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第13話 傷跡の理由
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冬の風が山の隙間を縫って吹き抜けていく。
グレイス要塞の朝はいつも冷たいが、その日の朝はひときわ厳しかった。
霜が石畳を覆い、息を吸い込むたびに肺が切れそうな痛みを感じる。
それでもリリアーナは夜明け前から訓練場に立っていた。
木剣を構え、徐々に呼吸を整える。
足の裏で砂の感触を確かめながら、一歩一歩、地の感覚を掴もうとする。
何度目かの素振りのあと、遠くから低い声が響いた。
「日の出前に剣を担ぐ奴なんて、俺の部下にもそうそういない」
振り返ると、ライナーが立っていた。
黒い外套の裾をなびかせ、朝日よりも鋭い視線を向けてくる。
「剣が私に馴染むまで、あと百日はかかりそうで」
「百日? ずいぶん控えめな見積もりだな」
「なら三百日に訂正しておきます」
乾いた笑い声が返ってくる。
「お前は真面目すぎる。剣に必要なのは覚悟と執念だ。器用さは最後に付いてくる」
「覚悟と、執念……」
リリアーナは呟きながら、彼の方に歩み寄る。
「将軍のそれは、どこから来るのです?」
ライナーの表情に一瞬、影が落ちた。
彼は無言でマントを外し、左腕の袖をまくり上げた。
そこには古い傷跡が走っていた。肩の根元から肘にかけて、鋭く斜めに刻まれた深い痕だ。
「ずいぶん前、まだ俺が士官学校を出た頃。初めての戦場で、弟を庇って受けた傷だ」
「……弟さんが」
「ああ。俺は生き残り、奴は死んだ。剣を握るたび、この痛みを思い出す。二度と失敗しないと誓った。だから戦場に立つことをやめなかった」
声は淡々としているのに、その言葉の奥には焼けつくような感情が隠されていた。
「弟の名はルーカス。母国の王を信じ、その命令に従った結果、犬死にした。それから俺は、誰の命令も盲信しないと決めた」
リリアーナは言葉を失った。
彼の背に刻まれた過去は痛々しいほど重い。
だが、それこそが彼をこの地位に押し上げた強さの源であるともわかっていた。
「将軍、それでも今は王に仕えている。信じないはずの相手に、どうして?」
「信じちゃいない。ただ利用しているだけだ。王とて道具だ。俺が守りたいのは、この国に生きている人間の命だ」
そう言い切る瞳の中には、鋼の覚悟だけが宿っていた。
リリアーナはその瞳をまっすぐに見返した。
「あなたが守りたい“命”の中に、私も含まれていますか?」
短い沈黙。
ライナーは眉をほんの少しだけ上げた。
「当たり前だ。お前はこの戦いの一部だ。お前が死ねば全てが無駄になる」
「……それは、職務上の話ですよね?」
彼の口元が苦く歪む。
「職務以外で誰かを守る余裕なんか、とうの昔に捨てた」
「でも、それでもあなたは人を救おうとしている。昨夜も、私を」
リリアーナの声がわずかに震える。
ライナーは目をそらし、肩を回した。
「……お前が死なれたら寝覚めが悪いだけだ」
「そういうことにしておきます」
微笑むリリアーナの顔を見て、彼の頬にかすかな紅が差したようにも見えた。
*
彼女は昼過ぎに執務テントへ戻った。
王妃陛下への報告書を書くためだが、手が止まる。
“黒い鎧の将軍は、孤独に耐えながら戦場に立つ。彼の背にある傷跡は、誓いの証であり、枷でもある”
文字にしてしまうと、その重みが余計に痛く感じられた。
インクが一滴、紙に落ちる。滲んで広がる黒い染みが、彼の傷を思わせて胸が締めつけられる。
そのとき、テントの入口が開いた。
「報告書に血文字でも書いているのか?」
「将軍……」
彼は腕を組み、苦笑した。
「そんな顔をするな。兵たちが気味悪がる」
「大丈夫です。ただ、少し考え事をしていました」
「考え過ぎは命取りだ。今度から俺の前では余計な策を練るな」
「なんだかひどい言いぐさですね」
「冗談だ」
そう言いつつ、彼は机の上の羊皮紙に視線を落とした。
「……俺の話を報告書に書いたのか」
「ええ。王妃陛下はあなたを信じています。報告しないのは不誠実です」
「信じて、ね。俺は何年も王に“忠誠心が足りん”と叱られ続けているのに」
リリアーナは笑みを零す。
「陛下は、あなたの忠誠の形を理解していると思います。たぶん、王にすらできない“人としての忠義”をあなたは貫いている」
ライナーが眉を上げ、少し無言のまま立ち尽くす。
風がテントの端を揺らす音だけが響いた。
やがて彼は顎を引き、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺のことをそんなふうに言う奴は初めてだ。気分が悪いな」
「なら訂正してもいいですよ?」
「いや、いい。たまには悪くない」
そう言って彼はテントの出口に立ち、背を向けた。
夕日が外の地平線を染めている。
「今日はここまでにしろ。夜には雪が降る。冷える前に休め」
「将軍は?」
「俺は見回りだ。下手に近づくなよ。また刺客が出る」
彼の背に「気をつけて」と声をかけると、一度だけ手を上げて去っていった。
*
夜。
雪が静かに降り始めた。
リリアーナは自室の窓から外を見つめていた。
その白の中にゆらゆらと影が動く。
近づく黒い人影。
彼女の胸が凍りつく。
「……まさか」
扉がノックされるより早く、風が音を立てて吹き込み、明かりが消えた。
闇の中に微かな足音。
再び狙われた。そう理解した瞬間、リリアーナは腰の短剣に手を伸ばす。
彼女の手が震える前に、外から鋭い声が轟いた。
「リリアーナ、下がれ!」
激しい衝撃音。扉が弾け飛び、黒い外套の男が床に倒れた。
その上に立つのはライナーだった。
「くそ、またか……!」
彼は飛びかかる敵を蹴り倒し、剣を抜く。
短い格闘の末、敵は血の泡を吐いた。
「ま、また現れましたね……」
震える声を抑えながら、リリアーナが呟く。
「お前を狙っている。今回は追跡用の毒刃を使っていた。――体を狙う気はない。生け捕りにしたかったらしい」
「捕らえる?」
「そうだ。何かを聞き出す目的だ。つまり、お前はまだ鍵だ」
その瞬間、リリアーナの脳裏に王妃陛下の手紙がよぎった。
“血と剣が交わる時、真実の扉が開く――”
自分の血、そして将軍の剣。
それが意味するのは、まさに今、この二人の立場なのかもしれない。
ライナーが肩を押さえる。倒した敵の刃が掠っていたのだ。
彼の黒衣の下で、血が滲んでいた。
「将軍、傷が――!」
「掠り傷だ」
「掠っているうちに止めないと……!」
リリアーナは自分のハンカチを裂き、彼の肩に当てる。血の温かさが掌に広がる。
「放っておけ」
「放っておけません!」
彼女の声に、ライナーが目を見開いた。
リリアーナの指先は震えながらも確かに彼の傷を押さえている。
その唇がかすかに動いた。
「あなたが傷を負うたび、痛むのです。あなたの背中の傷も、今のも。……私には何もできない自分が悔しい」
ライナーは短く息を吐き、彼女の手をそっと握った。
「俺の痛みを背負うな。これは俺の罰だ」
「いいえ。それなら、あなたを救うことが私の罰でいい」
しばらく、二人は沈黙した。
雪が降る。外の世界がすべて白に呑まれていくようだった。
「リリアーナ」
彼の声がわずかに震える。
「お前がそんなことを言うと、俺は本気で甘えたくなる」
「……甘えてもいいですよ。少しぐらいなら」
冗談めいた口調。けれどその瞳はまっすぐに彼を見ていた。
ライナーは笑うでもなく、ただ小さくうなずいた。
二人の間には何も言葉はいらなかった。
戦場の夜のように冷たい空気の中、ただ確かな温もりだけが残っていた。
続く
グレイス要塞の朝はいつも冷たいが、その日の朝はひときわ厳しかった。
霜が石畳を覆い、息を吸い込むたびに肺が切れそうな痛みを感じる。
それでもリリアーナは夜明け前から訓練場に立っていた。
木剣を構え、徐々に呼吸を整える。
足の裏で砂の感触を確かめながら、一歩一歩、地の感覚を掴もうとする。
何度目かの素振りのあと、遠くから低い声が響いた。
「日の出前に剣を担ぐ奴なんて、俺の部下にもそうそういない」
振り返ると、ライナーが立っていた。
黒い外套の裾をなびかせ、朝日よりも鋭い視線を向けてくる。
「剣が私に馴染むまで、あと百日はかかりそうで」
「百日? ずいぶん控えめな見積もりだな」
「なら三百日に訂正しておきます」
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「お前は真面目すぎる。剣に必要なのは覚悟と執念だ。器用さは最後に付いてくる」
「覚悟と、執念……」
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「将軍のそれは、どこから来るのです?」
ライナーの表情に一瞬、影が落ちた。
彼は無言でマントを外し、左腕の袖をまくり上げた。
そこには古い傷跡が走っていた。肩の根元から肘にかけて、鋭く斜めに刻まれた深い痕だ。
「ずいぶん前、まだ俺が士官学校を出た頃。初めての戦場で、弟を庇って受けた傷だ」
「……弟さんが」
「ああ。俺は生き残り、奴は死んだ。剣を握るたび、この痛みを思い出す。二度と失敗しないと誓った。だから戦場に立つことをやめなかった」
声は淡々としているのに、その言葉の奥には焼けつくような感情が隠されていた。
「弟の名はルーカス。母国の王を信じ、その命令に従った結果、犬死にした。それから俺は、誰の命令も盲信しないと決めた」
リリアーナは言葉を失った。
彼の背に刻まれた過去は痛々しいほど重い。
だが、それこそが彼をこの地位に押し上げた強さの源であるともわかっていた。
「将軍、それでも今は王に仕えている。信じないはずの相手に、どうして?」
「信じちゃいない。ただ利用しているだけだ。王とて道具だ。俺が守りたいのは、この国に生きている人間の命だ」
そう言い切る瞳の中には、鋼の覚悟だけが宿っていた。
リリアーナはその瞳をまっすぐに見返した。
「あなたが守りたい“命”の中に、私も含まれていますか?」
短い沈黙。
ライナーは眉をほんの少しだけ上げた。
「当たり前だ。お前はこの戦いの一部だ。お前が死ねば全てが無駄になる」
「……それは、職務上の話ですよね?」
彼の口元が苦く歪む。
「職務以外で誰かを守る余裕なんか、とうの昔に捨てた」
「でも、それでもあなたは人を救おうとしている。昨夜も、私を」
リリアーナの声がわずかに震える。
ライナーは目をそらし、肩を回した。
「……お前が死なれたら寝覚めが悪いだけだ」
「そういうことにしておきます」
微笑むリリアーナの顔を見て、彼の頬にかすかな紅が差したようにも見えた。
*
彼女は昼過ぎに執務テントへ戻った。
王妃陛下への報告書を書くためだが、手が止まる。
“黒い鎧の将軍は、孤独に耐えながら戦場に立つ。彼の背にある傷跡は、誓いの証であり、枷でもある”
文字にしてしまうと、その重みが余計に痛く感じられた。
インクが一滴、紙に落ちる。滲んで広がる黒い染みが、彼の傷を思わせて胸が締めつけられる。
そのとき、テントの入口が開いた。
「報告書に血文字でも書いているのか?」
「将軍……」
彼は腕を組み、苦笑した。
「そんな顔をするな。兵たちが気味悪がる」
「大丈夫です。ただ、少し考え事をしていました」
「考え過ぎは命取りだ。今度から俺の前では余計な策を練るな」
「なんだかひどい言いぐさですね」
「冗談だ」
そう言いつつ、彼は机の上の羊皮紙に視線を落とした。
「……俺の話を報告書に書いたのか」
「ええ。王妃陛下はあなたを信じています。報告しないのは不誠実です」
「信じて、ね。俺は何年も王に“忠誠心が足りん”と叱られ続けているのに」
リリアーナは笑みを零す。
「陛下は、あなたの忠誠の形を理解していると思います。たぶん、王にすらできない“人としての忠義”をあなたは貫いている」
ライナーが眉を上げ、少し無言のまま立ち尽くす。
風がテントの端を揺らす音だけが響いた。
やがて彼は顎を引き、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺のことをそんなふうに言う奴は初めてだ。気分が悪いな」
「なら訂正してもいいですよ?」
「いや、いい。たまには悪くない」
そう言って彼はテントの出口に立ち、背を向けた。
夕日が外の地平線を染めている。
「今日はここまでにしろ。夜には雪が降る。冷える前に休め」
「将軍は?」
「俺は見回りだ。下手に近づくなよ。また刺客が出る」
彼の背に「気をつけて」と声をかけると、一度だけ手を上げて去っていった。
*
夜。
雪が静かに降り始めた。
リリアーナは自室の窓から外を見つめていた。
その白の中にゆらゆらと影が動く。
近づく黒い人影。
彼女の胸が凍りつく。
「……まさか」
扉がノックされるより早く、風が音を立てて吹き込み、明かりが消えた。
闇の中に微かな足音。
再び狙われた。そう理解した瞬間、リリアーナは腰の短剣に手を伸ばす。
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「リリアーナ、下がれ!」
激しい衝撃音。扉が弾け飛び、黒い外套の男が床に倒れた。
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彼は飛びかかる敵を蹴り倒し、剣を抜く。
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震える声を抑えながら、リリアーナが呟く。
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「捕らえる?」
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自分の血、そして将軍の剣。
それが意味するのは、まさに今、この二人の立場なのかもしれない。
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彼の黒衣の下で、血が滲んでいた。
「将軍、傷が――!」
「掠り傷だ」
「掠っているうちに止めないと……!」
リリアーナは自分のハンカチを裂き、彼の肩に当てる。血の温かさが掌に広がる。
「放っておけ」
「放っておけません!」
彼女の声に、ライナーが目を見開いた。
リリアーナの指先は震えながらも確かに彼の傷を押さえている。
その唇がかすかに動いた。
「あなたが傷を負うたび、痛むのです。あなたの背中の傷も、今のも。……私には何もできない自分が悔しい」
ライナーは短く息を吐き、彼女の手をそっと握った。
「俺の痛みを背負うな。これは俺の罰だ」
「いいえ。それなら、あなたを救うことが私の罰でいい」
しばらく、二人は沈黙した。
雪が降る。外の世界がすべて白に呑まれていくようだった。
「リリアーナ」
彼の声がわずかに震える。
「お前がそんなことを言うと、俺は本気で甘えたくなる」
「……甘えてもいいですよ。少しぐらいなら」
冗談めいた口調。けれどその瞳はまっすぐに彼を見ていた。
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