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王都の喧騒から離れた、国境近くの古い貴族の別荘。
そこは現在、隣国の公爵ゼクス・アルトワが滞在する「臨時執務室」と化していた。
クロナは鏡の前で、最後の手直しを終えた。
今日の装いは、華美なドレスではない。動きやすく、それでいて気品を損なわない、深い紺色のライディング・ドレスだ。
「お嬢様、準備が整いました。ゼクス閣下がお待ちです」
「ありがとう、サーシャ。……ふう。王子の相手をするより、数千倍は緊張するわね。何せ相手は『生きた計算機』とまで称される御方ですもの」
クロナは手に持った分厚い革の鞄を抱え直し、応接室の扉を開いた。
部屋の奥、暖炉の前に座っていたのは、銀髪を冷徹なまでに整えた青年だった。
彼の瞳は、冬の湖のような澄んだ青。クロナが入室しても、彼は手元の書類から視線を外さず、淡々と口を開いた。
「……五分遅い。ロベール侯爵令嬢」
「失礼いたしました。国境警備隊の検問が、予定より三分ほど長引きましたので。……ちなみに、その検問の効率化案も、こちらの鞄の中に用意してありますわ」
その言葉に、ゼクスがようやく顔を上げた。
鋭い眼差しがクロナを射抜く。
「面白いことを言う。君は婚約破棄を目前にした悲劇の令嬢として、私に助けを求めに来たのではないのか?」
「助け? いいえ、閣下。私は『商談』に来たのです。……お座りしてもよろしいかしら?」
ゼクスが黙って対面の椅子を指し示す。
クロナは優雅に腰を下ろすと、鞄から一束の書類を取り出し、机の上に滑らせた。
「これは……マリス王国の、向こう十年の経済予測、及び我がロベール家が保有する全資産の目録と移転計画書……か」
「それだけではありませんわ。その三ページ目をご覧ください。貴国が現在抱えている、物流のボトルネックを解消するための特許技術……その使用権も、ロベール家が買い取って同封してあります」
ゼクスは書類をめくる手が止まった。
彼の表情には出ないが、その瞳に宿る熱が、一気に上がったのをクロナは見逃さなかった。
「……なぜ、自国を売るような真似をする。君はロベール侯爵家の長女だろう」
「売るのではなく、倒産寸前の会社から優良資産を救い出しているだけですわ。無能な経営陣……つまりジュリアン殿下に、これ以上の富を浪費させるのは、経済に対する冒涜だと思いませんこと?」
「経済に対する冒涜、か。……君は思っていた以上に、冷酷な女だな」
「最高の褒め言葉として受け取っておきますわ。……さて、閣下。本題に入りましょう。私は私の知性と、ロベール家の資本を、貴国に提供します。その見返りとして……」
クロナは一呼吸置き、真っ直ぐにゼクスの目を見つめた。
「私を、貴方の『契約上の妻』として迎え入れていただきたいのです。期間は三年間。その間に、私は貴方の領地の税収を最低でも三割アップさせて見せましょう。もし達成できなければ、私の全私財を差し上げても構いませんわ」
沈黙が部屋を支配した。
暖炉で薪がはぜる音だけが響く中、ゼクスは指先で顎をなぞりながら、じっとクロナを観察した。
「……結婚という形態をとる理由は?」
「隣国の公爵夫人という肩書きがあれば、マリス王家もうかつに手出しはできません。それに、仕事をする上で『外部の人間』より『家族』である方が、情報のアクセス権を得やすいでしょう?」
「利己的だな。……だが、合理的だ」
ゼクスはふっと、わずかに口角を上げた。
それは氷が解けるような、危うい美しさを持った笑みだった。
「いいだろう。その契約、私が買い取ろう。……ただし、一つ条件がある」
「条件、かしら?」
「私の妻になる以上、ただの事務官としての仕事だけでは足りない。……夜会や式典では、私が『愛している』と錯覚させるほど、完璧に私の隣で微笑んでもらう」
クロナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを返した。
「お安い御用ですわ。演技指導が必要なら、今からでも始めましょうか? ……旦那様?」
「……フン。合格だ」
ゼクスは立ち上がり、クロナの前に右手を差し出した。
それは救いの手ではなく、対等なビジネスパートナーとして握られるべき手だった。
「卒業パーティーの日、君を迎えに馬車を出そう。マリス王国の連中が、自分たちが何を失ったのかを理解する、最高の舞台にしようじゃないか」
「ええ。楽しみにしておりますわ。……あ、忘れていました。契約金として、あのアホな王子が私から盗用した論文の『正当な著作権料』も、後ほど請求させていただきますので、徴収をよろしくお願いしますわね」
クロナはゼクスの手をしっかりと握り返した。
その手は驚くほど温かく、そして確かな力強さに満ちていた。
「(さあ、ジュリアン。一週間後、貴方の『真実の愛』とやらが、隣国の公爵の軍事力と経済力に勝てるかどうか……せいぜい震えて待っていなさいな)」
クロナの胸の内で、勝利のファンファーレが鳴り響き始めた。
恋に溺れる少女ではなく、未来を支配する会計士として、彼女は最高にスカッとする「人生の逆転劇」の契約書に、見えないサインを書き込んだのである。
そこは現在、隣国の公爵ゼクス・アルトワが滞在する「臨時執務室」と化していた。
クロナは鏡の前で、最後の手直しを終えた。
今日の装いは、華美なドレスではない。動きやすく、それでいて気品を損なわない、深い紺色のライディング・ドレスだ。
「お嬢様、準備が整いました。ゼクス閣下がお待ちです」
「ありがとう、サーシャ。……ふう。王子の相手をするより、数千倍は緊張するわね。何せ相手は『生きた計算機』とまで称される御方ですもの」
クロナは手に持った分厚い革の鞄を抱え直し、応接室の扉を開いた。
部屋の奥、暖炉の前に座っていたのは、銀髪を冷徹なまでに整えた青年だった。
彼の瞳は、冬の湖のような澄んだ青。クロナが入室しても、彼は手元の書類から視線を外さず、淡々と口を開いた。
「……五分遅い。ロベール侯爵令嬢」
「失礼いたしました。国境警備隊の検問が、予定より三分ほど長引きましたので。……ちなみに、その検問の効率化案も、こちらの鞄の中に用意してありますわ」
その言葉に、ゼクスがようやく顔を上げた。
鋭い眼差しがクロナを射抜く。
「面白いことを言う。君は婚約破棄を目前にした悲劇の令嬢として、私に助けを求めに来たのではないのか?」
「助け? いいえ、閣下。私は『商談』に来たのです。……お座りしてもよろしいかしら?」
ゼクスが黙って対面の椅子を指し示す。
クロナは優雅に腰を下ろすと、鞄から一束の書類を取り出し、机の上に滑らせた。
「これは……マリス王国の、向こう十年の経済予測、及び我がロベール家が保有する全資産の目録と移転計画書……か」
「それだけではありませんわ。その三ページ目をご覧ください。貴国が現在抱えている、物流のボトルネックを解消するための特許技術……その使用権も、ロベール家が買い取って同封してあります」
ゼクスは書類をめくる手が止まった。
彼の表情には出ないが、その瞳に宿る熱が、一気に上がったのをクロナは見逃さなかった。
「……なぜ、自国を売るような真似をする。君はロベール侯爵家の長女だろう」
「売るのではなく、倒産寸前の会社から優良資産を救い出しているだけですわ。無能な経営陣……つまりジュリアン殿下に、これ以上の富を浪費させるのは、経済に対する冒涜だと思いませんこと?」
「経済に対する冒涜、か。……君は思っていた以上に、冷酷な女だな」
「最高の褒め言葉として受け取っておきますわ。……さて、閣下。本題に入りましょう。私は私の知性と、ロベール家の資本を、貴国に提供します。その見返りとして……」
クロナは一呼吸置き、真っ直ぐにゼクスの目を見つめた。
「私を、貴方の『契約上の妻』として迎え入れていただきたいのです。期間は三年間。その間に、私は貴方の領地の税収を最低でも三割アップさせて見せましょう。もし達成できなければ、私の全私財を差し上げても構いませんわ」
沈黙が部屋を支配した。
暖炉で薪がはぜる音だけが響く中、ゼクスは指先で顎をなぞりながら、じっとクロナを観察した。
「……結婚という形態をとる理由は?」
「隣国の公爵夫人という肩書きがあれば、マリス王家もうかつに手出しはできません。それに、仕事をする上で『外部の人間』より『家族』である方が、情報のアクセス権を得やすいでしょう?」
「利己的だな。……だが、合理的だ」
ゼクスはふっと、わずかに口角を上げた。
それは氷が解けるような、危うい美しさを持った笑みだった。
「いいだろう。その契約、私が買い取ろう。……ただし、一つ条件がある」
「条件、かしら?」
「私の妻になる以上、ただの事務官としての仕事だけでは足りない。……夜会や式典では、私が『愛している』と錯覚させるほど、完璧に私の隣で微笑んでもらう」
クロナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを返した。
「お安い御用ですわ。演技指導が必要なら、今からでも始めましょうか? ……旦那様?」
「……フン。合格だ」
ゼクスは立ち上がり、クロナの前に右手を差し出した。
それは救いの手ではなく、対等なビジネスパートナーとして握られるべき手だった。
「卒業パーティーの日、君を迎えに馬車を出そう。マリス王国の連中が、自分たちが何を失ったのかを理解する、最高の舞台にしようじゃないか」
「ええ。楽しみにしておりますわ。……あ、忘れていました。契約金として、あのアホな王子が私から盗用した論文の『正当な著作権料』も、後ほど請求させていただきますので、徴収をよろしくお願いしますわね」
クロナはゼクスの手をしっかりと握り返した。
その手は驚くほど温かく、そして確かな力強さに満ちていた。
「(さあ、ジュリアン。一週間後、貴方の『真実の愛』とやらが、隣国の公爵の軍事力と経済力に勝てるかどうか……せいぜい震えて待っていなさいな)」
クロナの胸の内で、勝利のファンファーレが鳴り響き始めた。
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