婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの

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「カルル! こんなところにいたのか!」

静まり返ったホールに、ジェラール殿下の空気を読まない大声が響き渡った。

殿下は人垣をかき分け、私たちの方へ大股で歩いてくる。

その後ろを、ミナ嬢がドレスの裾を踏みそうになりながら小走りでついてくる。

「はぁ、はぁ……やっと見つけたぞ。探したんだぞ!」

目の前に立ったジェラール殿下を見て、私は眉をひそめた。

酷い有様だ。

かつて「王国の太陽」と呼ばれた美貌は見る影もない。

目の下には濃いクマがあり、肌は荒れ、自慢の金髪も手入れが行き届かずパサついている。

着ている正装も、よく見れば袖口にインクのシミがついており、シワが寄っている。

(……私の退職からわずか数日で、ここまで劣化するとは。メンテナンス不足も甚だしい)

私は冷静に観察しながら、冷ややかに口を開いた。

「お久しぶりです、殿下。やつれましたね。栄養バランスの乱れと、睡眠不足とお見受けします」

「誰のせいだと思っている! お前がいなくなってから、城の中がめちゃくちゃなんだ!」

ジェラール殿下が唾を飛ばしながら叫ぶ。

「書類は山のように積まれるし、予算はどこも足りないと言うし、メイドたちは言うことを聞かない! おまけに今日の外交視察の準備も、誰もやってくれなかったんだぞ!」

「それは大変ですね。ですが、それは『王太子殿下の公務』であり、私の業務範囲外です」

「屁理屈を言うな! お前はずっとそれをやっていただろう!」

「ええ。『婚約者』という契約に基づいて。ですが、その契約は殿下ご自身の手によって破棄されました。忘れたとは言わせませんよ?」

私が正論を突き返すと、殿下はぐっと言葉に詰まった。

「だ、だから! その破棄を撤回してやると言っているんだ!」

殿下は偉そうに胸を張った。

周囲の貴族たちが、「はあ?」と呆れたような声を漏らす。

「特別に許してやる。僕の婚約者に戻ることを許可する! さあ、今すぐ帰ってあの書類の山を片付けろ! ついでに肩も揉め!」

この期に及んで、この言い草である。

彼の頭の中では、世界は自分を中心に回っているらしい。

私は深いため息をつき、眼鏡を指で押し上げた。

「……お断りします」

「は?」

「聞こえませんでしたか? 『嫌です』と申し上げました」

「な、なぜだ!? 王太子の婚約者だぞ!? 将来の王妃だぞ!?」

「魅力的な条件ではありませんね。無給の長時間労働、福利厚生なし、上司(殿下)は無能でパワハラ気質。おまけに同僚(ミナ嬢)はトラブルメーカー。そんなブラック職場に戻る人間がどこにいますか?」

「ぶ、ブラック……!?」

「それに比べて、現在の職場(グラン・ノワール公爵家)は最高です」

私は隣に立つアイザック様を見上げた。

彼は面白そうに事の成り行きを見守っている。

「給与は言い値、残業代全額支給、福利厚生完備。上司は有能で決断力があり、私の能力を正当に評価してくださる。転職は大成功でした」

「ぐぬぬ……! 金か! 結局は金なのか!」

「ええ、金です。愛でご飯は食べられませんので」

私がきっぱりと言うと、ジェラール殿下の後ろからミナ嬢が顔を出した。

「ひどぉい! カルル様、愛がないなんて寂しい人ですぅ!」

彼女はピンク色のフリフリのドレス(TPOを完全に無視している)を揺らしながら、上目遣いで私を見た。

「愛があれば、お金なんていらないはずです! 私とジェラール様みたいに!」

「ミナ様。そのドレスと宝石、誰のお金で買ったものかご存知ですか?」

「え? ジェラール様からの愛のプレゼントですけどぉ?」

「その原資は私の財布です。つまり、貴女方の『愛』とやらは、私の『金』の上に成り立っていた砂上の楼閣に過ぎません」

「むずかしい言葉はわかりませんけどぉ、カルル様がいじめるぅ!」

ミナ嬢がぷくっと頬を膨らませる。

そして、彼女の視線がふと隣に向けられた。

そこで初めて、彼女はアイザック様の存在に気づいたようだ。

「……はっ!」

ミナ嬢の目がハートマークになるのが見えた気がした。

漆黒の燕尾服を着こなす、銀髪の冷徹美形。

へたれなジェラール殿下とは対極にある、圧倒的な強者のオーラ。

ミナ嬢の「イケメンセンサー」が反応したらしい。

「すっごぉい……! かっこいい……!」

彼女はジェラール殿下の腕を離し、ふらふらとアイザック様の方へ近づいてきた。

「はじめましてぇ! 私、ミナって言いますぅ。お兄さん、誰ですかぁ?」

無礼にも程がある。

他国の公爵に対して「お兄さん」呼ばわりだ。

彼女はそのまま、アイザック様の腕に抱きつこうと身を乗り出した。

「私ぃ、こわい顔のイケメンさんも好きなんですぅ……きゃっ!?」

ガシッ。

ミナ嬢の手がアイザック様に触れる直前、私がその手首を掴んで阻止した。

「……痛いですぅ。何するんですかぁ」

「商品(閣下)にお手を触れないでください。指紋がつきます」

私は冷ややかな声で告げた。

「それに、この方は私の『新しい婚約者』です。貴女のような浮気性の女性に近づけるわけにはいきません」

「ええーっ!? 婚約者ぁ!? ずるいですぅ! 私だって公爵様とお話ししたいですぅ!」

「お断りします。閣下の時給は貴女の年収の百倍ですので、お話になりたいなら予約金を持ってきてください」

私はミナ嬢の手を放し、シッシッと追い払う仕草をした。

そのやり取りを見ていたジェラール殿下が、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「き、貴様ら……! 僕を無視するな!」

彼は私とアイザック様を指差した。

「そいつが新しい男か! カルル、騙されるな! どうせそいつは、お前の金目当てか、体目当てに決まっている!」

会場が凍りついた。

アイザック・グラン・ノワール公爵に対し、「金目当て」と言うとは。

この大陸で最も裕福な男に対して。

アイザック様が、ゆっくりと口を開いた。

その声は低く、地を這うような重低音だった。

「……ほう。誰が、何目当てだと?」

アイザック様が一歩前に出る。

その瞬間、ビリビリとした威圧感がホール全体を支配した。

「ひっ……!」

ジェラール殿下が情けない声を上げて後ずさる。

「私の名はアイザック・グラン・ノワール。この国の公爵であり、カルルの婚約者だ。……貴国のような貧乏揺すりの絶えない小国の王太子に、金目当て呼ばわりされる筋合いはないが?」

「グ、グラン・ノワール公爵……だと……!?」

ジェラール殿下の顔から血の気が引いていく。

「氷の公爵」の悪名は、彼でも知っていたらしい。

「それに、カルルを『体目当て』と言ったな? 訂正してもらおうか」

アイザック様は私の肩を抱き寄せ、見せつけるように微笑んだ。

「私は彼女の『才能』に惚れ込んだのだ。その明晰な頭脳、冷徹な判断力、そして何より……馬鹿な男を容赦なく切り捨てる潔さにね」

「な、なんだと……」

「彼女は私の最高のパートナーだ。一億積まれても譲る気はない」

アイザック様の言葉に、会場からため息のような歓声が漏れる。

私も不覚にも、心臓がトクンと跳ねた。

(……演技が上手すぎます、ボス。一億と言われると、自分の市場価値が上がったようで悪い気はしませんね)

ジェラール殿下は完全に気圧され、わなわなと震えている。

「く、くそっ……! 覚えてろよ! カルル、後悔するぞ! 僕が帰ったら、お前の実家を取り潰してやるからな!」

捨て台詞としては最悪の部類だ。

私は憐れみの目で彼を見た。

「殿下。脅迫罪が成立しますよ? それに、実家の取り潰しは大いに結構です。勘当されておりますので、私には何の関係もございません」

「なっ……!?」

「むしろ、アイゼン公爵家の不正会計の証拠ならここにありますので、差し上げましょうか? 取り潰しの手続きがスムーズになりますよ」

私が懐から新たな書類を取り出そうとすると、殿下は「ひぃっ」と悲鳴を上げた。

「お、覚えてろぉぉぉ!」

ジェラール殿下は踵を返し、逃げるように走り去っていった。

「あ、待ってくださいジェラール様ぁ! ……バイバイ、イケメンのお兄さん!」

ミナ嬢も手を振りながらその後を追っていく。

嵐のような、そして茶番のような乱入劇が終わった。

会場には奇妙な一体感が生まれていた。

「……ふぅ。やれやれ」

アイザック様が呆れたように肩をすくめる。

「あれが君の元婚約者か。……よく三年間も耐えられたな。君の忍耐力に勲章をやりたいくらいだ」

「忍耐力ではありません。損切りするタイミングを見計らっていただけです」

私は眼鏡を直し、乱れたドレスを整えた。

「しかし、少々厄介なことになりましたね」

「ん? 何か問題が?」

「殿下は『覚えてろ』と仰いました。これは、彼特有の『他人に迷惑をかけてやる』という宣言です。おそらく、帰国後に外交ルートを使って、何らかの嫌がらせをしてくるでしょう」

「例えば?」

「『カルルを返さないなら、輸出品の関税を上げる』とか、『国境付近で軍事演習をする』とか」

「……あんな無能にそんなことができるのか?」

「彼一人では無理ですが、彼の周りには『甘い汁』を吸いたい取り巻きがいますから。彼らを唆せば動くでしょう」

私は手帳を開き、今後の予測プランを書き込んだ。

「外交問題に発展すれば、アイザック様にご迷惑がかかります。今のうちに手を打っておくべきかと」

私が深刻な顔で計算をしていると、アイザック様が突然、私の頭にポンと手を置いた。

「考えすぎるな、カルル」

「……閣下?」

「外交問題? 上等じゃないか。売られた喧嘩を買うのは商人の基本だ。それに……」

彼は凶悪かつ楽しそうに笑った。

「あんな小国の一つや二つ、経済封鎖で干上がらせるのは造作もない。君を奪いに来るというなら、国ごと買い取ってしまおうか」

その発言は、冗談に聞こえなかった。

この人は、本気でやりかねない。

「……閣下。国家買収の予算は計上されておりませんが」

「君が計算してくれ。最も効率的に、あの国を跪かせる方法を」

アイザック様は私の手を取り、唇を寄せた。

「俺の秘書兼婚約者なら、できるだろう?」

試されている。

そして、信頼されている。

私の胸の奥に、王太子時代には感じたことのない高揚感が湧き上がった。

「……承知いたしました、ボス」

私は眼鏡を光らせ、不敵に微笑み返した。

「では、手始めに『報復措置』という名の請求書を、国交省経由で送りつけるところから始めましょうか。桁を三つほど増やして」

こうして、私たちの夜会は大盛況のうちに幕を閉じた。

だが、これはまだ序章に過ぎなかった。

元婚約者の暴走が、両国を巻き込む大騒動へと発展していくことになるのを、私たちはまだ知らなかったのである。
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