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17話 王太子妃の条件
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足の力が抜け、エステルはその場に尻もちをついた。慌てて駆け寄ったライナスの腕に抱かれ、わなわなと自分の手が震えていることにようやく気がついた。
「も……申し訳ありませんでした」
『にゃおん──何を謝る? 強くなったなエステル。初対面で震えていたのが嘘のようだ。僕は惚れ直したぞ』
「けれどわたくしは……恐ろしいことを」
頭に血が上り、剣を探してしまった自分を恥じた。暴力で解決しようとするなど、愚の骨頂だ。
(まだまだ鍛錬が足りないわ……心身ともに鍛え直さないと)
深く長い溜め息をついて、エステルは立ち上がろうと足に力を込めるが、ライナスの腕が固く巻き付いて離れない。
「あの、殿下?」
『にゃおん──なんだ?』
「離してくれねば立てません」
『んにゃ──いい、僕が運ぼう』
「ちょ、何回目っ……!」
何度横抱きにされても慣れないものだった。エステルは大人しくライナスの腕に抱かれたまま、身を縮こませた。
『にゃにゃ──エステル、今日は本当にご苦労だった。ゆっくり休んでくれ』
ベッドに降ろされ頭を撫でられるが、あまりの広さにエステルは飛び起きた。
『みゃあん──どうした?』
「これ……同じベッドで寝るのですか?」
『みゃんみゃん──夫婦ということになっているからな。ベッドは一つしかないようだ』
「なんですって……」
大きなベッドだ。お互いに端に寄って眠れば殆ど別々の場所で眠っているようなもの。けれどライナスがそこまでの配慮をしてくれるかどうかだ。
『にゃおん──大丈夫だ、何もしない。それに初夜は婚約が決まってからだと言っただろう? 僕は楽しみは取っておく方なんだ』
ライナスは口元をスッと緩めて微笑む。信用していないわけでもないが、エステルはベッドのうんと隅に寄り布団で口元を隠した。
「あっ、ところで……ベルナール、あなた達の部屋は?」
「僕たちもまとめて一部屋です」
「一部屋……」
ベルナールはアルフが女性だと気がついているのかいないのか、抵抗も無く受け入れているようだ。アルフもいつもの澄まし顔で、嫌がる素振りもない。
「アルフ、大丈夫なの?」
『にゃおん──問題ありません』
「本当に? 嫌なら言って欲しいわ」
『にゃにゃおん──大丈夫ですよ』
いつも通りのアルフの横で、ベルナールもいつもの態度。これなら同じ部屋でも大丈夫だろう。
「お嬢様、ゆっくりおやすみ下さい。僕たちは交代で部屋を見張りますから」──『三時間か四時間後退かなあ』
「ありがとう、ベルナール」
ベルナールとアルフが部屋から出ていくと、取り残されたエステルとライナスの間に沈黙が訪れる。
『にゃにゃ──エステル』
「何でしょう?」
『うにゃぉ──ゆっくり休んで』
サッと潜り込んだ布団からひょっこり顔を出せば、ライナスの大きな手がいつものようにエステルの頭を撫でた。
『にゃう──僕も体を清めてくるから。先に眠っていて』
「ありがとうございます」
ライナスの唇がエステルの額にそっと押し当てられる。驚いたエステルからはおかしな声が飛び出したが、余裕の表情のライナスは颯爽と姿を消したのだった。
◇
さて、アルトの町での外交を無事済ませ、一行は帰りながら途中の町に顔を出し視察をした。
エステルは出来るだけボンネットを取って、国民達に顔を見せながら通事を務めた。多くの思考が流れ込んでこないように、視野をコントロールすることも上手くなってきたように思う。思考を読み過ぎて体調を崩すということは、徐々に減っていった。
ミュラーの町で漁獲量の変更の旨を伝え、王都まであと数時間といったところか。
「お嬢様。先日からずっと、一体何を読んでいらっしゃるのです?」
「これ? 猫の生態についてよ。アルトの町で、アルフが用意してくれたの」
エステルは本から顔を上げないまま会話を進めた。猫の習性については驚くばかりだ。
「動くものを追いかける……狭い所や高いところも好きなんですって」
「気を付けねば危ないですね」
「雄と雌でも違うのね…………え」
「どうしました?」
「これ……いえ、何でもないわ」
このページをベルナールに見せて、彼がどんな反応をするか見ることも、心の声を見てしまうことも避けたかった。エステルは慌ててページを捲る。
(だってこれは……恐ろしいわ。王都は大丈夫かしら。時期的には……重なっているし、心配だわ)
ベルナールに悟られぬよう、他のページに目を落とす。窓の外を見ると、間もなく王都というところにまで至っていた。
エステルとベルナールを乗せた馬車が王宮に到着すると、血相を変えたライナスが真っ直ぐに駆けてきた。エステルが馬車から降りると、人目も憚らず抱きつかれてしまった。
『にゃにゃ!』
「え……あっ……の、殿下? どうなさったのです!?」
力いっぱい抱きしめられることが、こんなにも嬉しくて苦しいなんて知らなかった。ライナスの胸に圧迫され、呼吸が苦しいのだ。おまけに顔が見えないせいで、ライナスが何と言っているのかわからない。
(でも多分今のは……エステル、と呼んでくれたんだと思うの)
にゃにゃ、と何度も名前を呼んでくれるライナスの言葉には温かさがあったのだ。
「あの、殿下、苦しい……」
『うにゃ──すまない、と言いたい所なんだが……離したくないんだ』
「どうして……」
『にゃおん──移動中、何時間離れていたと思っている? 再会を噛み締めているんだ』
「そんな、大袈裟な」
エステルが小さく笑うと、ライナスがムキになったように頬を膨らませた。
『うにゃあ──こうすれば僕の本気が伝わる?』
そう言ってライナスの顔がゆっくりと近づいてくるのだ。下りてきた唇はエステルの額に落とされ、白い頬が真っ赤に染まり上がる。
「……!」
『にゃ──次こそここだ』
ライナスの人差し指が彼の唇を拭う。大人の男の色香に、エステルは膝から崩れそうになってしまう。
『にゃう──おっと、大丈夫か?』
「あ……の……足、そう足が! ずっと馬車で……座っていましたので、痺れてしまったようです!」
傾げた首につられて、ライナスの髪が揺れる。オパールのように輝き、眩しくて目を閉じた。
(我ながらなんて苦しい言い訳なの……)
ライナスはいつまで経っても離してくれる様子がなく、このまま部屋に連れて行かれそうな勢いだ。
「あの~お嬢様……」
助け舟を出したのはベルナールだ。エステルはライナスの腕の中から無理矢理顔だけ動かし、周囲の様子を伺った。
「……!」
自分が思っていたよりも、多くの人が集まっていることに驚く。そしてベルナールの直ぐ側に控えていた宰相の姿を見つけると、ライナスがようやく解放してくれた。
『にゃおんにゃ──お楽しみのところ申し訳ありません』
『にゃおん──そうだぞ』
『にゃん──殿下、王太子妃の件でお伝えせねばならないことがございます』
貴族院での話し合いの結果が出たのだという。宰相に促され、皆はライナスの執務室へと向かう。
『にゃあにゃあん』
『うにゃにゃ みゃん』
廊下を進んで目にした使用人たちの小声での会話に、エステルは顔を赤くした。どうやら先程ライナスに受けたキスの噂があっという間に広がってしまったようだ。周りの視線が痛くて堪らない。
(穴があったら入りたいわ……)
角を曲がればもうすぐライナスの執務室だ。エステルが胸を撫で下ろした、その時だった。
『うにゃんにゃ──これはこれはライナス殿下。おかえりなさいませ』
『……みゃーんにゃ──……サルサ伯爵』
間もなくライナスの執務室というところで声をかけてきたこの男は、どうやら貴族院の一人のようだ。どこか見覚えのある風貌に、エステルの眉根が寄せられる。
『にゃお──ライナス殿下、エステル嬢。先日は我が弟が……色々とご無礼があったようで、申し訳ございませんでした』
『にゃうにゃんにゃ──彼はあなたの弟君でしたか』
エステルはハッと息を呑んだ。サルサ伯爵の顔立ちや話し方は、アルトの町でエステルの風呂を覗こうと目論んだあの男──ルルベ・シューン王国サルサ商務長官にそっくりだった。
(まさか兄弟がこの国にいただなんて……でも伯爵は商務長官に比べて常識がありそうね……)
エステルと伯爵の目が合うと、彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
『小娘が……! 引き下ろして我らが物としてやろうぞ』
「……!」
サルサ伯爵の本音に、エステルの背中に冷たいものが走った。
『にゃお──殿下、王太子妃の件でお伝えしたいことがあるのですが』
『にゃんにゃ──それでしたら私が今からお話しようと……』
年老いた宰相が一歩踏み出すが、サルサ伯爵は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
『みゃんにゃ──宰相殿は忙しいでしょう? 代わりに私が』
『にゃぁ──しかし……』
『にゃ──私が』
有無を言わせぬ態度で宰相を退けたサルサ伯爵は、近くの応接室の扉を開く。ライナスに中に入るよう促すと、ライナスは宰相を見て頷き、応接室に踏み込んだ。
応接室の中央には背の低い長机が。それを挟んで柔らかそうなソファが置かれており、一番上座に伯爵が腰を下ろした。
(この人……なんて失礼な!)
ライナスは不機嫌さを隠すことなくソファに腰を下ろす。その隣にエステルは滑り込み、ベルナールは部屋の出入口に控えている。アルフは部屋の外で周囲を警戒しているようだ。
『にゃぉ──さて、結論から申し上げますと、エステル嬢は王太子妃に認められません』
『にゃ──何故だ?』
『にゃにゃん──エステル嬢は今年で三十になると伺っております。そんなお歳で……短期間で健康な子を何人も産めるのでしょうか』
エステルは思わず顔を引き攣らせた。サルサ伯爵の言うことは一理ある。この国の王太子妃になるのであれば跡継ぎを産むことは必須。万が一の保険で何人も産めと言われることくらい、エステルにも容易に想像ができた。
(けけど言い方が露骨過ぎるわ……)
にやりと歪むサルサ伯爵の顔に、エステルは顔を曇らせた。
『うにゃん──無礼な。我が母がシャーロットとエリオットを授かったのは三十二の時だぞ』
『にゃんにゃ──王妃様の尊い血とエステル嬢を比べることが間違っております』
伯爵は身を乗り出して必死に訴えかける。唾が飛んできそうな勢いに、エステルは顔をしかめた。
『にゃぅにゃーん──我が娘が今年で十七になります。殿下、こちらを王太子妃に』
『にゃ──私はエステル以外を娶るつもりはない』
ライナスはバッサリと切り捨てるが、伯爵はなかなか引き下がらない。
『うにゃん──若いほうがよろしければ、十五の娘もおります。まだ熟しておりませんが、時が満ちれば子種を植え付けて下されば』
「……なんと下品な」
思わず溢れた本音に、エステルは扇で口元を隠した。
『にゃにゃんにゃ──下品? あなたはただの通事役の令嬢でしょう? 弁えては?』
『にゃんにゃー──伯爵、その言い方は無礼だ』
声色から、ライナスの怒りに限界が迫っていることが伝わってくる。
『にゃお──何故です? この者はただの王太子妃代理の令嬢でしょう?』
「お言葉ですが、代理の身分で外交は進めさせて頂きました。申し訳ございません」
ぱちん、と鳴らした扇の向こう側で、伯爵と目が合う。
『弟から聞いた通り、なかなか面倒な令嬢のようだ』
「……」
『にゃ──私が別の者を娶ったとして、執務はどうするのだ』
『うにゃにゃ──そこはエステル嬢に、代理の代理ということでお願いしたい』
つまりは王太子妃として認めないが、執務はこなせという。
『にゃお──三ヶ月後、準備が整いましたら我が娘を殿下の元によこします。それまでにエステル嬢が子を身籠れれば王太子妃として認める、というのが最終的な貴族院の決定です』
貴族院の最終決定にライナスの顔が曇る。決まってしまった以上、ライナスにこれを覆すことはできない。
『うにゃ──なるほど……わかった』
『にゃ──ま、無理でしょうがな! 大体、こんな年増を王太子妃など私は認めていないのだ。国王が勝手に呼んだだけで……』
ライナスの黒い耳がぴくりと跳ねる。聞き捨てならない言葉に限界がきたのか、ぎろりと伯爵を睨みつけた。
『にゃんにゃ──今のは聞き捨てならないな』
「にゃおーん──はは、冗談ですよ。では私はこれで』
最後にエステルの顔を睨みつけた伯爵は、足早に応接室から出ていく。それと入れ替わる形で宰相が駆け込み、ライナスの足元で頭を下げた。
『にゃにゃん──力及ばず申し訳ありません。始めは賛成も多数だったのですが、どうやらサルサ伯爵による圧力があっったようで……』
『みゃお──圧力?』
『にゃん──裏で色々と細工をしたようなのです』
全く、情けない限りです、と宰相は踞り涙を流した。
「も……申し訳ありませんでした」
『にゃおん──何を謝る? 強くなったなエステル。初対面で震えていたのが嘘のようだ。僕は惚れ直したぞ』
「けれどわたくしは……恐ろしいことを」
頭に血が上り、剣を探してしまった自分を恥じた。暴力で解決しようとするなど、愚の骨頂だ。
(まだまだ鍛錬が足りないわ……心身ともに鍛え直さないと)
深く長い溜め息をついて、エステルは立ち上がろうと足に力を込めるが、ライナスの腕が固く巻き付いて離れない。
「あの、殿下?」
『にゃおん──なんだ?』
「離してくれねば立てません」
『んにゃ──いい、僕が運ぼう』
「ちょ、何回目っ……!」
何度横抱きにされても慣れないものだった。エステルは大人しくライナスの腕に抱かれたまま、身を縮こませた。
『にゃにゃ──エステル、今日は本当にご苦労だった。ゆっくり休んでくれ』
ベッドに降ろされ頭を撫でられるが、あまりの広さにエステルは飛び起きた。
『みゃあん──どうした?』
「これ……同じベッドで寝るのですか?」
『みゃんみゃん──夫婦ということになっているからな。ベッドは一つしかないようだ』
「なんですって……」
大きなベッドだ。お互いに端に寄って眠れば殆ど別々の場所で眠っているようなもの。けれどライナスがそこまでの配慮をしてくれるかどうかだ。
『にゃおん──大丈夫だ、何もしない。それに初夜は婚約が決まってからだと言っただろう? 僕は楽しみは取っておく方なんだ』
ライナスは口元をスッと緩めて微笑む。信用していないわけでもないが、エステルはベッドのうんと隅に寄り布団で口元を隠した。
「あっ、ところで……ベルナール、あなた達の部屋は?」
「僕たちもまとめて一部屋です」
「一部屋……」
ベルナールはアルフが女性だと気がついているのかいないのか、抵抗も無く受け入れているようだ。アルフもいつもの澄まし顔で、嫌がる素振りもない。
「アルフ、大丈夫なの?」
『にゃおん──問題ありません』
「本当に? 嫌なら言って欲しいわ」
『にゃにゃおん──大丈夫ですよ』
いつも通りのアルフの横で、ベルナールもいつもの態度。これなら同じ部屋でも大丈夫だろう。
「お嬢様、ゆっくりおやすみ下さい。僕たちは交代で部屋を見張りますから」──『三時間か四時間後退かなあ』
「ありがとう、ベルナール」
ベルナールとアルフが部屋から出ていくと、取り残されたエステルとライナスの間に沈黙が訪れる。
『にゃにゃ──エステル』
「何でしょう?」
『うにゃぉ──ゆっくり休んで』
サッと潜り込んだ布団からひょっこり顔を出せば、ライナスの大きな手がいつものようにエステルの頭を撫でた。
『にゃう──僕も体を清めてくるから。先に眠っていて』
「ありがとうございます」
ライナスの唇がエステルの額にそっと押し当てられる。驚いたエステルからはおかしな声が飛び出したが、余裕の表情のライナスは颯爽と姿を消したのだった。
◇
さて、アルトの町での外交を無事済ませ、一行は帰りながら途中の町に顔を出し視察をした。
エステルは出来るだけボンネットを取って、国民達に顔を見せながら通事を務めた。多くの思考が流れ込んでこないように、視野をコントロールすることも上手くなってきたように思う。思考を読み過ぎて体調を崩すということは、徐々に減っていった。
ミュラーの町で漁獲量の変更の旨を伝え、王都まであと数時間といったところか。
「お嬢様。先日からずっと、一体何を読んでいらっしゃるのです?」
「これ? 猫の生態についてよ。アルトの町で、アルフが用意してくれたの」
エステルは本から顔を上げないまま会話を進めた。猫の習性については驚くばかりだ。
「動くものを追いかける……狭い所や高いところも好きなんですって」
「気を付けねば危ないですね」
「雄と雌でも違うのね…………え」
「どうしました?」
「これ……いえ、何でもないわ」
このページをベルナールに見せて、彼がどんな反応をするか見ることも、心の声を見てしまうことも避けたかった。エステルは慌ててページを捲る。
(だってこれは……恐ろしいわ。王都は大丈夫かしら。時期的には……重なっているし、心配だわ)
ベルナールに悟られぬよう、他のページに目を落とす。窓の外を見ると、間もなく王都というところにまで至っていた。
エステルとベルナールを乗せた馬車が王宮に到着すると、血相を変えたライナスが真っ直ぐに駆けてきた。エステルが馬車から降りると、人目も憚らず抱きつかれてしまった。
『にゃにゃ!』
「え……あっ……の、殿下? どうなさったのです!?」
力いっぱい抱きしめられることが、こんなにも嬉しくて苦しいなんて知らなかった。ライナスの胸に圧迫され、呼吸が苦しいのだ。おまけに顔が見えないせいで、ライナスが何と言っているのかわからない。
(でも多分今のは……エステル、と呼んでくれたんだと思うの)
にゃにゃ、と何度も名前を呼んでくれるライナスの言葉には温かさがあったのだ。
「あの、殿下、苦しい……」
『うにゃ──すまない、と言いたい所なんだが……離したくないんだ』
「どうして……」
『にゃおん──移動中、何時間離れていたと思っている? 再会を噛み締めているんだ』
「そんな、大袈裟な」
エステルが小さく笑うと、ライナスがムキになったように頬を膨らませた。
『うにゃあ──こうすれば僕の本気が伝わる?』
そう言ってライナスの顔がゆっくりと近づいてくるのだ。下りてきた唇はエステルの額に落とされ、白い頬が真っ赤に染まり上がる。
「……!」
『にゃ──次こそここだ』
ライナスの人差し指が彼の唇を拭う。大人の男の色香に、エステルは膝から崩れそうになってしまう。
『にゃう──おっと、大丈夫か?』
「あ……の……足、そう足が! ずっと馬車で……座っていましたので、痺れてしまったようです!」
傾げた首につられて、ライナスの髪が揺れる。オパールのように輝き、眩しくて目を閉じた。
(我ながらなんて苦しい言い訳なの……)
ライナスはいつまで経っても離してくれる様子がなく、このまま部屋に連れて行かれそうな勢いだ。
「あの~お嬢様……」
助け舟を出したのはベルナールだ。エステルはライナスの腕の中から無理矢理顔だけ動かし、周囲の様子を伺った。
「……!」
自分が思っていたよりも、多くの人が集まっていることに驚く。そしてベルナールの直ぐ側に控えていた宰相の姿を見つけると、ライナスがようやく解放してくれた。
『にゃおんにゃ──お楽しみのところ申し訳ありません』
『にゃおん──そうだぞ』
『にゃん──殿下、王太子妃の件でお伝えせねばならないことがございます』
貴族院での話し合いの結果が出たのだという。宰相に促され、皆はライナスの執務室へと向かう。
『にゃあにゃあん』
『うにゃにゃ みゃん』
廊下を進んで目にした使用人たちの小声での会話に、エステルは顔を赤くした。どうやら先程ライナスに受けたキスの噂があっという間に広がってしまったようだ。周りの視線が痛くて堪らない。
(穴があったら入りたいわ……)
角を曲がればもうすぐライナスの執務室だ。エステルが胸を撫で下ろした、その時だった。
『うにゃんにゃ──これはこれはライナス殿下。おかえりなさいませ』
『……みゃーんにゃ──……サルサ伯爵』
間もなくライナスの執務室というところで声をかけてきたこの男は、どうやら貴族院の一人のようだ。どこか見覚えのある風貌に、エステルの眉根が寄せられる。
『にゃお──ライナス殿下、エステル嬢。先日は我が弟が……色々とご無礼があったようで、申し訳ございませんでした』
『にゃうにゃんにゃ──彼はあなたの弟君でしたか』
エステルはハッと息を呑んだ。サルサ伯爵の顔立ちや話し方は、アルトの町でエステルの風呂を覗こうと目論んだあの男──ルルベ・シューン王国サルサ商務長官にそっくりだった。
(まさか兄弟がこの国にいただなんて……でも伯爵は商務長官に比べて常識がありそうね……)
エステルと伯爵の目が合うと、彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
『小娘が……! 引き下ろして我らが物としてやろうぞ』
「……!」
サルサ伯爵の本音に、エステルの背中に冷たいものが走った。
『にゃお──殿下、王太子妃の件でお伝えしたいことがあるのですが』
『にゃんにゃ──それでしたら私が今からお話しようと……』
年老いた宰相が一歩踏み出すが、サルサ伯爵は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
『みゃんにゃ──宰相殿は忙しいでしょう? 代わりに私が』
『にゃぁ──しかし……』
『にゃ──私が』
有無を言わせぬ態度で宰相を退けたサルサ伯爵は、近くの応接室の扉を開く。ライナスに中に入るよう促すと、ライナスは宰相を見て頷き、応接室に踏み込んだ。
応接室の中央には背の低い長机が。それを挟んで柔らかそうなソファが置かれており、一番上座に伯爵が腰を下ろした。
(この人……なんて失礼な!)
ライナスは不機嫌さを隠すことなくソファに腰を下ろす。その隣にエステルは滑り込み、ベルナールは部屋の出入口に控えている。アルフは部屋の外で周囲を警戒しているようだ。
『にゃぉ──さて、結論から申し上げますと、エステル嬢は王太子妃に認められません』
『にゃ──何故だ?』
『にゃにゃん──エステル嬢は今年で三十になると伺っております。そんなお歳で……短期間で健康な子を何人も産めるのでしょうか』
エステルは思わず顔を引き攣らせた。サルサ伯爵の言うことは一理ある。この国の王太子妃になるのであれば跡継ぎを産むことは必須。万が一の保険で何人も産めと言われることくらい、エステルにも容易に想像ができた。
(けけど言い方が露骨過ぎるわ……)
にやりと歪むサルサ伯爵の顔に、エステルは顔を曇らせた。
『うにゃん──無礼な。我が母がシャーロットとエリオットを授かったのは三十二の時だぞ』
『にゃんにゃ──王妃様の尊い血とエステル嬢を比べることが間違っております』
伯爵は身を乗り出して必死に訴えかける。唾が飛んできそうな勢いに、エステルは顔をしかめた。
『にゃぅにゃーん──我が娘が今年で十七になります。殿下、こちらを王太子妃に』
『にゃ──私はエステル以外を娶るつもりはない』
ライナスはバッサリと切り捨てるが、伯爵はなかなか引き下がらない。
『うにゃん──若いほうがよろしければ、十五の娘もおります。まだ熟しておりませんが、時が満ちれば子種を植え付けて下されば』
「……なんと下品な」
思わず溢れた本音に、エステルは扇で口元を隠した。
『にゃにゃんにゃ──下品? あなたはただの通事役の令嬢でしょう? 弁えては?』
『にゃんにゃー──伯爵、その言い方は無礼だ』
声色から、ライナスの怒りに限界が迫っていることが伝わってくる。
『にゃお──何故です? この者はただの王太子妃代理の令嬢でしょう?』
「お言葉ですが、代理の身分で外交は進めさせて頂きました。申し訳ございません」
ぱちん、と鳴らした扇の向こう側で、伯爵と目が合う。
『弟から聞いた通り、なかなか面倒な令嬢のようだ』
「……」
『にゃ──私が別の者を娶ったとして、執務はどうするのだ』
『うにゃにゃ──そこはエステル嬢に、代理の代理ということでお願いしたい』
つまりは王太子妃として認めないが、執務はこなせという。
『にゃお──三ヶ月後、準備が整いましたら我が娘を殿下の元によこします。それまでにエステル嬢が子を身籠れれば王太子妃として認める、というのが最終的な貴族院の決定です』
貴族院の最終決定にライナスの顔が曇る。決まってしまった以上、ライナスにこれを覆すことはできない。
『うにゃ──なるほど……わかった』
『にゃ──ま、無理でしょうがな! 大体、こんな年増を王太子妃など私は認めていないのだ。国王が勝手に呼んだだけで……』
ライナスの黒い耳がぴくりと跳ねる。聞き捨てならない言葉に限界がきたのか、ぎろりと伯爵を睨みつけた。
『にゃんにゃ──今のは聞き捨てならないな』
「にゃおーん──はは、冗談ですよ。では私はこれで』
最後にエステルの顔を睨みつけた伯爵は、足早に応接室から出ていく。それと入れ替わる形で宰相が駆け込み、ライナスの足元で頭を下げた。
『にゃにゃん──力及ばず申し訳ありません。始めは賛成も多数だったのですが、どうやらサルサ伯爵による圧力があっったようで……』
『みゃお──圧力?』
『にゃん──裏で色々と細工をしたようなのです』
全く、情けない限りです、と宰相は踞り涙を流した。
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【完結】何もできない妻が愛する隻眼騎士のためにできること
大森 樹
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※いつもお読みいただきありがとうございます。中途半端なところで長期間投稿止まってしまい申し訳ありません。2025年10月6日〜投稿再開しております。
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