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兆し
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八岐大蛇は、人の姿をしていた。
無骨な体躯。
削り落とされたような筋肉。
白髪は無造作に伸び、右目には黒い眼帯。
左目だけが、異様な圧を放っている。
だが――
玄弥が感じていた違和感は、別にあった。
「……来ないな」
ぽつりと漏れた言葉。
葛葉の気配が、遠い。
八岐大蛇は、それを察して鼻で笑った。
「当たり前だ」
「ここじゃ、お前は一人だ」
⸻
「かかって来い」
合図はそれだけ。
玄弥が身構えた瞬間――
視界が跳ねた。
殴られた。
否、叩き潰された。
受け身を取る暇もない。
地面に叩きつけられる前に、追撃。
九尾との“パス”が、完全に切れている。
故に霊装も尾も使えない。
「ほら」
八岐大蛇の声が落ちてくる。
「それが今のお前だ」
純粋な肉体。
純粋な判断。
純粋な反応。
それだけで、生き残れという理不尽。
⸻
倒れた瞬間、終わりではない。
「立て」
引きずり起こされる。
走れ。
跳べ。
呼吸を整えろ。
集中しろ。
霊力を流そうとしても、器が歪んで弾かれる。
制御できない。
増幅もできない。
「焦るな、焦るな」
「今のお前は、
壊れた容器に水を注いでるだけだ」
息が切れた瞬間、攻撃。
集中が途切れた瞬間、死。
何度も、何度も。
⸻
とっくに深夜を過ぎ夜と呼べるかも分からない時間。
玄弥は座らされる。
「精神統一だ」
九尾の声は、微かにしか届かない。
「今は直接干渉できない。
器を直すのは――お前自身だ」
目を閉じる。
呼吸を整える。
だが、昼間の“死”の感覚が蘇る。
骨が折れた音。
視界が暗転する瞬間。
眠りに落ちそうになると――
「寝るな」
八岐大蛇の声。
修復。
集中。
崩壊。
やり直し。
眠る時間は、ほぼない。
⸻
朝。
玄弥は立っていた。
立っているだけで、精一杯だった。
霊装もない。
尾もない。
九尾の力も借りられない。
逃げ場はない。
八岐大蛇は、満足そうに言う。
「いいなこれこそ修行の醍醐味だ」
そして、続けた。
「今日も死ぬぞ」
修行は続く。
完全に、一人きりで。
「来い」
八岐大蛇の声。
次の瞬間、視界が砕ける。
殴られる。
叩きつけられる。
潰される。
反応は遅い。
判断は甘い。
倒れるたび、引き起こされる。
「立て」
「終わりじゃねぇ」
霊装は使えない。
尾も出ない。
九尾の力も借りられない。
ただの“人間”として、壊される。
夜。
座らされる。
精神統一。
壊れた霊力の器を、内側から撫でるように整える。
集中が途切れれば、最初から。
眠りは許されない。
朝。
身体は、立っている。
「今日も死ぬぞ」
死ぬ。
蘇る。
⸻
「来い」
同じ距離。
同じ構え。
だが――
一瞬だけ、見えた。
殴られる前の“兆し”。
完全には避けられない。
それでも、致命だけは外す。
「……ほう」
八岐大蛇の声が、わずかに低くなる。
それでも結果は変わらない。
倒される。
壊される。
殺される。
夜。
精神統一。
霊力が、ほんの一拍だけ通る。
すぐに乱れる。
やり直し。
朝。
痛みが、ただの情報になる。
⸻
何日目か、分からなくなる。
空は変わらない。
草原も変わらない。
変わるのは、玄弥だけだ。
無駄な動きが消える。
呼吸が短くなる。
思考が研ぎ澄まされる。
何度も死に、
何度も戻され、
それでも立ち続ける。
⸻
ある日、八岐大蛇が言った。
「……一年だ」
玄弥は、すぐには理解できなかった。
「この世界で、だ」
その一言で、重さが落ちてくる。
一年。
逃げ場のない修行を、
丸一年。
八岐大蛇は、腕を組んで玄弥を見る。
「まだ足りねぇ」
「だがな」
左目が、わずかに細められる。
「最初みたいに、
簡単には死ななくなった」
それは、評価だった。
終わりではない。
だが――
玄弥は、確かにここで
“人間のまま”強くなっていた。
「来い」
いつもの声。
いつもの距離。
十年。
この世界で、十年。
玄弥は構える。
呼吸は短く、視線は低い。
八岐大蛇が踏み込む。
速い。
最初の頃と、何も変わらない。
――それでも。
玄弥の身体が、先に動いた。
避けない。
下がらない。
一歩、前へ。
拳が振り抜かれるより早く、
肘を畳み、体重を乗せる。
鈍い衝撃音。
八岐大蛇の胴に、確かな感触。
「……」
一瞬、空気が止まる。
八岐大蛇は動かない。
ゆっくりと視線を落とし、当たった場所を見る。
「……一打、か」
玄弥は、その場に立ったまま、息を吐いた。
倒れない。
殺されない。
それだけで、胸の奥が軋む。
「今日は、ここまでだ」
その言葉に、玄弥は反応が遅れた。
「……休憩だ」
八岐大蛇は背を向ける。
「よくやった、とは言わねぇ」
「だが」
振り返らずに、続ける。
「ようやく、修行になった」
⸻
玄弥は草地に腰を下ろした。
身体は、動く。
意識も、はっきりしている。
そして異変が訪れる。
葛葉の声が、かすかに響く。
「……気づいているか」
玄弥は、短く答える。
「ああ」
「……一打入れたか」
葛葉は、静かに告げた。
「この世界で――十年だ」
言葉が、重く落ちる。
十年。
逃げ場のない修行。
死と蘇生の繰り返し。
眠れぬ夜。
それを、十年。
玄弥は空を見上げた。
変わらない空。
変わらない景色。
それでも。
拳を握る。
最初とは、明らかに違う。
「……まだ、足りねぇな」
八岐大蛇が、わずかに笑う。
「当然だ」
「だが、戻ったら――
この十年は、確実に牙になる」
休憩は、長くは続かない。
だがこの一瞬だけは、
玄弥は確かに思った。
ここまで、来た。
⸻
休憩と呼ぶには、あまりにも短い静寂。
玄弥が呼吸を整えていると、葛葉の声が、いつもよりはっきりと届いた。
「……玄弥」
「なんだ」
即答だった。
「霊装の“パス”がな。
完全じゃないが――戻り始めている」
玄弥は、すぐに動こうとして、止まった。
「……使えねぇ」
「使えない」
九尾も、即座に肯定する。
「だが、断絶はしていない。
これまでとは違う」
玄弥は、拳を開き、閉じる。
何も起きない。
霊気も、反応もない。
「条件は?」
短く、要点だけを問う。
九尾は、一拍置いてから答えた。
「三つある」
空気が、僅かに張り詰める。
「一つ。
お前自身の霊力で器を安定させること」
「でも呪いで霊力自体が封じられているんじゃ‥」
葛葉が答える。
「その通りだ、だが精神統一の修行で少しづつだが呪いを抑えられて来ている」
九尾は続ける。
「二つ。
霊装に頼らず、戦闘を成立させる」
玄弥は、八岐大蛇の背中を見る。
「あれを、霊装なしで相手にしろと?」
「そういうことだ」
即答だった。
玄弥は、言葉を失った。
「三つ目が、一番厄介だ」
九尾の声が、少し低くなる。
「霊装を“求めない”こと」
玄弥は、眉を寄せる。
「……意味が分からない」
「霊装は力だ。
だが今は使うとまずい」
九尾は静かに言う。
「修復も仕切れていない今のお前が霊装を求めれば、確実にパスは切れる」
沈黙。
玄弥は、ゆっくりと息を吐いた。
「……要するに」
「霊装がなくても、
やれるところまで行けって話だな」
九尾は、否定しない。
「そうだ」
「だが、兆しはある」
葛葉の気配が、わずかに強くなる。
「昨夜、精神統一の最中――
お前の意識に、霊力が混じっていた」
玄弥は、目を細める。
「……気のせいじゃないのか」
「気のせいなら、ここまで言わない」
九尾は、少しだけ声を和らげた。
「今は、細い糸だ。
下手に引けば切れる」
「だが、切らずに保てば――
いずれ、霊装も応える」
玄弥は、立ち上がった。
休憩は終わりだ。
「……分かった」
それだけ言って、八岐大蛇の方へ向かう。
背中越しに、九尾が告げる。
「焦るな、玄弥」
「力は、戻る」
「だが今は――
自分の足で、そこまで辿り着け」
玄弥は振り返らない。
無骨な体躯。
削り落とされたような筋肉。
白髪は無造作に伸び、右目には黒い眼帯。
左目だけが、異様な圧を放っている。
だが――
玄弥が感じていた違和感は、別にあった。
「……来ないな」
ぽつりと漏れた言葉。
葛葉の気配が、遠い。
八岐大蛇は、それを察して鼻で笑った。
「当たり前だ」
「ここじゃ、お前は一人だ」
⸻
「かかって来い」
合図はそれだけ。
玄弥が身構えた瞬間――
視界が跳ねた。
殴られた。
否、叩き潰された。
受け身を取る暇もない。
地面に叩きつけられる前に、追撃。
九尾との“パス”が、完全に切れている。
故に霊装も尾も使えない。
「ほら」
八岐大蛇の声が落ちてくる。
「それが今のお前だ」
純粋な肉体。
純粋な判断。
純粋な反応。
それだけで、生き残れという理不尽。
⸻
倒れた瞬間、終わりではない。
「立て」
引きずり起こされる。
走れ。
跳べ。
呼吸を整えろ。
集中しろ。
霊力を流そうとしても、器が歪んで弾かれる。
制御できない。
増幅もできない。
「焦るな、焦るな」
「今のお前は、
壊れた容器に水を注いでるだけだ」
息が切れた瞬間、攻撃。
集中が途切れた瞬間、死。
何度も、何度も。
⸻
とっくに深夜を過ぎ夜と呼べるかも分からない時間。
玄弥は座らされる。
「精神統一だ」
九尾の声は、微かにしか届かない。
「今は直接干渉できない。
器を直すのは――お前自身だ」
目を閉じる。
呼吸を整える。
だが、昼間の“死”の感覚が蘇る。
骨が折れた音。
視界が暗転する瞬間。
眠りに落ちそうになると――
「寝るな」
八岐大蛇の声。
修復。
集中。
崩壊。
やり直し。
眠る時間は、ほぼない。
⸻
朝。
玄弥は立っていた。
立っているだけで、精一杯だった。
霊装もない。
尾もない。
九尾の力も借りられない。
逃げ場はない。
八岐大蛇は、満足そうに言う。
「いいなこれこそ修行の醍醐味だ」
そして、続けた。
「今日も死ぬぞ」
修行は続く。
完全に、一人きりで。
「来い」
八岐大蛇の声。
次の瞬間、視界が砕ける。
殴られる。
叩きつけられる。
潰される。
反応は遅い。
判断は甘い。
倒れるたび、引き起こされる。
「立て」
「終わりじゃねぇ」
霊装は使えない。
尾も出ない。
九尾の力も借りられない。
ただの“人間”として、壊される。
夜。
座らされる。
精神統一。
壊れた霊力の器を、内側から撫でるように整える。
集中が途切れれば、最初から。
眠りは許されない。
朝。
身体は、立っている。
「今日も死ぬぞ」
死ぬ。
蘇る。
⸻
「来い」
同じ距離。
同じ構え。
だが――
一瞬だけ、見えた。
殴られる前の“兆し”。
完全には避けられない。
それでも、致命だけは外す。
「……ほう」
八岐大蛇の声が、わずかに低くなる。
それでも結果は変わらない。
倒される。
壊される。
殺される。
夜。
精神統一。
霊力が、ほんの一拍だけ通る。
すぐに乱れる。
やり直し。
朝。
痛みが、ただの情報になる。
⸻
何日目か、分からなくなる。
空は変わらない。
草原も変わらない。
変わるのは、玄弥だけだ。
無駄な動きが消える。
呼吸が短くなる。
思考が研ぎ澄まされる。
何度も死に、
何度も戻され、
それでも立ち続ける。
⸻
ある日、八岐大蛇が言った。
「……一年だ」
玄弥は、すぐには理解できなかった。
「この世界で、だ」
その一言で、重さが落ちてくる。
一年。
逃げ場のない修行を、
丸一年。
八岐大蛇は、腕を組んで玄弥を見る。
「まだ足りねぇ」
「だがな」
左目が、わずかに細められる。
「最初みたいに、
簡単には死ななくなった」
それは、評価だった。
終わりではない。
だが――
玄弥は、確かにここで
“人間のまま”強くなっていた。
「来い」
いつもの声。
いつもの距離。
十年。
この世界で、十年。
玄弥は構える。
呼吸は短く、視線は低い。
八岐大蛇が踏み込む。
速い。
最初の頃と、何も変わらない。
――それでも。
玄弥の身体が、先に動いた。
避けない。
下がらない。
一歩、前へ。
拳が振り抜かれるより早く、
肘を畳み、体重を乗せる。
鈍い衝撃音。
八岐大蛇の胴に、確かな感触。
「……」
一瞬、空気が止まる。
八岐大蛇は動かない。
ゆっくりと視線を落とし、当たった場所を見る。
「……一打、か」
玄弥は、その場に立ったまま、息を吐いた。
倒れない。
殺されない。
それだけで、胸の奥が軋む。
「今日は、ここまでだ」
その言葉に、玄弥は反応が遅れた。
「……休憩だ」
八岐大蛇は背を向ける。
「よくやった、とは言わねぇ」
「だが」
振り返らずに、続ける。
「ようやく、修行になった」
⸻
玄弥は草地に腰を下ろした。
身体は、動く。
意識も、はっきりしている。
そして異変が訪れる。
葛葉の声が、かすかに響く。
「……気づいているか」
玄弥は、短く答える。
「ああ」
「……一打入れたか」
葛葉は、静かに告げた。
「この世界で――十年だ」
言葉が、重く落ちる。
十年。
逃げ場のない修行。
死と蘇生の繰り返し。
眠れぬ夜。
それを、十年。
玄弥は空を見上げた。
変わらない空。
変わらない景色。
それでも。
拳を握る。
最初とは、明らかに違う。
「……まだ、足りねぇな」
八岐大蛇が、わずかに笑う。
「当然だ」
「だが、戻ったら――
この十年は、確実に牙になる」
休憩は、長くは続かない。
だがこの一瞬だけは、
玄弥は確かに思った。
ここまで、来た。
⸻
休憩と呼ぶには、あまりにも短い静寂。
玄弥が呼吸を整えていると、葛葉の声が、いつもよりはっきりと届いた。
「……玄弥」
「なんだ」
即答だった。
「霊装の“パス”がな。
完全じゃないが――戻り始めている」
玄弥は、すぐに動こうとして、止まった。
「……使えねぇ」
「使えない」
九尾も、即座に肯定する。
「だが、断絶はしていない。
これまでとは違う」
玄弥は、拳を開き、閉じる。
何も起きない。
霊気も、反応もない。
「条件は?」
短く、要点だけを問う。
九尾は、一拍置いてから答えた。
「三つある」
空気が、僅かに張り詰める。
「一つ。
お前自身の霊力で器を安定させること」
「でも呪いで霊力自体が封じられているんじゃ‥」
葛葉が答える。
「その通りだ、だが精神統一の修行で少しづつだが呪いを抑えられて来ている」
九尾は続ける。
「二つ。
霊装に頼らず、戦闘を成立させる」
玄弥は、八岐大蛇の背中を見る。
「あれを、霊装なしで相手にしろと?」
「そういうことだ」
即答だった。
玄弥は、言葉を失った。
「三つ目が、一番厄介だ」
九尾の声が、少し低くなる。
「霊装を“求めない”こと」
玄弥は、眉を寄せる。
「……意味が分からない」
「霊装は力だ。
だが今は使うとまずい」
九尾は静かに言う。
「修復も仕切れていない今のお前が霊装を求めれば、確実にパスは切れる」
沈黙。
玄弥は、ゆっくりと息を吐いた。
「……要するに」
「霊装がなくても、
やれるところまで行けって話だな」
九尾は、否定しない。
「そうだ」
「だが、兆しはある」
葛葉の気配が、わずかに強くなる。
「昨夜、精神統一の最中――
お前の意識に、霊力が混じっていた」
玄弥は、目を細める。
「……気のせいじゃないのか」
「気のせいなら、ここまで言わない」
九尾は、少しだけ声を和らげた。
「今は、細い糸だ。
下手に引けば切れる」
「だが、切らずに保てば――
いずれ、霊装も応える」
玄弥は、立ち上がった。
休憩は終わりだ。
「……分かった」
それだけ言って、八岐大蛇の方へ向かう。
背中越しに、九尾が告げる。
「焦るな、玄弥」
「力は、戻る」
「だが今は――
自分の足で、そこまで辿り着け」
玄弥は振り返らない。
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