大人への門

相良武有

文字の大きさ
24 / 67
第七話 陽炎揺れて

②中村洋子、裕次の旅館で働き始める

しおりを挟む
 三日後、裕次が所用を済ませて車を車庫に入れ勝手口へ廻ると、豊子が鼻歌を唄いながら打水をしていた。歌は調子外れであるが、気分はひどくご機嫌のようである。
「あ~ら、お帰り」
普段の仏頂面が嘘のように愛想が良い。
裕次は戸惑い訝って空を見上げた。真夏の太陽がじりじりと照りつけていた。
あきれ顔で首を捻りつつ中へ入った裕次は、あっ、と眼を見張った。
しゃがんで雑巾がけをしている女が居た。向こう向きで地味な服装をしているが、長い髪を首の後ろで無造作に束ねて、紛れもなく中村洋子である。
「君・・・」
洋子は気怠そうな目で裕次を見たが口元が微かに微笑った。
入って来た豊子が洋子に命令口調で言った。
「下が終わったら二階も頼むわよ。部屋の掃き掃除は私がしておいたからね」
洋子は頷いて黙って雑巾がけを続けた。
裕次は豊子に訊ねようとしたが、彼女は鼻歌交じりで調理場の方へ消えて行った。
洋子はバケツの水で雑巾を漱ぎ、階段を拭き始めた。
 裕次が事務室へ入って行くと、会長が裕次の机の前に座ってパソコンを覗いて居た。
「会長、あの娘・・・」
キーボードを叩きながら会長が答えた。
「働きたいって、そう言うから・・・」
「あの娘が?」
「住込みの仲居が居なくなって随分経ったが、これで豊さんの風向きがすっかり変わった。久し振りだ、豊さんの鼻歌を訊くのは」
「あの娘、豊さんに丸め込まれたんじゃないか、脅し文句か何かで・・・それにしても良く決心したもんだなあ」
「だが、長くこんな処で働く女じゃないな。一週間か十日、長くて一月ってところだろう」
「・・・・・」
「もっとも豊さんに虐められなければの話だが、な」
「そうだな、頑固で虫の好かん相手には容赦しない人だからね、豊さんは」
掃除を終えた洋子が調理場へ入って豊子に報告した。
「ああ、終わったのかい、ご苦労さん」
「はい」
「あのね、こんな物が箪笥の底から出て来たんだけど、私にはもう派手になって着られないから、あんたが着ると良いよ」
差出されたのはきちんと畳まれた浴衣だった。洋子は丁寧に受け取って頭を下げた。
豊子が調理場から出て行くと、洋子は丸椅子に腰を降ろし、食器台に凭れてぼんやりとした表情を浮かべた。顔色が未だ未だ良くない。
 その夜、離れの座敷に団体客が入った。
洋子は豊子から貰った浴衣を着て気忙しく座敷と調理場を行き来した。座敷からは頻りに酔っ払った濁声が聞こえて来る。
「おい、ねえさん、酒、酒や!」。
「ねえさん、ビール、ビールをもう一、二本」
「名前、何て言うんだい?ねえさん」
裕次は事務室で執務をしていたが、気持が落ち着かず、いらいらと身を起こして、調理場と座敷を繋ぐ渡り廊下に出て行った。丁度、座敷から出て調理場へ向かう洋子と出くわした裕次は声を掛けようとしたが、忙しく立ち働く彼女は裕次の前を素通りして見向きもしなかった。そして、調理場から酒やビールをワゴンに載せて再び裕次の前に姿を現した洋子は裕次に軽く頭を下げて通り過ぎた。もう何年もこの仕事をやって来たかのように、テキパキとした動きで座敷に向かって行った。裕次は見送りながら、ふう~っと溜息を洩らした。洋子の後姿が酷く艶めかしく見えた。
調理場から出て来た豊子が裕次を睨みつけたが、今夜の豊子の顔は洋子に刺激されたのかかなりの若作りだった。
「その口紅、良く似合うよ、豊さん」
豊子は嬉しそうに微笑んで酒を運んで行った。裕次は、参ったな、と吹き出しそうになった。
 慌しく喧騒だった一夜が明けて、裕次は調理場で無造作にコップを取って蛇口を捻り、水が一杯になったコップを口へ運んだ。と、その瞬間、傍に走り寄った洋子がそのコップをひったくって水を捨てた。
裕次はムッとして洋子を睨みつけた。
「何をするんだよ!」
洋子はコップに蛇口の水をジャーとかけて洗い始め、指先に塩をつけてキュッ、キュッと磨いた。長い指先で底の方まで洗い切ると、水を流して光に透かして見た。コップは底まで新品のように透明になっていた。その綺麗になったコップに水を汲んで差出された裕次は、新鮮なものに出逢ったように洋子を見返してコップを受け取った。
「あのう・・・」
 茶の道具をお盆に載せて出て行こうとした洋子が入口で一度振り返ったが、何も言わない裕次を見て、微笑を見せて直ぐに出て行った。裕次はコップの水をごくごくと咽喉を鳴らして飲み干した。洋子への思いが胸にじわぁ~っと湧き上がって来た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

処理中です...