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16話 騒動
しおりを挟むエステルはぽかんと口を開けてライナスを見上げた。まさかの発言に開いた口が塞がらないが、はしたないと両手ですぐに覆い隠した。
「殿下ったら、心配しすぎですよ」
窓はあんなにも高い位置にある。踏み台でもなければ中を覗き見ることは不可能であろう。
『みゃあん──それはつまり踏み台があれば覗けるということだ……!』
「誰がそのようなことを……」
と、浮かび上がるのは二人の男──サルサ商務長官とクレソン外務大臣のニタニタと歪んだ顔だった。尻を撫でられた感覚を思い出し、背中がぞくぞくと冷えてゆく。
(だからって、いい歳をした大人が……覗きだなんてするはずが)
ライナスは心配そうに窓とエステルを交互に見つめる。腕を組んで「みゃ~ん」と唸ったかと思えば、「みゃん!」と手を打った。
『にゃにゃ──僕が一緒に入っ……すまない、大変失礼した』
「流石にやめてくださいね?」
婚前の男女が一緒に入浴など……婚後だとしても抵抗があるというのに。
エステルはライナスを追い払って入浴しようとするが、入浴前に色々と言われてしまっては徐々に心配になってきた。
(でもこの広いお風呂……! 是非入りたいわ!)
そうだ、とエステルは顔の前で手を打ち、ライナスの手を掴んだ。
「そうですわ殿下! 外をベルナールに見張らせます!」
『みゃおん──なるほど。では念の為、浴場の中はアルフに守らせよう』
「……アルフに?」
名を呼ばれたアルフは、浴場の入口で姿勢を正す。ラベンダー色の瞳は揺れて伏せられ、エステルに向かって頭を下げた。
「ちょ……っと待ってください殿下。殿下のことはお断りしましたが、アルフは……いいのですか?」
『みゃあ?──構わないぞ?』
エステルはライナスとアルフの顔を交互に見つめた。
(いや、わたくしが構うのですが!)
自分は潔く身を引いたわりに、自身の護衛騎士にエステルの裸を見せることに抵抗はないのだろうか。エステルにはライナスの考えが理解できなかった。
『何を恥ずかしがっている? 何か問題があるのか?』
「問題はありますよね?」
『うみゃあ?──どこに?』
エステルは混乱気味だというのに、ライナスは何が問題なのかわからないといった顔だ。
「えっ……ですから……その、アルフは男性ですよ?」
『みゃお──アルフは女性だが』
「え?」
アルフがかっちりとした上着を脱ぐと、その下に隠されていた体は丸みを帯びた女性らしいものだった。上着が体型を隠すほど堅苦しいものであったので、服の上からではわからなかったのだ。
『にゃにゃ──エステル様。わが国には女の騎士もいるのです』
「そうなの?」
護衛騎士と紹介されていただけで、アルフのことを男性だと思い込んでいた。中性的な顔立ちであるとは思っていたが、まさか女性だったとは。
『にゃにゃ──エステル様も剣を持たれるでしょう? それと同じです』
「そうよね、わたくしったら……考えが硬くて駄目ね」
『にゃおんにゃ──申し訳ありません、そのようなつもりで言ったのでは』
「アルフは優しいのね」
『にゃにゃみゃー──エステル様こそ』
女二人で盛り上がっている間にライナスがそそくさと外に出ていくので、エステルは扉にしっかりと鍵をかけて脱衣を開始した。アルフもそれに倣う。確かに、衣服を脱いで近くで見れば、顔立ちも体つきも女性らしい。
アルフの長い睫毛が瞬き、不思議そうにエステルを見つめる。
『にゃにゃ──エステル様……すごい下着ですね』
「こ、これは! 殿下が選んで買ってきてくれた物です!」
『にゃおんにゃぁ──……例のアレですか』
身につけている方が恥ずかしい下着をさっさと脱ぎ去り、エステルは浴場に踏み込む。
「わあ、広い……!」
『にゃお』
かけ湯をして浴槽に浸かる。二人でも余裕で泳げてしまいそうな広さであった。
「こんな広いお風呂、初めて見たわ」
『にゃん』
「ねえ、アルフはどうして騎士に?」
エステルが先入観を持って見てしまうほど、母国アルリエータ王国での騎士というものは当たり前に男性だけであった。エステルが剣を持って鍛錬に励んでいることを知っている家族でさえ、ベルナールが言うには顔をしかめるらしい。
もしかするとハルヴェルゲン王国では、女性騎士も多くいるのかもしれない。
『うにゃ──特に……父が騎士でして、憧れたのかもしれません』
「まあ! この国では女性も騎士になれるのね」
『みゃん──驚いた。外は違うのですね?』
「そうね、我が母国では男性だけよ」
『にゃ──へえ……面白いですね』
アルフが額の髪を上にかき上げる。色っぽい仕草だなと見惚れていると、髪の生え際に目立つ傷があった。
『にゃっ──すみません、お見苦しいものを』
「そんなことないわ、傷は騎士の勲章よ?」
『にゃーにゃん──お上手ですね』
アルフの体には目立つほどでもないが傷が点在している。きっと鍛錬や実戦でついたものなのだろうが、エステルの瞳にはそれがとても美しく映った。
「かっこいいわアルフ。わたくしも鍛錬はするけれど、ベルナールは遠慮ばかりでわたくしには傷が入らなくて」
『にゃん──……あの人が遠慮するとは思えないですけれど』
「……そう?」
ベルナールの剣の腕は確かだ。彼の教えのお陰で、エステルの剣技には磨きがかかったのだから。
「素直で良い子なのよ……家族も捨ててわたくしについてきてくれたけれど、幸せになってほしい」
『……』
「アルフ?」
アルフが勢いよく湯から飛び出す。何事かと身構えると、浴場の外からベルナールの叫び声が聞こえた。
『シャァァァッ!』
「えっ! アルフ!?」
『にゃにゃ──エステル様はそのまま!』
外ではベルナールが、聞き覚えのある男の声に怒鳴られているようであった。しばらくすると何事もなかったかのように静かになり、アルフが再び浴槽に浸かる。
『うみゃ──やはり上がってすぐに確認します』
ざぶんと立ち上がるアルフの腕を、エステルは慌てて掴んだ。
「あの……一人にしないで欲しいのだけれど……お願い」
この状況で一人広い浴場に残されるのは心細かった。またあの怒鳴り声が聞こえてしまえば、震えて浴槽から出られなくなってしまうかもしれない。
『うみゃあ──申し訳ありません、失礼しました』
「謝ることなんてないわ。さ、体を洗ってしまいましょう」
手早く髪と体を洗い、二人は浴場を出た。ナイトドレスに袖を通し、エステルはミュラーの町でサナに貰った香油を髪につけた。アルフにも使うよう勧めると、彼女は驚きながらも髪に香油をつけてくれた。
「ふふ、同じ香りね」
にこりと微笑みあったのも束の間、部屋の入口の方から何やら騒がしい声が聞こえる。びくりと跳ねるエステルの肩に、アルフがガウンをかけてくれる。
『にゃにゃ──エステル様、後ろへ』
「えぇ……」
エステルはアルフの後ろに隠れながら、騒ぎ声の方へと足を向ける。そんな二人の目に飛び込んできたのは、部屋の扉を閉じながら怒鳴るライナスの姿。それに扉の外側で大声を上げるサルサ商務長官の姿だった。
「おお! エステル様! 湯上がりとはなんと麗しい!」──『ああ、早くこの手に……!』
「ひっ……!」
ライナスを押し退け部屋に入り込もうとするサルサ商務長官の姿に、エステルは悲鳴を上げる。
「どうです? 酒宴にお付き合い頂けませんかな!」
『にゃん──相手をするなエステル!』
振り返ったライナスが必死に叫んでいる。耳と尾が見たこともないくらいピンと立ち上がっていた。
サルサ商務長官は今にもライナスを押し倒して、部屋に入り込みそうな勢いだ。
「ぶ……無礼ですわね。王太子と王太子妃に向かってこのような態度をとるとは」
「なんだとぉ?」──『痛い目に合わないとわからないようだな』
「見苦しい。お帰りください」
「風呂も覗けなかったのにこのまま帰れるか!」──『邪魔だなこの王太子』
先程風呂の外で騒いでいたのはこの男だったのか。エステルはアルフの肩をギュッと掴んで唇を噛み締めた。
(もっと罵ってやりたいのに、あまり攻撃すると立場が悪くなるわ……)
国を代表して来ているのだ、揉め事を避けたいのはお互い様なはずなのに、酒に飲まれたサルサ商務長官はそのようなことにまで考えが及ばないらしい。
『にゃおんっ! シャァァァ!』
「クソ猫が喚いた所で話にならん!」──『早く女を渡せ!』
「は?」
その一言はエステルの沸点を突破させるには十分だった。アルフの背後からスッと身を乗り出し、ドンッと壁を叩きつける。エステルのその姿は、この国に初めてきた時からは想像もつかないくらい勇ましいものだった。
「立場を弁えなさい! この方はハルヴェルゲン王国第一王太子殿下。蔑むことは許しませんわよ!」
「お前こそ弁えろ小娘が! 我が国に連れ帰って鎖で繋いで死ぬまで愛でてやろうか!」──『ふざけやがって!』
「……はあ?」
昔──まだ呪いにかかる以前、家族から頻繁に「エステルはおてんばだ、気も強すぎる」と揶揄われた。しかしこれはおてんばの域を越えている。自分でも聞いたことのない低い声が腹の底から溢れ出た。
金の瞳が血走る。剣は何処だ、と目の端で探す──とその時、廊下から複数人の駆けてくる足音が聞こえた。
「ここだー! 捕らえてください! 風呂覗き魔ですっ!」
ベルナールの声だ。彼が連れてきた五人の衛兵によって、サルサ外務大臣は呆気なく連行されて行った。
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