お言葉ですが殿下、その婚約破棄は非常に合理的です!

パリパリかぷちーの

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「……イザベル。今日からここが君の職場であり、そして将来の家となる場所だ」

アリストテレス公爵に導かれ、イザベルはノアール公爵邸の重厚な門をくぐった。
そこは歴史を感じさせる壮麗な建築物だったが、イザベルの鋭い眼光は装飾の美しさではなく、建物の「構造的欠陥」を瞬時にスキャンしていた。

「お言葉ですが公爵様。このエントランスから執務室までの動線に、無意味な装飾柱が三本あります。これによる回避行動の累積時間は、一年で一時間を超えますわ。後で撤去してよろしいでしょうか?」

「……引っ越し早々、柱を抜こうとする花嫁候補は初めてだな。だが君に任せると言った以上、好きにしたまえ」

アリストテレスが苦笑しながら答えると、屋敷のメイドや執事たちが一列に並んで出迎えた。
中央に立つ初老の家政婦、マーサが進み出て、深々と頭を下げる。

「ようこそ、イザベル様。私がこの屋敷の家政を預かっておりますマーサでございます。お疲れでしょう、まずは自慢のハーブティーを淹れさせますので、お部屋で――」

「結構ですわ、マーサ。私は疲労を感じる前に休憩をスケジュールに組み込んでいます。それよりも、この屋敷の『清掃マニュアル』と『在庫管理表』を見せていただけますか?」

「……はい? 清掃……マニュアル、でございますか?」

マーサが困惑したように聞き返すと、イザベルは指先で窓枠を軽く撫で、ほんのわずかな塵を確認した。

「ええ。先ほどから観察していましたが、メイドたちの雑巾の動線が『円形』を描いています。これは物理的に拭き残しが発生しやすく、同じ場所を二度拭く二度手間の温床です。清掃は『S字』、これこそが真理ですわ」

「な、なんですって……!? この道四十年の私の教えに、そのような指摘を……!」

「四十年も非効率を続けていたのですか? それは損失(ロス)ですね。今日から全ての清掃業務をベクトル計算に基づいた最短ルートに最適化します。全スタッフ、三十分後に大ホールに集合。研修(ワークショップ)を始めます」

イザベルの宣言に、メイドたちの間に戦慄が走った。
彼女は自分の荷物を侍女に預ける間もなく、懐から自作の「家事効率化定規」を取り出した。

それから一時間後。
公爵邸の大ホールは、まるで戦場のような緊張感に包まれていた。

「いいですか。洗濯物を畳む動作において、関節の屈曲を最小限に抑えれば、一着につき三秒短縮できます。屋敷全体の洗濯物、一日五百着分で計算すれば、年間で五百時間の自由時間が生まれるのです!」

「ご、五百時間……!?」

「その時間を、あなたたちは昼寝に使うもよし、勉強に使うもよし、あるいは新たな効率化案を練るもよし。……さあ、実践です! 一ミリのズレも許しませんわよ!」

イザベルの熱血……もとい、冷徹な指導により、メイドたちの動きがみるみるうちに無機質な機械のように洗練されていく。
彼女は単に厳しくするのではない。「楽をするために知恵を絞れ」と説いているのだ。

その様子を二階の回廊から眺めていたアリストテレスは、呆れを通り越して感心していた。

「……マーサ。君まであんなに必死になって、雑巾を振らなくてもいいだろう」

「閣下……お言葉ですが、イザベル様は天才です! 言われた通りに動くと、腰の痛みが全く違うのです! 私は……私は今、家事の向こう側にある真実を見た気がいたします!」

「……真実、か。私の婚約者は、いつの間にか家政婦たちのカリスマになっているようだな」

アリストテレスは階段を下り、熱弁を振るうイザベルの側へと歩み寄った。

「イザベル。そろそろ休憩しろ。君の時給は高いんだろう? こんな雑務にリソースを割きすぎるのは非効率だ」

「いいえ、公爵様。組織の基盤を整えるのは、初期投資(イニシャルコスト)として最も重要です。ここを疎かにすれば、後の運用(ランニング)コストが跳ね上がります。……あ、ちょうどいいところに。公爵様も、こちらの『効率的な書類のめくり方』を習得されますか?」

「……私は遠慮しておく。それよりも、君の歓迎会を兼ねた夕食会の準備ができているんだ。これだけは、効率度外視で楽しんでほしい」

アリストテレスが少しだけ甘い声で誘うと、イザベルは一瞬、計算が止まったような顔をした。
彼女は時計と、目の前の「氷の公爵」の意外なほど温かい眼差しを交互に見た。

「……夕食会、ですか。……摂取カロリーの最適化が必要ですね。分かりました、公爵様。十五分間の身支度時間の後、ダイニングに参ります。……一秒も遅れませんわ」

「ああ、期待しているよ。……イザベル。君が来てから、この屋敷が少し……明るくなった気がする」

「それは照明の配置を三度傾けたからですわ。反射効率が向上しました」

「……君のそういうところが、一番の『非効率』な魅力だな」

アリストテレスは彼女の額に、軽く、本当に一瞬だけ唇を寄せた。
イザベルは彫像のように固まり、顔を真っ赤にしてフリーズした。

「……こ、公爵様。今の接触は、挨拶としての必要最小限の圧力を大幅に超過しています! ……ですが、特例として『進捗ボーナス』として計上しておきますわ……!」

彼女は逃げるように部屋へと駆け込んでいった。
アリストテレスはそれを見送りながら、不敵な笑みを浮かべた。

一方、その頃。
元の王国では、ウィルフレッド王子が「イザベルが担当していた各貴族への贈答品リスト」を紛失し、有力貴族から「俺の誕生日に、なぜアレルギーのナッツが届くんだ!」という抗議文の嵐に埋もれていた。

「イザベル……! 返事をしろ、イザベル! ……ああ、そうか。もういないんだった……」

王子の執務室に、虚しいエコーだけが響き渡っていた。
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