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織田家の室
七・隠れた本心(上)
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岐阜城。
途中鉄砲で襲撃された信長が、どうにか無事に帰還したというので、濃姫は慌てて迎えに出た。
やがて現れた信長は案外楽しげで、濃姫の姿を見つけるなり、
「見ろ!」
と、手を差し出してきた。
その手のひらには、歪な弾丸がある。
「こいつが俺を撃った弾だ」
濃姫は眉をひそめた。信長は自分の命を脅かしたそれを、むしろ愛おしげに見つめているのである。
「俺は鉄砲こそが摂理を超えた人間の英知の極地だと言ったろ?」
「……は?」
命からがら逃げ帰ってきた人の第一声がこれか。濃姫は困惑する。
「人間は摂理をも凌駕する能力を持っている。戦を止めるのは俺だ!」
信長はふいっといきなり濃姫へその弾を投げた。受け止めた濃姫へ、にやりと笑い、
「俺が鉄砲に当たった。実に愉快で爽快な出来事だったわ!」
濃姫もようやく呆れたように笑った。
「まあ、おほほほほ……お怪我なされたかと案じておりましたが。お元気そうで何より」
「いや、少々肌をかすった」
「では、馬糞をお飲みにならないと。ともかく、中へお入り遊ばしませ」
馬糞を飲まされるのかと、濃姫の部屋へ入るのを嫌がった信長を、彼女は半ば強引に引き入れた。
すぐに志野茶碗が運ばれてきたので、信長はうっと身構えたが、中身はただの茶であった。
眉を歪めている信長に、濃姫は堪えきれなくなって、笑い転げている。その間にも、侍女たちが鋺や包帯、薬などを運んできていた。
「さあ、傷の様子を見せて下さいませ。傷を清めて、新しい包帯に替えますゆえ」
信長は濃姫の傍らの薬を睨みやって、
「それは馬糞ではあるまいな?傷口に塗り込む気か?」
と訊いている。
「そのようなわけありませぬ」
馬糞で治るなんて迷信だろうと濃姫は笑って、信長の着物の袖を捲し上げた。
信長は安心して茶を口に含むと、傷口を濃姫の手に委ねながら、ようやく人心地ついたと、長く息を吐き出した。
「此度のことは驚いた……」
「ええ」
「蒲生には本当に助けられた」
「良い婿殿で」
「ふふん、婿にして良かっただろう?そなたは内心不本意そうだったが」
「そのようなことはございませんっ」
ぎゅっと包帯を力任せに締めた。信長の眉間に皺が寄る。
何をこのくらいと、濃姫はご丁寧に包帯の上から傷口をぽんと一つ打って、片付け始める。
「でも、今の状況は……冬のことが不安でなりませぬ。蒲生が裏切ることはないでしょうが、浅井や六角が、二里三里のすぐ近くに出没しているのですもの。万が一の時には、忠三郎殿が冬を守ってくれるでしょうけど、幼い身で、心配です。どうしてあの子の輿入れを急ぐのかと、正直お屋形様のお考えがわかりかねましたが、今になってようやく得心致しました。近江の情勢がいかに不安定かを。冬を早く近江に輿入れさせ、千草越を固守できて、宜しゅうございました。冬の身を思うと、心配でなりませんが」
「……であるか」
信長としても、幼い娘を敵地に置いてきたような心地がして、何とも落ち着かない。そして、それは北近江にいる妹の身にも言えることだった。
「冬姫には蒲生がついている。だが、お市御寮人は予断を許さぬ状況よな」
濃姫は同意した。
「お市殿があまりに不憫で。文を遣わしましたら、体は元気だと言って参りましたが。心は随分弱っているようでした。浅井長政はお市殿を織田家に返す気はないそうです」
先程までの笑顔もどこかへ飛び、濃姫も信長も顔を憂えさせた。
「まさか朝敵の朝倉に同心するとは、夢にも思わなんだ。浅井長政め、いったい何を血迷ったのだ?お市は何と言ってきている?」
浅井長政は信長の妹・お市を妻とし、織田家と同盟しながら、今回突然裏切り、朝倉に同心した。しかも、同盟を破棄しながら、お市を織田家に返さないとは。いったい長政という人間の思考はどうなっているのか。
「朝倉義景はお屋形様が公方様を操っていると、そして、朝倉を討伐したがっているお屋形様に、公方様は騙されていると言っているとか。お屋形様の謀略のせいで御敵にされたと、お屋形様を恨んでいるというのです。しかし、朝倉は公方様には忠義を尽くしているのであって、公方様に対しては二心ないと。公方様の御側から奸臣を取り除くのだと。奸臣を共に討伐しようと、朝倉は浅井に働きかけてきたというのです」
朝倉義景の言うところの奸臣とは、信長のことを指している。
「つまり、浅井は公方ではなく、俺を討つべく、朝倉に同心したというわけよな?公方に逆らう気はないと、今頃は公方に弁解の文を出しているといったところか」
信長はくっと笑った。実に古典的な発想だ。
つまるところ、朝倉は自分が幕府を牛耳りたいのであろう。信長が邪魔なだけなのだ。
信長を討ったら、将軍義昭に接近して、奸臣から将軍を救い出した自分が、以降は将軍と幕府を守ると言うのであろう。
「織田と同盟中の浅井が朝倉に同心したのは、幕府や公方様への謀叛ではなく、奸臣・織田を討つという意思表示だと。お市殿を返さないのは、お市殿を人質に、織田を降伏させ、幕政から手を引かせる駆け引きに使うためだと。お市殿はそのように言ってきております」
「お市はそう思うているのか」
「はい」
「天下静謐をわかっておらぬ!古い朝倉に、何もわかっていない浅井!」
かつて繰り返された、幕政を牛耳りたいと、自分に都合の良い将軍を立てようとした三好と六角の不毛の戦い。それと何ら変わらないではないか。義昭の対抗馬が今はいないだけで。
幕府を牛耳りたいからと、信長に戦を仕掛けるのでは、戦はなくならず、相変わらずの乱世のままだ。
「天下静謐!何故わからぬ!」
信長は浅井長政が腹立たしくてならなかった。
「ところが、お市殿によれば、天下静謐を阻害しているのはお屋形様の方であると、浅井長政は言っているそうなのです。お屋形様さえ幕府から手を引き、美濃に籠っているならば、幕政は、当初から公方様を守り立てていた朝倉、浅井、六角の手に戻り、戦もなくなり、世は静謐を取り戻すと――」
「ほう、俺に幕政から手を引かせ、美濃に引退させるために、お市を人質にとったというのか。俺が従わなければ、お市は殺すとな!面白い!やってみろ!それで、ついでに公方に俺の追討令を出させたらいい!帝がお許しにはなるまいがな。やれるものなら、やってみろ!」
わははと信長は笑った。
濃姫は眉を寄せた。
「もしもそのようなことになったら、天下布武はどうなります?世は相変わらず乱世で、しかもお屋形様が御敵となってしまわれまする。――義昭公を討ち、左京様を将軍に押し立てますか?」
左京と聞いて、信長は一瞬目を丸くした。だが、すぐに笑って否定する。
「それこそ昔の三好と六角の再演だわ」
そして、鉄砲傷を見やり、言いきった。
「天下布武は俺がやると言っただろう?世の静謐のためなら、倒幕してくれる!」
倒幕。
はっきりとそう口にした。
信長が今回、もしも逃げ遅れて、朝倉と浅井に挟み撃たれ、討ち果たされていたなら、今頃信長は逆賊の汚名を着せられ、逆賊を討った朝倉と浅井が幕府の要職に就いていただろう。
朝倉、六角は何食わぬ顔で、以前見捨てた義昭に、さも忠義面して仕えていただろう。
「このまま岐阜におっても、逆賊にされよう。朝倉が上洛して、公方と帝を手にしてしまう前に、やらねばならぬ」
だが。将軍は実はそこまで重要でない。帝だ。
「最も大事なるは帝なのだ。帝さえ手にしておれば、将軍を朝敵にもできる。天下静謐は必ず俺の手でやる。だから、公方が朝倉にいいように操られた時は、倒幕してくれる」
そう言いながらも、どのような事態になろうとも、すでに倒幕は信長の中で決定したことのようであった。
「俺を出陣させ、その隙に改元を強行するとはな。――おのれ、公方め!」
濃姫は義昭の心情を思った。
義昭は力を持ちたいのだろうと。この正月、信長から五ヶ条の条書を認めさせられ、傀儡化されたことが不本意なのではないか。
「もしや、朝倉、浅井がお屋形様を討ったならば、公方様にはその方がご都合が宜しいのではございませぬか?公方様の欲しておられる軍は朝倉の軍。お屋形様を出陣させ、それを朝倉と浅井に挟み撃たせようと――」
そこまで言って、濃姫は震えた。
「浅井の裏切りは、公方様からの御意。公方様がお屋形様を朝倉軍に殺させるために、朝倉討伐を仕組まれ、予め朝倉、浅井、六角にご内書を賜っていたのやも……」
そうでなければ、いくら旧知の朝倉からの誘いでも、説き伏せられて、信長を裏切る浅井とは思えない。裏切れば、御敵になってしまうのに、たかが旧縁ごときをそこまで大事にするであろうか、この乱世に。
だが、これが義昭の密命ならば、朝倉に同心する理由として、頷ける。
「ははは、凄い話だな!なればお市は絶対帰らせてはもらえまい。長政は公方の意志でお市を人質にしておるのだろうからな」
信長は冗談のように受け取った。
一頻り笑うと、信長はまた濃姫に真顔を向けた。
「六角家の嫡流なる者のことだが――」
「はい。小倉殿にもご協力頂き、捜しておりますが、六角義治の内室は未だ見つかりませぬ」
「いや、それはもう良い。かの嫡流なる者に近江を任せることはない。義治の女房殿を見つけ出して、めあわせる予定はなくなった。ただ、当家で歓待せねばならん。誰か織田一門の中から、適当な娘を嫁がせる」
濃姫は驚いた。しかし、素直に従い、六角左京に釣り合う適当な娘を見繕うと答えた。
「六角か――」
六角と言えばと、思い出したように信長は。
「此度の謀略は公方の発案ではなく、恐らく六角義治の父の承禎(義賢)が考えたことだろう」
「朝倉と浅井でお屋形様を挟み撃つ案を?六角が提案したのですか?」
濃姫はあまりに意外と、身をやや仰け反らせた。
「俺が死んで一番得するのは、朝倉でも浅井でもない。旧領を取り返せるであろう六角だ。俺は前々から越前への出陣を願っていたからな。それを知ってこの計画を立て、水面下で朝倉に働きかけていたのだろう。もともと六角と朝倉は縁浅からずとは聞くが、六角は浅井を目の敵にしてきた。六角が毛嫌いしていた斎藤義龍と同盟したのも、浅井を討つためだったが。此度はその浅井を引き入れることを、率先して六角が行ったとの噂だ」
「まあ、では黒幕は六角承禎でしたの……」
「仇敵の浅井へ六角が直接働きかけても、長政は俺の妹婿だし、一蹴されるだけだろう。だが、昔から同心していた朝倉からの誘いならばな。六角は朝倉に浅井を誘うよう依頼したのではないか。朝倉からの誘いの後で、承禎が久政に直接交渉したのかもしれぬな。久政は六角からの独立を渋っていたというから、同意して、長政にうんと言わせたと」
濃姫は六角家に底知れぬ不気味さを覚えた。
「憎っくき浅井までをも味方にしようという、六角の余裕のなさ、形振り構わぬ様。彼奴ら、近江じゅうの土民を使って一揆まで起こしおったわ。六角の執念よ、是が非でも近江を取り返さんという。長年の仇敵でも、俺から近江を取り返すために使えるとなれば、利用する。浅井は六角の真の狙いに気付かず、踊らされている。六角は近江を取り返すことしか頭にない。公方云々など、実は六角にはどうでもよいことなのよ。南近江を取り返したら、己の得にならぬとなれば、また公方に協力せず、乱世が続こうと、お構い無しといったところではないか?左様な六角にいいように騙され、利用されているとも気付かずに、浅井め」
「これから近江はどうなりましょう?」
六角が是が非でも旧領を取り返さんと、これから大いに暴れるであろう南近江。まさにその地にいる冬姫のことが、益々案じられて堪らない。
「だから、冬姫はとても重要な娘なのだ。織田に入れた小倉鍋もな」
そこで信長は急に思い出したように。
「ところで、此度は小倉鍋に近江衆を説得させたそうだな。此度、近江で一揆を起こしたのは地侍ばかりで、先年俺に降伏した六角旧臣どもは、誰一人裏切っていない」
「宜しゅうございました。お屋形様のご加増による懐柔の成果と、お鍋様のお手柄です。どうか、お鍋様をお訪ね下さい。一時は流産の危険性もございましたが、今は安定しておられまする故」
信長はたちまち顔を歪めた。
「まさか本当に懐妊しておるのか?そなたからその旨文が届いた時には、半信半疑だったが。未だに信じられん」
とはいえ、身に覚えがないという様子ではない。
(やはりお屋形様はお鍋様と御寝なされたのだ)
濃姫はやるせない気持ちが起きかけるのを堪えた。
「前夫との間にも二人の子。織田に来てすぐに孕むとは。孕みやすい質の女だな」
呆れたように言う信長は、まるで他人事だ。
「お屋形様!ちゃんと労いにお出座し下さいませよ!ご子息・甚五郎殿の領内にはなお敵が溢れ、城は浅井方の標的にされているとか。いつ落城してもおかしくない状況ですのに!」
「わかったわかった。明日の昼にでも訪ねるよ。今日はそなたに色々話がある」
途中鉄砲で襲撃された信長が、どうにか無事に帰還したというので、濃姫は慌てて迎えに出た。
やがて現れた信長は案外楽しげで、濃姫の姿を見つけるなり、
「見ろ!」
と、手を差し出してきた。
その手のひらには、歪な弾丸がある。
「こいつが俺を撃った弾だ」
濃姫は眉をひそめた。信長は自分の命を脅かしたそれを、むしろ愛おしげに見つめているのである。
「俺は鉄砲こそが摂理を超えた人間の英知の極地だと言ったろ?」
「……は?」
命からがら逃げ帰ってきた人の第一声がこれか。濃姫は困惑する。
「人間は摂理をも凌駕する能力を持っている。戦を止めるのは俺だ!」
信長はふいっといきなり濃姫へその弾を投げた。受け止めた濃姫へ、にやりと笑い、
「俺が鉄砲に当たった。実に愉快で爽快な出来事だったわ!」
濃姫もようやく呆れたように笑った。
「まあ、おほほほほ……お怪我なされたかと案じておりましたが。お元気そうで何より」
「いや、少々肌をかすった」
「では、馬糞をお飲みにならないと。ともかく、中へお入り遊ばしませ」
馬糞を飲まされるのかと、濃姫の部屋へ入るのを嫌がった信長を、彼女は半ば強引に引き入れた。
すぐに志野茶碗が運ばれてきたので、信長はうっと身構えたが、中身はただの茶であった。
眉を歪めている信長に、濃姫は堪えきれなくなって、笑い転げている。その間にも、侍女たちが鋺や包帯、薬などを運んできていた。
「さあ、傷の様子を見せて下さいませ。傷を清めて、新しい包帯に替えますゆえ」
信長は濃姫の傍らの薬を睨みやって、
「それは馬糞ではあるまいな?傷口に塗り込む気か?」
と訊いている。
「そのようなわけありませぬ」
馬糞で治るなんて迷信だろうと濃姫は笑って、信長の着物の袖を捲し上げた。
信長は安心して茶を口に含むと、傷口を濃姫の手に委ねながら、ようやく人心地ついたと、長く息を吐き出した。
「此度のことは驚いた……」
「ええ」
「蒲生には本当に助けられた」
「良い婿殿で」
「ふふん、婿にして良かっただろう?そなたは内心不本意そうだったが」
「そのようなことはございませんっ」
ぎゅっと包帯を力任せに締めた。信長の眉間に皺が寄る。
何をこのくらいと、濃姫はご丁寧に包帯の上から傷口をぽんと一つ打って、片付け始める。
「でも、今の状況は……冬のことが不安でなりませぬ。蒲生が裏切ることはないでしょうが、浅井や六角が、二里三里のすぐ近くに出没しているのですもの。万が一の時には、忠三郎殿が冬を守ってくれるでしょうけど、幼い身で、心配です。どうしてあの子の輿入れを急ぐのかと、正直お屋形様のお考えがわかりかねましたが、今になってようやく得心致しました。近江の情勢がいかに不安定かを。冬を早く近江に輿入れさせ、千草越を固守できて、宜しゅうございました。冬の身を思うと、心配でなりませんが」
「……であるか」
信長としても、幼い娘を敵地に置いてきたような心地がして、何とも落ち着かない。そして、それは北近江にいる妹の身にも言えることだった。
「冬姫には蒲生がついている。だが、お市御寮人は予断を許さぬ状況よな」
濃姫は同意した。
「お市殿があまりに不憫で。文を遣わしましたら、体は元気だと言って参りましたが。心は随分弱っているようでした。浅井長政はお市殿を織田家に返す気はないそうです」
先程までの笑顔もどこかへ飛び、濃姫も信長も顔を憂えさせた。
「まさか朝敵の朝倉に同心するとは、夢にも思わなんだ。浅井長政め、いったい何を血迷ったのだ?お市は何と言ってきている?」
浅井長政は信長の妹・お市を妻とし、織田家と同盟しながら、今回突然裏切り、朝倉に同心した。しかも、同盟を破棄しながら、お市を織田家に返さないとは。いったい長政という人間の思考はどうなっているのか。
「朝倉義景はお屋形様が公方様を操っていると、そして、朝倉を討伐したがっているお屋形様に、公方様は騙されていると言っているとか。お屋形様の謀略のせいで御敵にされたと、お屋形様を恨んでいるというのです。しかし、朝倉は公方様には忠義を尽くしているのであって、公方様に対しては二心ないと。公方様の御側から奸臣を取り除くのだと。奸臣を共に討伐しようと、朝倉は浅井に働きかけてきたというのです」
朝倉義景の言うところの奸臣とは、信長のことを指している。
「つまり、浅井は公方ではなく、俺を討つべく、朝倉に同心したというわけよな?公方に逆らう気はないと、今頃は公方に弁解の文を出しているといったところか」
信長はくっと笑った。実に古典的な発想だ。
つまるところ、朝倉は自分が幕府を牛耳りたいのであろう。信長が邪魔なだけなのだ。
信長を討ったら、将軍義昭に接近して、奸臣から将軍を救い出した自分が、以降は将軍と幕府を守ると言うのであろう。
「織田と同盟中の浅井が朝倉に同心したのは、幕府や公方様への謀叛ではなく、奸臣・織田を討つという意思表示だと。お市殿を返さないのは、お市殿を人質に、織田を降伏させ、幕政から手を引かせる駆け引きに使うためだと。お市殿はそのように言ってきております」
「お市はそう思うているのか」
「はい」
「天下静謐をわかっておらぬ!古い朝倉に、何もわかっていない浅井!」
かつて繰り返された、幕政を牛耳りたいと、自分に都合の良い将軍を立てようとした三好と六角の不毛の戦い。それと何ら変わらないではないか。義昭の対抗馬が今はいないだけで。
幕府を牛耳りたいからと、信長に戦を仕掛けるのでは、戦はなくならず、相変わらずの乱世のままだ。
「天下静謐!何故わからぬ!」
信長は浅井長政が腹立たしくてならなかった。
「ところが、お市殿によれば、天下静謐を阻害しているのはお屋形様の方であると、浅井長政は言っているそうなのです。お屋形様さえ幕府から手を引き、美濃に籠っているならば、幕政は、当初から公方様を守り立てていた朝倉、浅井、六角の手に戻り、戦もなくなり、世は静謐を取り戻すと――」
「ほう、俺に幕政から手を引かせ、美濃に引退させるために、お市を人質にとったというのか。俺が従わなければ、お市は殺すとな!面白い!やってみろ!それで、ついでに公方に俺の追討令を出させたらいい!帝がお許しにはなるまいがな。やれるものなら、やってみろ!」
わははと信長は笑った。
濃姫は眉を寄せた。
「もしもそのようなことになったら、天下布武はどうなります?世は相変わらず乱世で、しかもお屋形様が御敵となってしまわれまする。――義昭公を討ち、左京様を将軍に押し立てますか?」
左京と聞いて、信長は一瞬目を丸くした。だが、すぐに笑って否定する。
「それこそ昔の三好と六角の再演だわ」
そして、鉄砲傷を見やり、言いきった。
「天下布武は俺がやると言っただろう?世の静謐のためなら、倒幕してくれる!」
倒幕。
はっきりとそう口にした。
信長が今回、もしも逃げ遅れて、朝倉と浅井に挟み撃たれ、討ち果たされていたなら、今頃信長は逆賊の汚名を着せられ、逆賊を討った朝倉と浅井が幕府の要職に就いていただろう。
朝倉、六角は何食わぬ顔で、以前見捨てた義昭に、さも忠義面して仕えていただろう。
「このまま岐阜におっても、逆賊にされよう。朝倉が上洛して、公方と帝を手にしてしまう前に、やらねばならぬ」
だが。将軍は実はそこまで重要でない。帝だ。
「最も大事なるは帝なのだ。帝さえ手にしておれば、将軍を朝敵にもできる。天下静謐は必ず俺の手でやる。だから、公方が朝倉にいいように操られた時は、倒幕してくれる」
そう言いながらも、どのような事態になろうとも、すでに倒幕は信長の中で決定したことのようであった。
「俺を出陣させ、その隙に改元を強行するとはな。――おのれ、公方め!」
濃姫は義昭の心情を思った。
義昭は力を持ちたいのだろうと。この正月、信長から五ヶ条の条書を認めさせられ、傀儡化されたことが不本意なのではないか。
「もしや、朝倉、浅井がお屋形様を討ったならば、公方様にはその方がご都合が宜しいのではございませぬか?公方様の欲しておられる軍は朝倉の軍。お屋形様を出陣させ、それを朝倉と浅井に挟み撃たせようと――」
そこまで言って、濃姫は震えた。
「浅井の裏切りは、公方様からの御意。公方様がお屋形様を朝倉軍に殺させるために、朝倉討伐を仕組まれ、予め朝倉、浅井、六角にご内書を賜っていたのやも……」
そうでなければ、いくら旧知の朝倉からの誘いでも、説き伏せられて、信長を裏切る浅井とは思えない。裏切れば、御敵になってしまうのに、たかが旧縁ごときをそこまで大事にするであろうか、この乱世に。
だが、これが義昭の密命ならば、朝倉に同心する理由として、頷ける。
「ははは、凄い話だな!なればお市は絶対帰らせてはもらえまい。長政は公方の意志でお市を人質にしておるのだろうからな」
信長は冗談のように受け取った。
一頻り笑うと、信長はまた濃姫に真顔を向けた。
「六角家の嫡流なる者のことだが――」
「はい。小倉殿にもご協力頂き、捜しておりますが、六角義治の内室は未だ見つかりませぬ」
「いや、それはもう良い。かの嫡流なる者に近江を任せることはない。義治の女房殿を見つけ出して、めあわせる予定はなくなった。ただ、当家で歓待せねばならん。誰か織田一門の中から、適当な娘を嫁がせる」
濃姫は驚いた。しかし、素直に従い、六角左京に釣り合う適当な娘を見繕うと答えた。
「六角か――」
六角と言えばと、思い出したように信長は。
「此度の謀略は公方の発案ではなく、恐らく六角義治の父の承禎(義賢)が考えたことだろう」
「朝倉と浅井でお屋形様を挟み撃つ案を?六角が提案したのですか?」
濃姫はあまりに意外と、身をやや仰け反らせた。
「俺が死んで一番得するのは、朝倉でも浅井でもない。旧領を取り返せるであろう六角だ。俺は前々から越前への出陣を願っていたからな。それを知ってこの計画を立て、水面下で朝倉に働きかけていたのだろう。もともと六角と朝倉は縁浅からずとは聞くが、六角は浅井を目の敵にしてきた。六角が毛嫌いしていた斎藤義龍と同盟したのも、浅井を討つためだったが。此度はその浅井を引き入れることを、率先して六角が行ったとの噂だ」
「まあ、では黒幕は六角承禎でしたの……」
「仇敵の浅井へ六角が直接働きかけても、長政は俺の妹婿だし、一蹴されるだけだろう。だが、昔から同心していた朝倉からの誘いならばな。六角は朝倉に浅井を誘うよう依頼したのではないか。朝倉からの誘いの後で、承禎が久政に直接交渉したのかもしれぬな。久政は六角からの独立を渋っていたというから、同意して、長政にうんと言わせたと」
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「これから近江はどうなりましょう?」
六角が是が非でも旧領を取り返さんと、これから大いに暴れるであろう南近江。まさにその地にいる冬姫のことが、益々案じられて堪らない。
「だから、冬姫はとても重要な娘なのだ。織田に入れた小倉鍋もな」
そこで信長は急に思い出したように。
「ところで、此度は小倉鍋に近江衆を説得させたそうだな。此度、近江で一揆を起こしたのは地侍ばかりで、先年俺に降伏した六角旧臣どもは、誰一人裏切っていない」
「宜しゅうございました。お屋形様のご加増による懐柔の成果と、お鍋様のお手柄です。どうか、お鍋様をお訪ね下さい。一時は流産の危険性もございましたが、今は安定しておられまする故」
信長はたちまち顔を歪めた。
「まさか本当に懐妊しておるのか?そなたからその旨文が届いた時には、半信半疑だったが。未だに信じられん」
とはいえ、身に覚えがないという様子ではない。
(やはりお屋形様はお鍋様と御寝なされたのだ)
濃姫はやるせない気持ちが起きかけるのを堪えた。
「前夫との間にも二人の子。織田に来てすぐに孕むとは。孕みやすい質の女だな」
呆れたように言う信長は、まるで他人事だ。
「お屋形様!ちゃんと労いにお出座し下さいませよ!ご子息・甚五郎殿の領内にはなお敵が溢れ、城は浅井方の標的にされているとか。いつ落城してもおかしくない状況ですのに!」
「わかったわかった。明日の昼にでも訪ねるよ。今日はそなたに色々話がある」
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明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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