小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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織田家の室

八・隠れた本心(下)

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 翌朝、信長は人質の少年たちの様子を見に行った。彼らは丁度弓術の時間だったが、その中に、一際目を引く少年がいた。

 きびきびとした動き。無駄のない弓さばき。流れるような美しい動作に、信長が思わず見とれると、それは甚五郎だった。

 信長は人質たちの間を歩いてきた。皆、信長と気付くや、さっと片膝を付いて首を垂れる。

 甚五郎もそうしたが、信長の足はその前で止まり、

「こんな所にいたのか」

と、声をかけた。

「はっ」

 いかなる心情で人質に混じっているのか。何も語ろうとしない。

 信長は何となく理解して、敢えて聞かずに、弓は誰に習っていたのかと訊いた。

「此度討ち死に致した高野城代にございまする」

「……そうか」

 六角氏は馬術弓道、様々な武術を極めた者ばかりである。あのどうしようもない義治でさえ、弓の名手だ。

 だから、家中にも達者な者が溢れていたのだろう。かの伝兵衛も優れていたものと思われる。

「来い」

 信長は人質たちの中から甚五郎だけ連れ出した。

 邸の庭までくると、お鍋の居室が見える。その池の前で、信長は甚五郎に話し掛けた。

「こちらの暮らしには慣れたか?」

「はい。おかげさまにて」

 甚五郎は口数の少ない子供だ。そんなところが父親に似ていた。

「高野、小椋のことは大変であった。おかげで俺も無事に岐阜に戻ることができた。感謝している。高野城代は気の毒なことであった」

 信長は半ば詫びるように言った。少年は俯いている。

「そなたを岐阜に呼んでおいて良かった。城代は気の毒であったが、もし、そなたが高野におったならば、そなたの命もどうなっていたかしれぬ。母を悲しませることにならずに済んだ」

 ぎゅっと甚五郎は唇を噛み締めている。

(こやつは俺をどう思っているだろう?)

 ふと信長に、そんな疑問が浮かんだ。

 どう思おうと、甚五郎はこの岐阜で暮らすであろう。黙ってお屋形様の御意に従えと、お鍋に命じられ、周囲にもそれを強要されよう。甚五郎が信長を恨んでいようといまいと、甚五郎がおとなしく信長に従い、その庇護の下に暮らすことは間違いなかった。

 だが、気にはなる。

(父親が死んで、俺が母親の新しい夫となり、すぐに孕ませた。高野を危険に晒させたのも俺だ)

 ぽんとその薄い肩に手を置く。びくっと甚五郎が顔を上げた。まだ十歳にも満たない、幼児とも見える顔だ。

「俺は養父だ。そなたの父だ。そなたには真の父がいるから、俺を父とは思えないかもしれないが、遠慮はしなくてよいぞ」

 その一言だけは、言っておきたかった。信長はふっと柔らかく笑った。

「……はい」

 この少年を相手にしていると、どうにもお鍋を無下にもできない気持ちになってくる。

 あまりお鍋と馴れ馴れしくしても、息子としては不愉快だろうが、逆でも不安だろう。

「母上は元気か?」

「はい。元気になりました」

「そうか。では、母上と会って話がしたい。母上のもとに案内してくれるか?」

「はい」

 幼さの全く感じられない表情で甚五郎は頷き、信長をお鍋の居室に導いて行く。

 お付きの侍女たちが、女主人のもとへお屋形様がお渡りだと、嬉しげに、誇らしげに出迎える。

 彼女らの中を歩きながら、信長はふと違和感を覚え、先行く甚五郎を呼び止めた。甚五郎が訝しげに振り返る。

「於巳の姿がないようだが。於巳はどうした?」

 すると、甚五郎はちょっと気まずそうな顔をして、ためらった。周囲の侍女たちもおろおろとする。

「……どうしたわけか、母の勘気で、遠ざけられております」

「勘気だ?」

 信長は仕様がないという表情でまた歩き出す。全くお鍋というのは短気な女だと、そう思っているらしい。

 信長が部屋に到ると、お鍋が下座で平伏していた。すでにけっこう腹が目立っている。

 信長は甚五郎をそのまま部屋に招き入れた。

(甚五郎とお揃いとは。高野が浅井方に攻められて、危機に陥ったけれど……蒲生軍が援軍に駆けつけなければ、おそらく落城していたわ……まさか、それを伝兵衛の失態と見なして、領主である甚五郎にその責任を負わせるおつもりなのかしら?)

 同じく甚五郎の所領の小椋はなお敵の侵入を許している。

 平伏しながら、お鍋は処分される可能性を考え、汗をかいていた。

 その処分を言い聞かせるため、甚五郎とお鍋を同席させようと、信長は甚五郎を伴い、入室させたのだろうか。お鍋がぎくりと硬直すると、出し抜けに。

「おい、於巳をどうした?」

 信長が訊いてきた。

 お鍋は冷や汗に堪えながら、ご無事で何よりと一言告げ、そして、於巳のことは何でもないと答えた。

「またくだらんことで、怒ったんだろう?やれ、於巳、気の毒にな」

(於巳を遠ざけた理由なんて、口にしないわ、あなたにだけは……)

 お鍋は語気を改め、先ずは言わねばならぬことを口にした。

「時にお屋形様。お留守の間に息子たちをお呼び下さり、感謝申し上げます。こちらは呑気に暮らさせて頂いておりました。お屋形様が大変な思いをなさっている間に」

「いや、そなたも大変だったな。懐妊のこと、礼を言う。それから、近江衆の懐柔に手を尽くしてくれたそうだな。これにも礼を言おう」

「いいえ、御台様からご指示を頂いたことです」

「ふむ」

「お屋形様には此度、八風越がお使いになれなかったと……私が側室に上がっていながら、面目次第もござりませぬ。八風越えができなかったが故に、千草越を使用され、そのせいで襲撃されたと伺いました……お怪我は宜しいのですか?」

 お鍋はやや重い腹を引きずるようにして、身動ぎして言った。

 信長は上洛前のように、目に狂気を覗かせていない。

 甚五郎はお鍋の背後に、身を小さくしてかしこまっていたが、上座から信長はそれを温かな眼差しで見て、こっくり頷いた。

「ほんの微かに肌の表面をかすっただけだ。かすり傷よ。俺はこうして無事に帰れたが。蒲生と小倉の奮闘がなければ、無理なことであった。小倉右近大夫を討つため戦った高野勢には感謝している」

 感謝している――その言葉に、お鍋は腰がふにゃりと抜けるほど、ほっとした。

「もったいのうございます……」

 低頭する。

「高野城代のこと、気の毒であった。そなたが生まれた時から仕えていた者だそうだな。あまり気落ちせずに、体を大事にせよ」

「……恐れ入ります」

 お鍋が返事すると、信長は立ち上がった。もう行くのか。

(此度はお咎めなしということなのね?)

 ほっとする。このまま何事も口にせずに、信長が行ってしまうのを祈る気持ちで待った。

 だが、同時にお鍋の心には言い知れぬ不安が、黒い染みのように広がる。

(浅井方が再び高野を襲う構えとか。蒲生軍も撤退して、高野の負傷兵だけが籠る傷だらけの城なんて。浅井方に攻められたら、ひとたまりもないわ……今度こそ高野城は浅井方に占拠されてしまう。もしも、高野が敵の手に渡れば……甚は領地を失うばかりか、今度こそ、責任を負わされるのではないかしら?)

 甚五郎は所領を持たず、ただ身一つとなり、この織田家から追放されてしまうのかもしれない。母のお鍋に、それを阻止し、守ってやることはできるのだろうか。

 お鍋の頭の中は、高野が浅井方に奪われるという考えでいっぱいだ。

 そんな心情も知らぬであろう信長は、上座から下がって、どかどかと部屋の外に向かって行く。

 入側近くにきて、信長はそこで一度身を屈ませ、甚五郎の肩に手をやった。

「良い天気だ。これから一緒に、遠乗りでもどうだ?先に行って、支度してろ」

「は。はいっ!」

 驚いて、弾かれたように顔を上げた甚五郎は、それでも嬉しげに、走って行った。母の思考など知る由もない。

 彼がいなくなると、信長は何故かそのままその場に座り込んで、視界に入る侍女達を手で払った。

 侍女達は頭を下げ、素早く下がって行く。

(すぐに行ってくれるかと思ったのに……)

 お鍋は留まる信長に、再びの緊張を強いられた。

「……まだ幼い息子、足手まといでしかございますまいに――。忝のう存じまする」

 振り返って頭を下げると、まるで二人きりの逢瀬を楽しむかのように、信長がお鍋の手を握った。

「あれは息子だ。あまり臣下臣下と育てるな。俺は親のつもりで養っていく」

 信長の気遣いに、お鍋は息を飲んだ。信じられないと、その瞳を見つめれば、信長は実に穏やかに見つめ返してきた。

「そんな、どうして……私はお屋形様に対して、罪を犯しましたのに」

「そなたはそなた。甚五郎は甚五郎だ。甚五郎には無関係のことよ。色々あって、あの小さな体で傷ついていよう。そなたは母として守ってやれ。その点については、俺や織田家への遠慮は要らん」

 優しいくらいの声音に、お鍋は涙をぽろりとこぼした。そして、気付いたのだ。信長と自分の思考があまりにもかけ離れて、少しもかみ合わないことに。

(私の心は何と汚れているのだろう……)

「おい、何だよ?何で泣く?」

「申し訳なくて……」

「流産しかかったんだろう?泣いたら、体に障るだろうよ」

 信長は握っていた手を離して、今度はそれをお鍋の背に回した。そして、背をやわやわと擦る。

「……私は、お屋形様が甚五郎をお呼び寄せになったのは、そうすることで、私が苦しむような事態が起こることになるからだと、そのように思うほど、心が汚れておりました。あの猩々緋色の小袖の罪の報いを受けさせようと、お屋形様が甚五郎をお呼びになったのだと。お屋形様の御慈悲を疑ったのです。罪を犯した上に、心も汚いのです……」

 信長は返事をしなかった。しないのか、できないのか。ただ、黙々とお鍋の背を撫で続けている。

「私の罰は、どうやって負えば良いのでしょう?」

 お鍋は袖口で口や鼻を押さえながら、しゅくしゅく泣き続けている。

「高野が再び浅井軍の攻撃を受け、城兵どもが堪えきれずに降伏するか逃亡し、或いは戦って落城すれば……私と息子は、どのような罰を……私はどう苦しめば良いのでしょうか?」

「仮に高野を失っても、俺の命で甚五郎は高野を留守にしていたのだから、責任は問わぬ。甚五郎やそなたを咎めはせぬ」

「……では、あの小袖の罰は?私のお屋形様への罪、御台様への無礼は?」

「……もう受けただろう。無理矢理俺が側室にした。そなたは先夫の妻の身でいたかったのだろうに。それが叶わぬなら、死にたかったのだろう?そなたにとって、現状は最悪ではないか」

「いいえ!」

 お鍋は首を振った。

(於巳の言った通りだもの!私はずっと信長を密かに好きだったのよ。亡き殿の妻でいながら、信長を。私はそんな自分を認めたくなかっただけ。殿への後ろめたさから、信長を拒絶しただけよ。……私は何て自分本位なんだろう?信長の気持ちも考えず、自分のことしか考えないで、あんな恥ずべき罪を犯し、信長を傷つけ、怒らせた……)

「鍋よ、あの小袖はもうない。もう忘れてよい。いや、忘れよ」

 信長は睫毛を伏せていた。

「そんな……私をお許しになるとおっしゃるのですか?」

「いや、水に流してくれ」

「何を……」

 信長の言わんとすることが、さっぱりわからない。

「俺の悪ふざけが過ぎた。そなたはさぞ不快だったのだろう。あの小袖を渡した時、そなたには既に許嫁がいた。だが、俺はその小袖を着て俺の所に嫁いでこいと言った」

 確か、許嫁からお鍋を奪ってやるなどとも言った。お鍋は悲鳴を上げて逃げ、その数日後に会った時には、信長を大嫌いだと言った。

「そなたにとってその許嫁は、やがて夫になり、かけがえのない男だったのだろう。二人の子も得て。そなたがどんなに一途に夫を慕っていたか知れぬ。俺なんかから贈られた小袖など、忌々しいだけだったはずよ」

 信長は相変わらず穏やかだが、その顔の皮にやや寂しさが漂っている。

「まして、その夫が死んだ時、俺はそなたを幽閉していた。そのために、そなたは夫の葬儀に出られなかった。そんな俺の側室になれと言われても、腹が立つだけだっただろうよ。御台にあの小袖を送りつけた気持ちは、わからなくもない」

「ち、違……」

 違うという言葉は、しかし、嗚咽に遮られて、うまく喉から出てこない。そんなお鍋の背をなお擦りながら、信長は言った。

「そなたのしたことは許し難いことだが、気持ちはわかる。また、それくらいの激しさと反骨のあるそなただからこそ、俺も御台もそなたを側室にと望んだのだ。そして、今、そなたの腹には俺の子が宿っている。そなたの気持ちはわかるが、その子のためにも、水に流してくれ」

 信長はなお一層やさしく笑った。こんな表情の信長は初めてだった。

「俺がそなたに小袖を贈ったことを、なかったことにしてくれないか?」

 お鍋は頭を殴られたような衝撃を受けた。

「あの小袖はもうない。だから、初めからなかったことにして欲しい。その腹の子に免じて」

 いよいよ激しく泣きながら、ぶんぶんとお鍋が首を横に振り抜いた。

「駄目です……違うんです……私のせいで……ごめんなさいごめんなさい……私が悪い……」

 しゃくり上げてどうにか言葉を紡ごうとするお鍋だが、信長は困ったようにため息をついた。

「なかったことにしてくれないと、先に進めないのだが……駄目か?――南近江を治めるために、六角旧臣と結ばねばならぬ。また、伊勢との峠道を得るため、そなたを側室にした。そなたは織田と六角旧臣どもの架け橋となって、旧臣どもを纏め、俺の天下布武を助ける――そのための側室。そういうことにして欲しい。小袖は初めから存在しなかった。それで……」

「私は!」

 お鍋はきっと顔を上げた。

「織田家とお屋形様の御ために、南近江のご統治のお手伝いを致します!」

 でもと、そこで言葉を区切って、袖口で涙を拭った。

「……私の悋気ですから……」

 お鍋はようやく本当のことを口にした。

「だから、お屋形様の御ために尽くして参ります」

 信長ははっとしたようにお鍋を見つめた。何か逡巡していたが、ややあってこう言った。

「……あの小袖はなかったことにしてくれ。俺ももうそなたに何事かの仕打ちもせぬ、不問にする。あの小袖のことは金輪際一切口にはせぬゆえ――御台にはこのまま黙っていてくれ」

 信長はそう言って、そっとお鍋から離れた。

「私の悋気を――!」

 お鍋がなお言い募ろうとしたが、信長は立ち上がって部屋を出て行ってしまった。

「お屋形様!」

 呼びとめても、信長は振り返らない。足音がどんどん遠くなって行く。

 やがて鳥の音ばかり聞こえるようになった時、お鍋は泣き崩れた。

(御台様!御台様!――ああ、やっぱりあなたは御台様が大事!私の嫉妬は激しくなるばかりよ!)

 小袖はなかった。

 初めから、信長とお鍋の間には、特別な感情などはなく。ただ信長が南近江を円滑に治めるために、織田家と小倉家との間で政略結婚が行われたに過ぎない。

 そう信長は言っているのだ。信長とお鍋の間に気持ちなど初めから存在しなかったのだと。

(やっぱりあなたは御台様を選ぶのね!私はどんなにあなたを想っても、あなたに振り向いてはもらえない!あなたの子を宿しても。あなたは私を恋うてはくれないの!)

 お鍋は罰を受けないことを約束され、穏やかな生活を保証された代わりに、再びの失恋を強いられた。

 そう思った。

 遠ざけられている於巳が、庭木の陰で声を殺して泣いていた。今は側にいることもできず、何もしてあげられない。

 一方、甚五郎と乗馬で野駆けに出掛けた信長も、風に顔をなぶらせながら、どこか上の空だった。後ろから必死についてくる甚五郎の馬の蹄の音が、規則性を保って響いている。

 悋気――お鍋は確かにそう言って泣いた。

 お鍋があの小袖を濃姫に送りつけたのは、悋気。それほどの悋気。

(悋気だと?どういうことだ?)

 仮にそれが本当だとしても、信長はその気持ちを受けとめてやれない。

(俺は――?)

 だが、そもそも何故、お鍋にあの小袖を贈ったのだろうか。

 悪ふざけ?からかい?

(いや、違う)

 それは確かに違う。

 火事に怯まぬお鍋の勇敢さ、皆が恐れる信長に真っ正面から立ち向かう清々しさが、好ましかったからだ。

 そして、何より――。

 人間は戦をするようにできている、戦は人間の本能であり、自然の摂理であるから、戦はなくならないのだと言った、近江の少女らしい達観が、信長に憐れみと同時に、挑戦的な感情を芽生えさせたのだ。

 そして、お鍋は倒幕という概念を持っていた。

(天下布武――俺にそれを教えた小娘)

 だから、お鍋に小袖を贈りたくて仕方なかった。

(俺の天下布武を見て欲しいと、あの時強く思った。俺の手で実現する天下の静謐を――)

 そして、今も、天下布武実現に向けて疾駆する己の姿を見て欲しいと思っている。いや、側室になった今だからこそ、お鍋にも手伝わせたい。そして、達観した近江の少女だったお鍋にもそれができるのだと、実感してもらいたいのだ。不戦、天下静謐の実行は、人間誰にもできることなのだと。

 そこまで思って、はっとした。お鍋と一緒に天下布武を実現していきたいという思いがあることに気付いて、愕然となった。

 それは、濃姫と共に進めて行くものではなかったか。信長の大志を一番理解している濃姫と――。

(俺は――ああ、だから、あの小袖を無下にされて、あんなに狂おしいほど腹が立ったのか!)

 信長にとってお鍋は特別な存在だった。初めて会った時から。

 その己の本心に気付いて、信長は愕然となった。

(お鍋は俺の心……大志の拠り所だった。「武」だった……お濃は大志を為す俺の仲間)

 天下布武という大志。

 その象徴がお鍋――心。

 その同志が濃姫――存在。

 しばらく疾駆して、やがて水辺で馬を休ませる。

 夏の日射しの下、甚五郎は馬と同様、息を切らしている。この幼い高野領主は、領地を離れて、己の領地の様子も知らないが。

 高野は右近大夫に攻められたばかりで、壊れた城館の修復もままならない状態だろう。ぼろぼろのまま、浅井方と対峙している。後方には、先年焼き討ちに遭ったとはいえ、なお僧兵どもが拠る、六角家の菩提寺・永源寺がある。

 浅井・六角方が挙って攻めれば、すぐに高野は落城するだろう。高野城が落ちれば、次は対岸の相谷城の番かもしれない。

(甚五郎が所領を失うばかりか、小倉一族の所領が無くなってしまうな。小倉家が消えてしまう)

 甚五郎が岐阜にいる限り、小倉の名跡だけは残るだろうが、所領はなくなってしまう。

(越前守、右近大夫の所領を甚五郎に与えればよかったのか?)

 蒲生家に与えてしまった。だが、それは間違ってはいない。

 蒲生家が山上を領し、市原、甲津畑を管理することで、千草越という大事な道を、織田家は手にしている。今のように、東山道を失っていても、都へ通じる道を確保できていれば、どうにかなる。

 千草越、大河原越など、織田家と都を結ぶ道は、実力者で、信長を絶対裏切らない、信長の娘がいる家に任せなければならない。

 山上を蒲生家に与えた信長の判断は正しい。

 だが。蒲生家は先に小倉本家の佐久良を領し、さらに山上まで領することになった。

 小椋、高野、相谷が浅井に奪われれば、小倉家の所領が全て無くなってしまうのだ。

(戦は人間の本能ゆえ、なくならない、か……隣を攻めて行くのは、人間の本能)

 隣の奴に攻め込まれるのは、自然の摂理だから当たり前だと達観していた、少女の頃のお鍋を思う。

(今でもそう思うているのだろうな……その思いを俺が改めさせるのだと――世の静謐を俺の手で実現してみせ、お鍋の悲しき達観を改めさせようと思うていたに。共に天下布武を実行させようとさえ思うているのに)

 そのお鍋に、よりによって彼女の所領を失わせるような事態を味わわせていようとは。

(道を敵に奪われ、狙撃までされて、命からがら逃げ帰ってきた俺に、お鍋は失望しただろう。お鍋の目に、俺とはどんなに情けない男に映っているのか)

 先程の驚愕から一転、信長は鬱々たる表情を浮かべていた。

「俺の手で戦のない世を作るのだと約束したのに。俺が、隣の奴が隣の所領を奪うような世を終わらせ、天下静謐を実現すると言ったのに、すまんな」

 お鍋に向けて言ったものか、傍らの甚五郎に言ったものか。

(俺って奴は、お鍋の前で格好つけて、阿呆よ。隣の奴さえ止められなくて、何が天下だ、何が天下静謐か)

 お鍋に格好良く見せたかったらしい。信長は自分を笑った。

「今はこの体たらくだ。よりによって高野を危険に晒しているのが、他ならぬこの俺だ。だが、必ず小倉家の所領は俺が守ってやるから、今の俺を許してくれ」

 甚五郎に許しを乞うような目を向けた。

「お屋形様……」

 甚五郎が子供ながらに何か察して、信長を見上げている。

「すぐに浅井を討伐しに行く。今、秀吉(藤吉郎)が着々と準備を進めているところだ。あと数日よ、数日で浅井は俺が滅ぼす」

「はい!」

 甚五郎は真っ直ぐな返事をした。

 六角承禎が南近江奪還をかけて、本格的に仕掛けてきたのは、ちょうどこの頃である。

 南近江の織田方の諸将は、六角対策に追われることになる。
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