何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第11話

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 湯気の立ち上るスープの香りが、まだ少し重く感じられる。木のスプーンを手に取っていつもより少しゆっくりと、ハーブの香る液体を口に運ぶ。

「っ……」

 舌に触れる熱さも、のどを通る感覚も、何もかもが微妙に【遠い】感じがするが、熱さは微かに感じたので舌を軽く出す。
 それでも食事を残すという選択はしなかった。クリスが作ってくれたものだという事実が、妙に重く放っておけなかったからと言う理由で。ほんの数口でも、口に運ぶだけで胃がさざめく感覚。

「……味、薄くしました?」

 何気ないふりをして呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。スプーンを置いた手がわずかに震えているのがわかる。
 すると対面に座ったクリスが、手を止めずに応じた。

「お前……昨日の夜吐きかけただろ。胃、荒れてるぞ?間違いなく」

 いつもの口調。いつも通りの無愛想で、淡々とした声。それが――今日は、刺さってしまう。

(……気づいてるな、やっぱり)

 問いただすでもなく、騒ぎ立てるでもなく、ただ事実として告げるその態度。そこに優しさがないわけじゃないと、わかってしまう分、余計に痛かった。

(ああああああ……)

 脳裏を、あの夜の記憶が容赦なく蘇る。
 息が詰まり、視界が真っ暗になりかけていたあの瞬間。クリスの手が自分の顔を掴み、次の瞬間――唇が触れた。
 呼吸を整えるための応急処置。わかっている。そんなことはわかってる。しかし、それでも脳裏に焼き付いてはなれない。

(……よりによって口塞ぐか!?他に方法あっただろ!?水とか、なんか、冷やすとか、あと、あと……)

 内心の動揺をなんとか誤魔化そうと、皿に視線を落とす。目の前のパンをちぎりながら、小さく呟いた。

「……パン、焦げてないですか?」

 意味のない言葉だと、自分でも思う。けれど何か言わなければ、顔が真っ赤になっているのを誤魔化せない気がして。
 クリスはちらりとこちらを見て、眉をひそめた。

「焦がすか、こんなもん。いつも通りだ」
「そ、そう、ですか……」
「さっきから、なんなんだ?」
「あ、いえ、その……な、なんでもないです、はい……」
(どうしてお前は普通に声をかけて普通に過ごしているんだよ!!)

 あんなことがあったのに、まるで昨日のことなど何もなかったかのような態度。まるで何事もなかったかのようにしゃべってくるこの男にイラつきを覚えた。

(……頼むから、昨日のことには触れないでくれ……!)

 顔を上げられないまま、スープを口に運ぶ。けれど、喉を通らず、胃が拒絶するように疼く。
 そして――立ち上がろうとした瞬間だった。
 ふ、と視界が揺れ、足元が急に軽くなり、まるで床の感覚が曖昧になる。反射的に椅子の背を掴み、なんとか倒れずに済んだが顔から血の気が引いていくのがわかった。

「おいっ、立つな!お前、本当に顔色ひどいぞ」

 椅子の背後から、クリスの腕が伸びてくる。しっかりと肩を支えられた瞬間――その体温に、またあの記憶が重なってしまう。

(……やめろ、思い出すな……!昨日の、あの感触……っ)

 呼吸が浅くなる。汗が滲む。あれはただの応急処置なのだ。そうわかっていても、体が勝手に反応してしまう。

(くそ、情けない……っ)
「……無理すんな。椅子に座ってろ。今日は寝てろよ」
「……べつに、大したことではないです。ちょっと、ふらついただけですから、気にしないで」
「見ればわかる、大したことあるって顔してる」

 反論出来ない――口を開きかけたが、喉の奥が詰まり言葉にならなかった。

「……おとなしくしてろ。出かけるな。今日の分は俺がやるから」

 その声は相変わらずぶっきらぼうだったけれど、どこか優しくて。それがまた、余計に辛かった。
 何も言えずに、静かに頷くことしかできなかった。
 クリスは静かに息を吐いた後、古いキッチンに戻っていく足音を聞きながら、ハイデンは額に手を当てる。

(……俺、何やってるんだ)

 羞恥、戸惑い、そして弱さ――胸の中で混ざり合ったそれらが、静かに、じわじわと心を蝕んでいくようだった。
 机の上に残ったスープは、もうすっかり冷めている。けれど、それに手を伸ばす気力もない。
 かすかに震える指先を見下ろして、ハイデンはうっすらと息を吐いた。

(……どうして、あんなことで、ここまで動揺してるんだ)

 キスなんて――いや、応急処置だ。ただ、それだけのこと。何も特別な意味なんてなかった。それだけのはずなのに、胸の奥がどうしようもなくざわついている。

 誰かに触れられること自体、ずっと遠ざけていた。
 感情に土足で踏み込まれるのが怖かった。
 だから、誰も近づけなかったし、自分からも近づかなかった。
 それが、ほんの一瞬、あの夜だけ、崩れてしまった。

(クリスは、なんとも思ってないのに……)

 そう思えば思うほど、情けなさが喉元に突き上げてくる。
 床に視線を落としたまま、額に触れていた手が自然とこめかみに移る。ぼんやりと熱を測るような仕草――だが、触れた皮膚はじっとりと湿っていた。

「……熱、あるな……」

 呟いた声が、やけに弱々しく耳に響く。
 今すぐ横になりたかったが、立ち上がる気力がない。それに、立ったところで――また、クリスの前でふらつくだけだ。

(ああ、また余計な世話をかける……)

 それが、何よりも怖かった。
 拒まれるのが怖いわけじゃない。
 むしろ、これ以上、優しくされることが怖かった。
 誰かに触れられるたび、心の奥にしまっていた【何か】が軋み始める。それが何なのか、自分でもよくわからない。ただ――

「……やっぱ、ちょっと、寝るか……」

 椅子を押して立ち上がり、倒れないようにゆっくり、慎重に足を運び壁に手を添えながら自室へと向かった。
 ふと、廊下の先に見えた背中。クリスは何も振り返らず、鍋をかき混ぜる音だけが静かに響いていた。

(気づいてるのに、何も言わない……)

 その背が、どこか遠く感じられて、胸がきゅうと締めつけられる。自分のことを見透かしているくせに、いつも通りでいてくれるその存在がやけに眩しかった。

 ドアを閉め、ベッドに身を沈めた瞬間、熱の波が全身を襲う。
 浅い呼吸と、頭にこもる重苦しい感覚。けれど、ハイデンは目を閉じた。
 浮かぶのは、昨夜の感触。掠れるような声で、クリスが囁いた言葉。

 ――そばにいる。

(……ずるいよ、お前)

 そう思った瞬間、ぼた、とまつげの端から涙がこぼれ落ちた。
 喉の奥が熱く、苦しい――けれど、それを誰かに見られるのは、もう少し先でもいいとハイデンは思った。
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