大人への門

相良武有

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第七話 陽炎揺れて

①一人の若い女性が崩れ落ちそうにフロントの前に現れた

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 午後五時を回って支配人の石倉裕次は旅館「橋観荘」のフロントでチェック・イン状況を確認していた。粗方の予約客は既に到着して入館手続きを終えていたが、尚、二組の未着客があった。
恐らく五時半過ぎにこの「天橋立駅」へ到着する普通列車でやって来るのだろう・・・。
 この駅は天橋立への鉄道の玄関口であり、丹後観光の拠点ともなる駅である。が、日本三景の一つに数えられて全国的にも有名な観光地である天橋立も、夏真っ盛りの八月上旬の今は、観光客は少し減って全館の全室が予約で一杯になることはあまり無い。海水浴客は家族連れが多く殆どが日帰りするので宿泊はそれほど期待出来ない。
さあ、そろそろ夕食の準備状況を確認しなきゃ、と思って裕次がパソコンの前から離れようとした時、正面入口の自動扉が開いて、一人の若い女性が、今にも倒れ込みそうな覚束ない足運びと崩れ落ちそうな前屈みの姿勢で、ロビーを突っ切って真直ぐにフロントの方へやって来た。
「あのう、予約はしていないんですが、泊めて貰えないでしょうか、お願いします」
声は擦れてくぐもり、息も切れ切れに、哀願するようにフロントの前に頭を垂れた。
髪は長く背中まで垂れ、洗いざらしのシャツは薄汚れて、履いているジーパンも黒ずんでいた。睫毛の長い大きな眼が垂れた髪の間から裕次を覗いて居る。女はまだ若かった。二十三、四歳だろうか、と裕次は慮った。
女はもう一度、擦れたしわがれ声で頼み込んだ。
「お願いします!」
白い歯が覗き、髪の間からきらきら光る片眼が見えた。
裕次はフロントの後ろのドアを開け、事務室の奥に向かって仲居頭を呼んだ。
「吉本さん、豊子さん、ちょっと来て下さい」
「は~い、只今」
丁度、調理場の夕食準備を点検して来た仲居頭の吉本豊子が事務室の中を横切ってフロントへ馳せ参じた。
「この人を二階の浦島へご案内して下さい」
 浦島と言うのは二階の一番奥の小さな和風ベッドルームで、予約を入れない飛び込み客専用の予備部屋だった。
豊子はフロントの前へ出て来て、蹲りかけている女を頭のてっぺんから足の先までじろじろ眺め回し、そして、今にも噛みつかんばかりの顔で裕次に何か言おうとした。
裕次は、まあまあ、そう怒らんと、という表情で二階へ促す表情をした。女は豊子に抱きかかえられるようにして二階への階段を登って行った。
 やがて、降りて来た豊子が口を尖らせて食って掛かるように裕次に言った。
「部屋に入った途端にベッドに倒れ込んで、宿泊票を書いたら、その侭直ぐに、眠ってしまいましたよ、あの女」
宿泊票には、氏名 中村洋子、住所 宮崎県延岡市××××、電話 〇九八二××××と端整な楷書文字で書かれていた。
「一体どういう心算なんですか?裕次さん」
「うん?」
「性懲りもなく訳の解らん女を簡単に泊めて。先月かて・・・」
「解かった、解かったよ」
フロントから出て行こうとした裕次の腕を掴んで豊子が引き戻した。
「解ってないじゃないですか!先月のあの女、憶えているでしょう?夜遅くにやって来て、今頃帰ると父親にきつく叱られるから泊めて下さい、そう言ったあの女・・・朝になって起しに行ったら、いつの間にやらもぬけの殻で、宿賃踏み倒されたじゃないですか」
「あんな女やったなんて、一生の不覚やったな」
「しっかりしてくれんと困りますよ。会長に怒られるのは何時もこの私なんですからね」
「会長だって豊さんには頭が上がらんじゃないですか」
「そんなこと有りませんよ」
「今日の人はあんな女とは違う。具合が悪いみたいやし、ちゃんと面倒見てやってよ、ね」
「知りませんよ、もう」
「あんまり邪険にすると、豊さんかて、何時お迎えが来るか解らん歳だろう、今のうちに功徳しておいた方が良いと思うよ」
「嫌なことを言うわね、この人は・・・私は未だ若いんです」
「俺の母親は五十歳で死んだ。豊さんはもう六十・・・幾つやった?」
「もう腹の立つ人やな」
「これでも俺は豊さんには気を使っているんやで。これから先もずう~っと長生きして貰いたいからね」
 この一言で胸の中がじい~んと来た豊子は事務室へ戻り、冷蔵庫を開けて西瓜を取り出して幾切れかに切った。直ぐに裕次を事務室へ呼び入れて皿に取り分けた二切れを差し出した。
「食べるでしょう?」
「流石やなあ、豊さん!」
「駄目です、煽てたかて・・・然し、あの女、お金持っているんやろうな」
「心配性やな、白髪が増えるやないか。自慢の髪なんやろう」
豊子は何も言えず黙って西瓜を頬張った。
「会長は今夜も帰らんのかなあ・・・」
「二十四歳の息子が支配人で苦労していると言うのに・・・」
「親父はおやじ、俺は俺や」
「奥さんに亡くなられて淋しい会長さんの気持は解らん訳ではないよ。けど、何ぼ淋しい言うたからって、彼方此方に二人も三人も・・・」
「其処が親父の偉いところやないか。良くやるよ、親父も」
切った西瓜をもう二切れ皿に乗せ乍ら豊子は、もう何をか言わんや、という顔をした。
 夜更けて眼覚めた女は四階に在る大浴場へ入り、湯船の傍にしゃがんで何度も手桶で湯を汲み上げ、頭からざぶざぶと被った。何もかもを全て洗い流すような被り方だった。やがて、風呂から部屋に戻った女は疲れ果てて崩れるように座り込んだ。その視線の先に、和風ベッドの枕辺に二切れの西瓜が皿にのせて置かれていた。誰の心遣いかを察した女の蒼ざめた顔に微かな笑みが浮かんだ。
裕次は旅館の中庭に立って二階の女の部屋を心配げに見上げていたが、部屋の灯が消えるのを見届けると、母屋の自分のリビングへ引き揚げて行った。
 翌朝、裕次が自分の寝室からリビングへ降りて行くと会長が老眼鏡をかけて新聞を開いていた。
会長は旅館「橋立苑」の創業者で、裕次が支配人を勤める「橋観荘」を初め、「旅館 橋立」や天橋立名物の知恵餅を販売する「橋倉茶屋」など石倉グルプの総師である。名は石倉隆一郎、年齢は当年五十六歳であった。
「おはよう。昨夜、帰ったの?」
「ああ、おはよう」
丁度そこへ仲居頭の吉本豊子がお茶を持って入って来た。彼女は何事かを話そうとしたが、会長が新聞から目を離さなかったので、何も言わずに直ぐに部屋を出て行った。
「何処の誰なんや?」
「うん?」
「お前の泊めた女」
「ああ・・・」
「名は?」
「中村洋子・・・」
「有り触れた名やな。本名ではないやろう」
「俺も未だよう解らん、彼女のことは・・・」
「強いて聞くこともない」
「うん、ただ一寸見かねただけや」
「倒れる寸前やったんか?」
「そうでもないけど、かなり弱っていたのは確かや」
「親切に声を掛けてやっても碌に返事もせん、そう言って豊さん、怒って居ったぞ」
「へえ~・・・」
「今日あたり、あの女のことで警察が来るかも知れん、そうも言って居た」
「まさか、そんなこと・・・」
「まあ、あんまり豊さんに世話を焼かすなよ」
「うん・・・」
 服装を整えてフロントに顔を出した裕次は徐に二階へ上がって行って、洋子の部屋の前に立ち止まった。暫く、心配そうな顔つきで中の様子を窺っていたが、ドアをノックするのを躊躇って、やがて階段の方へ引き返した。
洋子はベッドの中で眼を見開いて廊下の方へじろりと視線を動かしたが、足音が遠ざかるのを確かめると、ふぅっと苦笑を浮かべて、それから、のろのろと起き上がった。
落とした肩に疲労の色が濃く滲んでいる。髪をかき上げた顔は未だ未だ蒼白かった。が、その横顔は端正で美しかった。
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