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王宮での緊急会議から数日。
隣国ガルニア王国の惨状は、日を追うごとに深刻さを増し、その情報はジークフリートたちの元へもたらされ続けていた。
しかし、王国として有効な対策は何一つ打ち出せず、ただ国境を固めるだけで、無為な時間だけが過ぎていく。
ジークフリートの心は、焦燥と無力感に苛まれていた。
その膠着した状況に、一条の光が差し込んだのは、深夜のことだった。
クライネルト公爵家の書斎。
主であるアルブレヒトは、あの日、伝令兵が口にした『月光山脈』という地名に言いようのない胸騒ぎを覚え、以来、寝る間も惜しんで自邸の書庫に籠っていた。
彼は、羊皮紙の古文書や、埃をかぶった地方史のページを、鬼気迫る表情でめくり続けていた。
そして、ついに、一冊の古びた植物図鑑の中に、その記述を見つけたのだ。
「これだ……!」
そこに書かれていたのは、数百年に一度、月光山脈周辺で流行するという風土病、『灰死病』についての記録だった。
高熱、赤い発疹、そして死に至る。
その症状は、ガルニアで猛威を振るっている謎の病と、不気味なほど一致していた。
アルブレヒトは、息を詰めてページの先を読む。
そして、その最終章に、震える指を止めた。
『灰死病を癒やすは、ただ一つ。夜、月の光を浴びて青白く輝くという、幻の薬草、『月光草』を煎じた薬のみ……』
「特効薬が、あったのか……!」
アルブレヒトの目に、希望の光が宿る。
しかし、その光は、次の瞬間に絶望の影に覆われた。
書物には、こう続いていたのだ。
『月光草は、ガルニア王国の月光山脈の、さらに奥深く、断崖絶壁にのみ自生すると言われ、その採取は極めて困難を極める……』
(ガルニアの、奥深く……。これでは、今の状況では手が出せん)
重いため息をつきながら、アルブレヒトは書物を閉じた。
***
その頃、リーチュは、父のそんな苦悩など知る由もなく、離宮の温室で穏やかな午後を過ごしていた。
隣には、いつものようにアシュトンがいる。
「見て、アシュトン。この子たち、最近ようやく新しい芽を出してくれたのよ」
リーチュが、誇らしげに指さしたのは、温室の一番奥で、まるで宝石のように大切に育てられている、数鉢の植物だった。
他のハーブとは明らかに違う、青みがかった緑色の葉を持つ、どこか神秘的な姿をしている。
「これが、『月光草』よ」
「月光草……? 聞いたことのない名だな」
アシュトンが不思議そうに言うと、リーチュは楽しそうに説明を始めた。
「無理もないわ。ほとんどの薬師は、文献の中でしか見たことのない、幻の薬草ですもの。わたくしの、一番専門の研究分野なの」
リーチュは、慈しむようにその葉を撫でた。
「数年前に、お父様が視察でクライネルト領の奥深く、月光山脈の麓を訪れた際に、偶然見つけてきてくださったの。それ以来、ここで栽培方法を研究しているのだけれど……まあ、気難しいこと」
「気難しい?」
「ええ。とてもデリケートで、少しでも気温や湿度が変わると、すぐに枯れてしまうのよ。それに、この薬草、ただ煎じただけではただの毒草なの。薬効を引き出すには、数種類の薬草と、特別な手順で調合する必要があって……」
熱っぽく語るリーチュの横顔を、アシュトンは眩しそうに見つめていた。
彼女が、どれほど深く、薬草というものを愛しているか。
その情熱が、ひしひしと伝わってくる。
その夜。
クライネルト公爵は、王宮にいるジークフリートに、書物で見つけた『灰死病』と『月光草』の情報を伝えた。
藁にもすがりたい思いだったジークフリートは、特効薬の存在を知り、一瞬、顔を輝かせた。
「本当か、公爵! それで、その薬草はどこに!」
「……ガルニア王国の、月光山脈の奥地だと、書物には……」
その言葉に、ジークフリートの表情が再び絶望に染まる。
敵国ではないにせよ、今や地獄と化した隣国の、さらに奥深く。
そんな場所へ、どうやって薬草を採りに行けというのか。
報告を終え、自邸に戻ったアルブレヒトは、一人、書斎で深く思い悩んでいた。
特効薬の鍵は、ガルニアではない。
この国の、自分の領地にある。
そして、その薬草を真に活かせる知識を持つのは、この世界でただ一人、自分の愛する娘、リーチュだけだ。
その事実を、王宮に伝えるべきか否か。
伝えれば、国は救われるかもしれない。
だが、それは同時に、愛する娘を、危険極まりない任務へと駆り出すことに他ならない。
公爵としての責務と、父親としての愛情。
その巨大な天秤の間で、アルブレヒトの心は、張り裂けんばかりに揺れ動いていた。
彼は、机の引き出しから、一枚の古い絵を取り出した。
それは、リーチュがまだ幼い頃に描いた、拙いタッチの薬草の絵だった。
その絵を眺めながら、アルブレヒトは、重い、重いため息をついた。
彼の決断が、王国の、そして娘の運命を大きく左右することになる。
隣国ガルニア王国の惨状は、日を追うごとに深刻さを増し、その情報はジークフリートたちの元へもたらされ続けていた。
しかし、王国として有効な対策は何一つ打ち出せず、ただ国境を固めるだけで、無為な時間だけが過ぎていく。
ジークフリートの心は、焦燥と無力感に苛まれていた。
その膠着した状況に、一条の光が差し込んだのは、深夜のことだった。
クライネルト公爵家の書斎。
主であるアルブレヒトは、あの日、伝令兵が口にした『月光山脈』という地名に言いようのない胸騒ぎを覚え、以来、寝る間も惜しんで自邸の書庫に籠っていた。
彼は、羊皮紙の古文書や、埃をかぶった地方史のページを、鬼気迫る表情でめくり続けていた。
そして、ついに、一冊の古びた植物図鑑の中に、その記述を見つけたのだ。
「これだ……!」
そこに書かれていたのは、数百年に一度、月光山脈周辺で流行するという風土病、『灰死病』についての記録だった。
高熱、赤い発疹、そして死に至る。
その症状は、ガルニアで猛威を振るっている謎の病と、不気味なほど一致していた。
アルブレヒトは、息を詰めてページの先を読む。
そして、その最終章に、震える指を止めた。
『灰死病を癒やすは、ただ一つ。夜、月の光を浴びて青白く輝くという、幻の薬草、『月光草』を煎じた薬のみ……』
「特効薬が、あったのか……!」
アルブレヒトの目に、希望の光が宿る。
しかし、その光は、次の瞬間に絶望の影に覆われた。
書物には、こう続いていたのだ。
『月光草は、ガルニア王国の月光山脈の、さらに奥深く、断崖絶壁にのみ自生すると言われ、その採取は極めて困難を極める……』
(ガルニアの、奥深く……。これでは、今の状況では手が出せん)
重いため息をつきながら、アルブレヒトは書物を閉じた。
***
その頃、リーチュは、父のそんな苦悩など知る由もなく、離宮の温室で穏やかな午後を過ごしていた。
隣には、いつものようにアシュトンがいる。
「見て、アシュトン。この子たち、最近ようやく新しい芽を出してくれたのよ」
リーチュが、誇らしげに指さしたのは、温室の一番奥で、まるで宝石のように大切に育てられている、数鉢の植物だった。
他のハーブとは明らかに違う、青みがかった緑色の葉を持つ、どこか神秘的な姿をしている。
「これが、『月光草』よ」
「月光草……? 聞いたことのない名だな」
アシュトンが不思議そうに言うと、リーチュは楽しそうに説明を始めた。
「無理もないわ。ほとんどの薬師は、文献の中でしか見たことのない、幻の薬草ですもの。わたくしの、一番専門の研究分野なの」
リーチュは、慈しむようにその葉を撫でた。
「数年前に、お父様が視察でクライネルト領の奥深く、月光山脈の麓を訪れた際に、偶然見つけてきてくださったの。それ以来、ここで栽培方法を研究しているのだけれど……まあ、気難しいこと」
「気難しい?」
「ええ。とてもデリケートで、少しでも気温や湿度が変わると、すぐに枯れてしまうのよ。それに、この薬草、ただ煎じただけではただの毒草なの。薬効を引き出すには、数種類の薬草と、特別な手順で調合する必要があって……」
熱っぽく語るリーチュの横顔を、アシュトンは眩しそうに見つめていた。
彼女が、どれほど深く、薬草というものを愛しているか。
その情熱が、ひしひしと伝わってくる。
その夜。
クライネルト公爵は、王宮にいるジークフリートに、書物で見つけた『灰死病』と『月光草』の情報を伝えた。
藁にもすがりたい思いだったジークフリートは、特効薬の存在を知り、一瞬、顔を輝かせた。
「本当か、公爵! それで、その薬草はどこに!」
「……ガルニア王国の、月光山脈の奥地だと、書物には……」
その言葉に、ジークフリートの表情が再び絶望に染まる。
敵国ではないにせよ、今や地獄と化した隣国の、さらに奥深く。
そんな場所へ、どうやって薬草を採りに行けというのか。
報告を終え、自邸に戻ったアルブレヒトは、一人、書斎で深く思い悩んでいた。
特効薬の鍵は、ガルニアではない。
この国の、自分の領地にある。
そして、その薬草を真に活かせる知識を持つのは、この世界でただ一人、自分の愛する娘、リーチュだけだ。
その事実を、王宮に伝えるべきか否か。
伝えれば、国は救われるかもしれない。
だが、それは同時に、愛する娘を、危険極まりない任務へと駆り出すことに他ならない。
公爵としての責務と、父親としての愛情。
その巨大な天秤の間で、アルブレヒトの心は、張り裂けんばかりに揺れ動いていた。
彼は、机の引き出しから、一枚の古い絵を取り出した。
それは、リーチュがまだ幼い頃に描いた、拙いタッチの薬草の絵だった。
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