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第03話
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今日の庭に風が吹いている――秋の終わりを告げるような冷たい風ではなく、まだ草の香りを含んだやわらかな風。
ハイデンは書斎の窓際に寄りかかり、ぼんやりとその風に揺れる庭木を眺めていた。
木の影が揺れる先、花壇の跡地にしゃがみ込む人影がある。視線を向けると粗末な布地のシャツを無造作に腕まくりし、地面に手を伸ばす。そして土を払って根を引き抜く。
抜いたのは雑草だ。
以前は放置されていた庭。誰も手入れなどしていなかったのだが、それをあの男が黙々と抜いている。
誰にも言われていないはずだ。命じられているわけでも、褒められるわけでもない。しかしkれは静かに、当たり前のようにやっている。
(……意味なんて、ないだろうに)
ハイデンはそう思った。いや、思いたかった。
あれが善意などであるはずがないと、決めつけていたかった。けれど――その姿にハイデンは目を離せない。
同じように、昨日は崩れたままだった塀の一部が朝にはきれいに積み直されていた。そして風に飛ばされた枝葉がそっと、何事もなかったかのように一か所にまとめられていた。
誰がやったかは、見ずとも分かる。
必要だから動くのではない。あの男は壊れたものを見て、放っておけないだけだ。
「……厄介な性分だな」
口の中だけで呟く。
だが、そう言ってしまった時点で自分の意識が既に彼に向いていることを認めたような気がして、ハイデンは眉を寄せた。
最近では彼の手料理にも、少し慣れてきていた。
毎日、決まった時間に運ばれる食事。無言で皿が置かれ無言で片づけられる。その中で、ほんの数回ほどハイデンはスプーンを手に取った。
塩の加減も、出汁の取り方も、決して上手とは言えない。
けれど、とても暖かいと感じてしまった。
熱の残る器を手にした時、手の中に何かが伝わってきた気がした。
そして今朝――彼は、洗い終えたスプーンを皿の上に戻しながらふと口を開きそうになった。
「……ありが……」
言いかけて、すぐに口を閉じた。言葉にしてしまえば、何かが変わる気がして、怖くなってしまった。
『ありがとう』なんて簡単な一言に、縋ってしまいそうになる自分がすごく嫌な人間になったかのように感じたからである。
(……この前のお礼だって言えていなのに、おこがましい……)
そのように思いながら、ハイデンは何も言えなくなってしまった。
窓の外――男はまだ庭にいた。
腰を伸ばし、額の汗を袖でぬぐって、立ち上がる。
太陽の光を受けて、彼の背が、少しだけ眩しく見えた。
何かが、少しずつ変わっていく。確かに世界が、静かに動き出している。
けれどハイデンは、その変化にまだ手を伸ばせなかった。
ただ、見つめているだけだけしか出来なかった。
▼ ▼ ▼
それから数日後、その日の雨はしとしとと降り続いていた。
夜の帳が下りた屋敷の廊下は、どこか水底のように静かで灯りの少ない空間に、湿った空気がゆるく広がっている。ぽつぽつと窓を打つ雨粒の音だけが、耳の奥で微かに反響していた。
ハイデンは、窓際に腰かけていた。
手には何も持たず、視線だけを外の空に向けている。
薄く曇った窓ガラス越しに見える庭は、雨に濡れて静まり返り、木々の影がゆらゆらと揺れていた。
視線は、そこにあるはずのないものを探しているようで、けれど何かを期待しているわけでもなかった。
黙っていると、身体の中から何かがしぼんでいくような感覚があった。呼吸も、思考も、少しずつ薄れていく。
このまま眠って、目が覚めなければ楽なのに、と。誰に向けたでもない想いが心の中を漂っていた。
ふと、窓の下に水滴が垂れる音がする。それに紛れるように、低くくぐもった声が漏れる。
「……死ぬのも、めんどくさいな」
ぽつりと漏らしたその呟きに、返事があるとは思っていなかった。
「……そりゃ、よかったな」
「……っ!!」
低くくぐもった声が背後から届いて、ハイデンは小さく肩を揺らした。
「……いつからそこに?」
「今、帰ったとこだ……薪、足りなかったから」
振り返ると、男が濡れた外套を脱ぎながら廊下に立っていた。
服の裾から雨水がぽたぽたと床に落ちている。
「さっきの、聞いていました?」
「聞くつもりはなかったけど、声がしたからな」
淡々とした口調だった。
まるで、どうでもいい雑談でもするように。
ハイデンは少しだけ視線を落とし、呆れたように笑った。
「……そんな、深い意味はなかったんですけど」
「別に、深く受け取ってねえよ。ただ——」
男は少し歩み寄り、ハイデンの隣で窓の外を眺めた。雨はまだ降り続いている。
「死ぬのがめんどくさいなら——生きるくらい、やってみればいい」
二人の間にしばらく沈黙があった。
男の横顔は、灯りの影に溶けていて表情は読み取れなかった。
「そんな簡単なもんじゃない」
ハイデンはぼそりと返す。
そう、ハイデンにとっては簡単な事ではなかった。
いずれ自分に【死】が纏っていく事など、目の前の男は全く知らないのだから。
しかし、男は笑って答える。
「だろうな。でも、簡単なことばかりじゃつまんねえだろ」
「……それで、生きてりゃ面白いことがあるって言うのですか?」
「さあ……でも、死んでたら、それはねえよ」
はっとするほど、当たり前の事を男は言っていた。
それを、あまりにも当然のように言うから、言葉が喉につかえた。
「そっちは案外、楽かもな」
「……何が、ですか?」
「生きるってやつ」
男の言葉は、特別な声色でもなかった。慰めでも、励ましでもない。ただ、目の前にいるハイデンに向けられた真っ直ぐな言葉だったのかもしれない。
その無骨な優しさが、心の深い場所に、すっと入り込んできた。
「……簡単に言わないで、ほしい」
喉の奥からようやく出た声は、思っていた以上に弱々しくて、震えていた。
「簡単じゃないって、わかってる。でも、やってみるくらいなら……できるかもしれねぇだろ?」
男はそう言って、小さく肩をすくめた。
その動作すら、どこか不器用にも感じてしまったが、ハイデンは何も言えずに、ただその姿を見つめた。否定も、肯定もできないまま、目を見開いたままで。
(……生きろ、なんて)
そんな言葉を、自分のために使ってくれる人間が、まさかいるとは思わなかった。
「……僕に、そんな事いってどうするんですか?」
「別に、何かを期待して言ったわけじゃねぇ」
「だったら、何で……」
「お前が、死にたくねぇって顔してたからだよ」
そう言われた瞬間、心臓が強く打つ。自分では気づいていなかった感情を、たった一言で見透かされたような気がした。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。けれど、部屋の中は妙にあたたかかった。
それは、あまりに静かな夜だった。けれど、確かに——何かが、始まっているかのように、胸を締め付けられたハイデンの姿があった。
ハイデンは書斎の窓際に寄りかかり、ぼんやりとその風に揺れる庭木を眺めていた。
木の影が揺れる先、花壇の跡地にしゃがみ込む人影がある。視線を向けると粗末な布地のシャツを無造作に腕まくりし、地面に手を伸ばす。そして土を払って根を引き抜く。
抜いたのは雑草だ。
以前は放置されていた庭。誰も手入れなどしていなかったのだが、それをあの男が黙々と抜いている。
誰にも言われていないはずだ。命じられているわけでも、褒められるわけでもない。しかしkれは静かに、当たり前のようにやっている。
(……意味なんて、ないだろうに)
ハイデンはそう思った。いや、思いたかった。
あれが善意などであるはずがないと、決めつけていたかった。けれど――その姿にハイデンは目を離せない。
同じように、昨日は崩れたままだった塀の一部が朝にはきれいに積み直されていた。そして風に飛ばされた枝葉がそっと、何事もなかったかのように一か所にまとめられていた。
誰がやったかは、見ずとも分かる。
必要だから動くのではない。あの男は壊れたものを見て、放っておけないだけだ。
「……厄介な性分だな」
口の中だけで呟く。
だが、そう言ってしまった時点で自分の意識が既に彼に向いていることを認めたような気がして、ハイデンは眉を寄せた。
最近では彼の手料理にも、少し慣れてきていた。
毎日、決まった時間に運ばれる食事。無言で皿が置かれ無言で片づけられる。その中で、ほんの数回ほどハイデンはスプーンを手に取った。
塩の加減も、出汁の取り方も、決して上手とは言えない。
けれど、とても暖かいと感じてしまった。
熱の残る器を手にした時、手の中に何かが伝わってきた気がした。
そして今朝――彼は、洗い終えたスプーンを皿の上に戻しながらふと口を開きそうになった。
「……ありが……」
言いかけて、すぐに口を閉じた。言葉にしてしまえば、何かが変わる気がして、怖くなってしまった。
『ありがとう』なんて簡単な一言に、縋ってしまいそうになる自分がすごく嫌な人間になったかのように感じたからである。
(……この前のお礼だって言えていなのに、おこがましい……)
そのように思いながら、ハイデンは何も言えなくなってしまった。
窓の外――男はまだ庭にいた。
腰を伸ばし、額の汗を袖でぬぐって、立ち上がる。
太陽の光を受けて、彼の背が、少しだけ眩しく見えた。
何かが、少しずつ変わっていく。確かに世界が、静かに動き出している。
けれどハイデンは、その変化にまだ手を伸ばせなかった。
ただ、見つめているだけだけしか出来なかった。
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それから数日後、その日の雨はしとしとと降り続いていた。
夜の帳が下りた屋敷の廊下は、どこか水底のように静かで灯りの少ない空間に、湿った空気がゆるく広がっている。ぽつぽつと窓を打つ雨粒の音だけが、耳の奥で微かに反響していた。
ハイデンは、窓際に腰かけていた。
手には何も持たず、視線だけを外の空に向けている。
薄く曇った窓ガラス越しに見える庭は、雨に濡れて静まり返り、木々の影がゆらゆらと揺れていた。
視線は、そこにあるはずのないものを探しているようで、けれど何かを期待しているわけでもなかった。
黙っていると、身体の中から何かがしぼんでいくような感覚があった。呼吸も、思考も、少しずつ薄れていく。
このまま眠って、目が覚めなければ楽なのに、と。誰に向けたでもない想いが心の中を漂っていた。
ふと、窓の下に水滴が垂れる音がする。それに紛れるように、低くくぐもった声が漏れる。
「……死ぬのも、めんどくさいな」
ぽつりと漏らしたその呟きに、返事があるとは思っていなかった。
「……そりゃ、よかったな」
「……っ!!」
低くくぐもった声が背後から届いて、ハイデンは小さく肩を揺らした。
「……いつからそこに?」
「今、帰ったとこだ……薪、足りなかったから」
振り返ると、男が濡れた外套を脱ぎながら廊下に立っていた。
服の裾から雨水がぽたぽたと床に落ちている。
「さっきの、聞いていました?」
「聞くつもりはなかったけど、声がしたからな」
淡々とした口調だった。
まるで、どうでもいい雑談でもするように。
ハイデンは少しだけ視線を落とし、呆れたように笑った。
「……そんな、深い意味はなかったんですけど」
「別に、深く受け取ってねえよ。ただ——」
男は少し歩み寄り、ハイデンの隣で窓の外を眺めた。雨はまだ降り続いている。
「死ぬのがめんどくさいなら——生きるくらい、やってみればいい」
二人の間にしばらく沈黙があった。
男の横顔は、灯りの影に溶けていて表情は読み取れなかった。
「そんな簡単なもんじゃない」
ハイデンはぼそりと返す。
そう、ハイデンにとっては簡単な事ではなかった。
いずれ自分に【死】が纏っていく事など、目の前の男は全く知らないのだから。
しかし、男は笑って答える。
「だろうな。でも、簡単なことばかりじゃつまんねえだろ」
「……それで、生きてりゃ面白いことがあるって言うのですか?」
「さあ……でも、死んでたら、それはねえよ」
はっとするほど、当たり前の事を男は言っていた。
それを、あまりにも当然のように言うから、言葉が喉につかえた。
「そっちは案外、楽かもな」
「……何が、ですか?」
「生きるってやつ」
男の言葉は、特別な声色でもなかった。慰めでも、励ましでもない。ただ、目の前にいるハイデンに向けられた真っ直ぐな言葉だったのかもしれない。
その無骨な優しさが、心の深い場所に、すっと入り込んできた。
「……簡単に言わないで、ほしい」
喉の奥からようやく出た声は、思っていた以上に弱々しくて、震えていた。
「簡単じゃないって、わかってる。でも、やってみるくらいなら……できるかもしれねぇだろ?」
男はそう言って、小さく肩をすくめた。
その動作すら、どこか不器用にも感じてしまったが、ハイデンは何も言えずに、ただその姿を見つめた。否定も、肯定もできないまま、目を見開いたままで。
(……生きろ、なんて)
そんな言葉を、自分のために使ってくれる人間が、まさかいるとは思わなかった。
「……僕に、そんな事いってどうするんですか?」
「別に、何かを期待して言ったわけじゃねぇ」
「だったら、何で……」
「お前が、死にたくねぇって顔してたからだよ」
そう言われた瞬間、心臓が強く打つ。自分では気づいていなかった感情を、たった一言で見透かされたような気がした。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。けれど、部屋の中は妙にあたたかかった。
それは、あまりに静かな夜だった。けれど、確かに——何かが、始まっているかのように、胸を締め付けられたハイデンの姿があった。
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