって些細なできごとだったでしょうし、だから、彼と話すことはそれきりなかったのです」
そこまで話して、もしかしたらもっと早く彼にお礼を言っても良かったのにと思った。でも、あの頃の私にそれができただろうかともリエリーは思う。館に居た頃、何もかもが怖かった。
「あの時のことは、私にとっては大切な思い出です。母が死んでから、誰かに抱き上げてもらうことなどなくて。だから抱っこしてもらったとき、スオウにぎゅーってしがみ付いたらすごく安心しました。そんな心地になったことがなかったから、ずっと抱っこしていて欲しいと思ったの。館での生活が私はきっと寂しかったのだと思います」
アツリュウの顔から怒った感じが消えた。労わるような眼差しを向けられたが、切なかった。彼に同情されているのだと感じて、言いようの無い寂しさのようなものが胸に込み上げた。
あなたには私の寂しさがきっと分からない、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
「姫様」
彼のその声は消え入りそうで、擦れるような声は力なく耳に届いた。
「私の知らないあなたを……」
そこまで聞こえて、その後、彼が何を言ったのかは聞き取れなかった。
「姫様、教えてくださってありがとうございます。二人の大切な思い出を聞き出したりして申し訳ありませんでした」
アツリュウははっきりとした声で告げると、執務の彼の机に戻っていった。
リエリーはこれ以上何を話していいかもわからず、挨拶を交わしてそのまま部屋を出た。
リエリーがリョマリョマの研究をする中で、一つ興味深い発見があった。
先日買ったリョマリョマの毛皮が付いた靴が臭くないのだ。
鼻を近づけれは確かにリョマリョマの臭いがする。けれどリエリーが使う獣毛よりもずっと臭いが弱いし、なんというか種類の違う香りが混ざっている。
『森の香り』
ヨンキントが森の人にあった時、リョマリョマの毛皮を身に付けていたと話してくれた。その時の香りの印象が森の香だった。この靴の毛皮から香るのは正にそれだと思った。
カーリンに伝えると、初めは彼女の関心をあまり引かなかった。
「リエリーこの靴の毛皮からもリョマリョマの臭いはするよ」と彼女は言う。
「カーリン、確かに臭いです。でもこの毛皮は洗剤で洗っていないのに、この程度しか臭わないということなのです。その違いに気づきませんか? この森の人が持ってきた毛皮と、私達がリョマリョマ牧場で作る獣毛には違いがあるのです」
カーリンはリエリーが言わんとしていることに気づいてくれた。
洗わなくてもこの程度の臭いしかしない毛を、洗剤で洗えばどのような結果になるか是非とも試したい。臭いのしない不織布を手に入れる手がかりがこの毛皮にあると二人は確信した。
ずっと進展しなかったリョマリョマの研究が前に進んだように感じた。この先どうなるのかは分からない、良い結果がでると何の約束もない、けれどわくわくする。エイヘッドで自分で考えて、自分で行動することの楽しさを知った。
さあ、森の人のリョマリョマ毛皮を手に入れるにはどうしたらいいのだろう?
次にするべきことの計画にリエリーは取り掛かった。
◇◇◇ ◇◇◇
「どうぞ」といつもの声がしてリエリーは執務室の扉を開けた。すぐ後ろに付いて来た護衛官を廊下に残し、リエリーは一人で中に入る。
正面の大きな机に書類を乗せて、アツリュウがいつものように書き物をしていた。
挨拶すると「姫様ようこそ、どうぞおかけください」と手を止めて、彼が感情の無い声で告げる。彼はまた書類に目を戻して仕事を再開した。
リエリーは言われた通りに、部屋の中央にある机に向かって、椅子に座った。机の上にはすでにお茶の用意がしてある。キボネが手慣れた所作で熱いお茶を注ぐとすぐに下がった。二人きりの部屋は静かで、アツリュウが動かすペンが、紙をこする音が聞こえる。
遠乗りの後、カーリンにすっぱり諦めるのか、未練タラタラでアツリュウを追うのか聞かれたが、自分が今しているのは、未練タラタラの方なのだろう。
2日に1度はこうしてアツリュウを訪ねてはお茶を一緒にしていた。
リエリーはアツリュウを待たずに、カップを持ち上げてお茶を飲んだ。
キボネは領主城に来る度にいろいろなお菓子を用意してくれる。モーリヒルド国の茶菓子の時は茶碗に緑茶が定番であるが、今日は帝国式のカップに紅茶が注がれていた。帝国の菓子の時はこちらだ。どちらも言わずもがな美味しい。幸せな一時だ。
未練タラタラとの未練とはなんだろう。アツリュウが心変わりをして自分と結婚してくれる未来を期待しているということだろうかとリエリーは考える。
そうなったら嬉しいことに間違いはない、けれどこうして何度も執務室を訪れて、二人の時間を過ごすうちに気づく気持ちがあった。
今この時が、幸せなのだと。
彼は素っ気なく、何もリエリーに望んでこない。日によっては、彼は何も喋らず、仕事をしたままお茶を飲んでくれないこともある。それでも、彼と一緒にいるだけで、心の底から心地よい。一緒に同じ部屋にいるだけで満足する。
この先の未来に、この人との結婚が無いのだとしても、今この時を大切にしたいとリエリーは思う。
『いいですかリエリー様、知っているとは思いますがアツリュウ殿は猫なのです』
神殿で刺繍を一緒にしている時、ヨンキントが真面目な顔で猫との付き合い方を教えてくれた。
『猫というものは、第一に驚かせてはいけません。正面から迫っていけば必ず逃げます。猫を手なずけるコツは、そうっと近くに寄って、興味の無いふりをして待つことです。そうすると、向こうから寄ってきますよ』
思い出してふふっと笑ってしまった。
書類を集める紙の音と椅子を動かす音がした。我慢してそちらを見ないでいると、彼が正面に座った。
「何を笑っているのですか? 姫様」
アツリュウが不思議そうにこちらを見ている。カーリンがことあるごとに良い顔という。本当にそう思う。近くで見ると心臓がすぐに忙しく動き出す。心の中でキボネは本当に素敵な従者だと感謝する。
キボネあなたの選んだ筒着物が似合っています、アツリュウは今日もとてもかっこいいですよ。
「ヨンキントのお話しを思い出していました」
「そう……ですか。刺繍は進んでいるのですか?」
「まだ刺繍は刺していません。大作ですから前準備があるのです、今は構図を決めています」
アツリュウはそれ以上は刺繍のことを尋ねてこなかった。
「この前も聞いてもらった『森の人』について、お話ししてもいいですか」
アツリュウはどうぞと答えて、焼き菓子を大きな口で食べるとぱっと明るい表情になった。この『美味しい』の幸せそうな顔を見るのが大好きだと思う、これを見るのがリエリーにとってのご褒美になっている。
「アリタ山の登り口にある山小屋で暮らしているお爺さんが、エイヘッドでは一番『森の人』に詳しい方なのだそうです。お爺さんのところに、時々『森の人』がやってきて、日用品と、毛皮などを物々交換するそうです。ですのでそのお爺さんの山小屋をカーリンと訪ねて行きたいのですがいいですか?」
アツリュウは持っていた菓子を置いて、真剣な表情で少し眉根を寄せた。
「それは許可できません。姫様のリョマリョマ研究のお話しは、何度もお聞きしているので、『森の人』に繋がるそのお爺さんに会うことがとても重要なことだと私にも分かります。ですが『黒の集団』の件が解決するまでは、人里離れた場所に姫様が行くのは護衛を連れていったとしても不安です」
アツリュウの言うことは理解できる。残念だと思いつつ仕方がないかなと小さく息を吐いた。
「姫様、代わりに別の者をやって話を聞いてきてもらうのはどうでしょう」
「そうですね、できれば直接お会いしたいけれど、アツリュウの案が今は一番良いように思います」
「すみません姫様」と彼が謝る。「謝ることなどないですよ」とすぐに返した。
「あなたが、こんなにも熱心に取り組んでいることだから、できる限り協力したい。それなのに、許可できなくて残念です。そのお爺さんに代理で会いに行く人が決まったら教えてください、こちらでしっかり護衛を付けますから」
「ありがとうアツリュウ」
ここに来てお茶をする時、世間話と自分の研究の話しかしないことにしている。その限りであれば、彼はいつだってリエリーの気持ちを思いやってくれる。そして優しい眼差しを向けてくれる。
見つめると、まるで「なに?」と問いかけるように彼も見つめかえしてくれた。
このままずっと見つめていたい大好きな琥珀色から視線を外した。
「それではアツリュウ、お仕事あまり無理をしてないでください、休憩してくださいね。私はこれで」
淑女の礼をして部屋を去ろうとした。
「姫様待って」
お茶にここを訪れるようになって、5回目くらいだろうか、今回初めてアツリュウに呼び止められた。
アツリュウが立ち上がると、ゆっくり近づいてきて小さな瓶を手渡された。
何故か彼は横を向いてこちらを見ない。口元を手で覆ってとても小さな声で言った。
「これ香油、キボネから。洗剤を使う仕事は手が荒れるから。夜寝る前に手に塗るといいそうだ」
自分への贈りものだと分かった。むき出しの瓶をそのまま渡すのだから、改まった贈り物ではないのだろう。ありがたく頂戴した。
「ありがとうございます。この後キボネにお礼を言いますね」
「……ああ」
それではと扉に手をかけると、また「姫様」と彼が呼んだ。振り返ると、先ほどのまま、手で口を覆って眉根を寄せ、こちらを見ていた。
「アツリュウもしかして具合が悪いのですか?」
彼は慌てて首を左右に振った。
「その……実は、姫様に前から聞きたいことがありまして」
「何ですか?」
そのまま彼は迷っているようで、なかなか口を開かない。扉の前で、戻って座るべきか、このままここで立っているべきなのか困ったまま待っていた。
アツリュウが息を吸い込み、「よし」と掛け声のような声を出した後、聞いてきた。
「あの時とは」
「はい?」
「この前のお茶会でスオウと話していたあの時とは、彼と何があったのですか?」
すぐに『あの時』の意味が分からず、少し考えて思い当たった。アツリュウがとても緊張して聞きたいことがあるなどと言うから心配したけれど、こんなことかとほっとした。
「スオウは昔私の専属で護衛についていてくれたことがあるのです。6年くらい前ですね。あの日はいつものようにお祖父様と大神殿に行っていたのですが、お祖父様が混乱して、杖で私のことを殴ってしまったのです。そのときスオウが助けてくれたことがありました」
殴られたという言葉に、アツリュウが反応して「殴られたのですか」と辛そうな顔をした。
「その時、スオウは私を抱っこして、館まで運んでくれました。」
「抱っこ!」
アツリュウが目を見開いて、あまりに大きな声を出したので、びっくりしてしばらく固まってしまった。
「そうです……抱っこ……です」
どうしてそんなに驚いているのか分からなけれど、もう一度そう告げると、アツリュウは今度は呟くように「抱っこ」ともう一度言った。
「殴られたのは頭や肩だったから、歩こうと思えば歩けたのです。でも私は抱っこがあまりにも嬉しくて、降ろされるのが嫌で黙っていました。だから館に着いた時、スオウごめんなさいと謝ったのです。そうしたら、スオウはすごく怒って、どうしてお祖父様の杖の前に出たのかと、もう2度としてはいけないと何度も言って、悲しそうな顔をしました。私はいつも静かなスオウがすごい勢いで話すからびっくりしてしまって、それで、スオウにありがとうとお礼を伝えるのを忘れてしまったのです」
アツリュウは固まった感じで、聞いているのかどうか不安になった。彼は何か苦いものでも食べたみたいな顔をしていた。これ以上話していいか迷っていると、ちょっと怒った感じで「それで?」と小さく言った。
「だから明日スオウが来てくれた時に、言えばいいと思ったのですけど。それきりスオウは館に来なくなりました。誰もどうしてか教えてくれなくて、ずっと待っていたけどそれきりでした。私は抱っこしてくれてありがとうって結局言えなかったのです」
あの時の館の情景が目に浮かぶように思い出された。寂しくスオウを待っていた時の気持ちを思い出して、少し切なくなった。
「その後、スオウがリュウヤ兄様の護衛をしている姿を、時々遠目に見ました。リュウヤ兄様が亡くなってからは、セウヤ兄様の護衛で館に来ることもあったけれど、何年も経っているから、スオウはきっと忘れているだろうと思っていました。覚えていたとしても、彼にとって些細なできごとだったでしょうし、だから、彼と話すことはそれきりなかったのです」
そこまで話して、もしかしたらもっと早く彼にお礼を言っても良かったのにと思った。でも、あの頃の私にそれができただろうかともリエリーは思う。館に居た頃、何もかもが怖かった。
「あの時のことは、私にとっては大切な思い出です。母が死んでから、誰かに抱き上げてもらうことなどなくて。だから抱っこしてもらったとき、スオウにぎゅーってしがみ付いたらすごく安心しました。そんな心地になったことがなかったから、ずっと抱っこしていて欲しいと思ったの。館での生活が私はきっと寂しかったのだと思います」
アツリュウの顔から怒った感じが消えた。労わるような眼差しを向けられたが、切なかった。彼に同情されているのだと感じて、言いようの無い寂しさのようなものが胸に込み上げた。
あなたには私の寂しさがきっと分からない、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
「姫様」
彼のその声は消え入りそうで、擦れるような声は力なく耳に届いた。
「私の知らないあなたを……」
そこまで聞こえて、その後、彼が何を言ったのかは聞き取れなかった。
「姫様、教えてくださってありがとうございます。二人の大切な思い出を聞き出したりして申し訳ありませんでした」
アツリュウははっきりとした声で告げると、執務の彼の机に戻っていった。
リエリーはこれ以上何を話していいかもわからず、挨拶を交わしてそのまま部屋を出た。
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