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それから、五年後。
グラン・ノワール公爵領は、大陸一の経済特区として発展を遂げていた。
領内には「グラン・ネイチャー」の直営店が立ち並び、観光客が絶えない。
かつて「氷の公爵」と恐れられた領主と、その「守銭奴」と噂された夫人は、今や領民たちから「繁栄の神」として崇められていた。
そして、公爵邸の執務室では――。
「……パパ。このお小遣いの額は、労働基準法に違反していると思われます」
執務机の前で、銀髪の少年が書類を突きつけていた。
アルフレッド・グラン・ノワール。五歳。
彼は、母親譲りの(伊達)眼鏡をクイと押し上げ、父親を見上げていた。
「……アル。五歳児の小遣いに、労基法は適用されないぞ」
アイザック様が苦笑しながら、息子の頭を撫でようとする。
しかし、アルはサッとそれを避けた。
「感情論での懐柔工作は無効です。僕は数字の話をしています」
アルは踏み台に乗って、ホワイトボードに書き込みを始めた。
「僕が毎日行っている『靴磨き』、『肩叩き』、そして『ママの機嫌取り』。これらの労働対価を市場価格で換算すると、月額金貨一枚が妥当です。しかし、現在の支給額は銀貨五枚。……搾取ですね」
「……誰に似たんだ、お前は」
アイザック様が天を仰ぐ。
「ママです」
アルが即答する。
そこへ、ガチャリと扉が開いた。
「呼んだかしら? 私の小さな交渉人さん」
私が入室すると、アルの表情が一瞬で崩れた。
「ママ! 見て、パパがケチるんだ!」
アルが私の足元に抱きつく。
「あらあら。……アイザック様、交渉決裂ですか?」
「カルル……助けてくれ。こいつ、先月から『成果報酬型』にしろとうるさくて」
アイザック様が降参のポーズをする。
私はアルを抱き上げ、その頬をつついた。
「アル。交渉の基本を忘れていますよ」
「え?」
「要求を通したいなら、相手にメリット(利益)を提示しなさい。『ママの機嫌取り』はパパにとっても利益ですが、それだけでは弱いです」
私はニヤリと笑った。
「例えば、『パパが隠しているおやつの場所をママに言わない代わりに、口止め料を上乗せして』とか」
「……ッ!?」
アイザック様が飛び上がった。
「か、カルル! それは……!」
「なるほど! さすがママだ! リスクマネジメントだね!」
アルが目を輝かせる。
「パパ! 交渉再開だ! おやつ情報の秘匿契約、月額金貨二枚でどう?」
「……払います。言い値で払います」
アイザック様がガックリと項垂れた。
私はクスクスと笑った。
この五年、毎日がこんな調子だ。
騒がしくて、計算高くて、でも温かい。
***
その日の夜。
アルを寝かしつけた後、私たちはバルコニーで月を見ていた。
「……あーあ。アルのやつ、完全に君のコピーだな」
アイザック様がワイングラスを揺らしながら呟く。
「将来が楽しみでしょう? 五歳で複式簿記を理解していますから」
「末恐ろしいよ。……だが、俺の『氷』の要素はどこへ行ったんだ?」
「溶けましたね。この家の熱量が高すぎて」
私が答えると、彼は優しく笑って私の肩を抱いた。
「……幸せか? カルル」
不意に投げかけられた問い。
私は少し考えて、手元の帳簿(これは人生の決算書だ)を閉じた。
「そうですね。……計算してみました」
「ほう。結果は?」
「かつて、私は『悪役令嬢』として婚約破棄され、実家を勘当され、マイナスからのスタートでした」
私は夜空の星を見上げた。
「ですが、貴方に出会い、アルが生まれ、領地が豊かになり……現在の資産価値は、測定不能(エラー)です」
「エラーか」
「はい。桁が多すぎて、私の電卓では表示しきれません」
私はアイザック様を見つめ、微笑んだ。
「つまり……大黒字です。過去の赤字なんて、どうでもよくなるくらいの」
「……そうか」
アイザック様は私の手を取り、薬指の指輪にキスをした。
「俺もだ。君と出会ってからの人生は、毎日が最高益更新中だ」
「あら。では、株主(私)への還元をお願いしないといけませんね」
「ああ。一生かけて、愛という配当を払い続けよう」
「……キザですね」
「君限定だ」
私たちは月明かりの下、静かに口づけを交わした。
風が、領地のブドウ畑の香りを運んでくる。
遠くから、夜会の音楽ではなく、領民たちの穏やかな笑い声が聞こえる。
私の物語。
「悪役令嬢」から始まった、波乱万丈の転職人生。
請求書を武器に戦い、効率化で愛を育み、そして手に入れたこの場所。
これ以上の「ハッピーエンド」は、どこを探しても見つからないだろう。
「……さて、アイザック様」
「ん?」
「明日の予定ですが、アルが『遊園地を作りたいから、土地の視察に行こう』と言っていました」
「……あいつ、本気か?」
「本気です。設計図も書いていました。……投資しますか?」
アイザック様は、やれやれと肩をすくめ、そして世界で一番楽しそうな顔で笑った。
「乗った。グラン・ノワール家の事業拡大だ。……君も手伝ってくれるな? 最高のパートナー」
「ええ、もちろん。見積もりは高くなりますよ?」
「望むところだ」
私たちはグラスを合わせた。
カチン、と澄んだ音が、夜空に響き渡った。
私の計算機は、これからも止まることはない。
だって、私たちの未来には、まだ数えきれないほどの「幸せ」が待っているのだから。
グラン・ノワール公爵領は、大陸一の経済特区として発展を遂げていた。
領内には「グラン・ネイチャー」の直営店が立ち並び、観光客が絶えない。
かつて「氷の公爵」と恐れられた領主と、その「守銭奴」と噂された夫人は、今や領民たちから「繁栄の神」として崇められていた。
そして、公爵邸の執務室では――。
「……パパ。このお小遣いの額は、労働基準法に違反していると思われます」
執務机の前で、銀髪の少年が書類を突きつけていた。
アルフレッド・グラン・ノワール。五歳。
彼は、母親譲りの(伊達)眼鏡をクイと押し上げ、父親を見上げていた。
「……アル。五歳児の小遣いに、労基法は適用されないぞ」
アイザック様が苦笑しながら、息子の頭を撫でようとする。
しかし、アルはサッとそれを避けた。
「感情論での懐柔工作は無効です。僕は数字の話をしています」
アルは踏み台に乗って、ホワイトボードに書き込みを始めた。
「僕が毎日行っている『靴磨き』、『肩叩き』、そして『ママの機嫌取り』。これらの労働対価を市場価格で換算すると、月額金貨一枚が妥当です。しかし、現在の支給額は銀貨五枚。……搾取ですね」
「……誰に似たんだ、お前は」
アイザック様が天を仰ぐ。
「ママです」
アルが即答する。
そこへ、ガチャリと扉が開いた。
「呼んだかしら? 私の小さな交渉人さん」
私が入室すると、アルの表情が一瞬で崩れた。
「ママ! 見て、パパがケチるんだ!」
アルが私の足元に抱きつく。
「あらあら。……アイザック様、交渉決裂ですか?」
「カルル……助けてくれ。こいつ、先月から『成果報酬型』にしろとうるさくて」
アイザック様が降参のポーズをする。
私はアルを抱き上げ、その頬をつついた。
「アル。交渉の基本を忘れていますよ」
「え?」
「要求を通したいなら、相手にメリット(利益)を提示しなさい。『ママの機嫌取り』はパパにとっても利益ですが、それだけでは弱いです」
私はニヤリと笑った。
「例えば、『パパが隠しているおやつの場所をママに言わない代わりに、口止め料を上乗せして』とか」
「……ッ!?」
アイザック様が飛び上がった。
「か、カルル! それは……!」
「なるほど! さすがママだ! リスクマネジメントだね!」
アルが目を輝かせる。
「パパ! 交渉再開だ! おやつ情報の秘匿契約、月額金貨二枚でどう?」
「……払います。言い値で払います」
アイザック様がガックリと項垂れた。
私はクスクスと笑った。
この五年、毎日がこんな調子だ。
騒がしくて、計算高くて、でも温かい。
***
その日の夜。
アルを寝かしつけた後、私たちはバルコニーで月を見ていた。
「……あーあ。アルのやつ、完全に君のコピーだな」
アイザック様がワイングラスを揺らしながら呟く。
「将来が楽しみでしょう? 五歳で複式簿記を理解していますから」
「末恐ろしいよ。……だが、俺の『氷』の要素はどこへ行ったんだ?」
「溶けましたね。この家の熱量が高すぎて」
私が答えると、彼は優しく笑って私の肩を抱いた。
「……幸せか? カルル」
不意に投げかけられた問い。
私は少し考えて、手元の帳簿(これは人生の決算書だ)を閉じた。
「そうですね。……計算してみました」
「ほう。結果は?」
「かつて、私は『悪役令嬢』として婚約破棄され、実家を勘当され、マイナスからのスタートでした」
私は夜空の星を見上げた。
「ですが、貴方に出会い、アルが生まれ、領地が豊かになり……現在の資産価値は、測定不能(エラー)です」
「エラーか」
「はい。桁が多すぎて、私の電卓では表示しきれません」
私はアイザック様を見つめ、微笑んだ。
「つまり……大黒字です。過去の赤字なんて、どうでもよくなるくらいの」
「……そうか」
アイザック様は私の手を取り、薬指の指輪にキスをした。
「俺もだ。君と出会ってからの人生は、毎日が最高益更新中だ」
「あら。では、株主(私)への還元をお願いしないといけませんね」
「ああ。一生かけて、愛という配当を払い続けよう」
「……キザですね」
「君限定だ」
私たちは月明かりの下、静かに口づけを交わした。
風が、領地のブドウ畑の香りを運んでくる。
遠くから、夜会の音楽ではなく、領民たちの穏やかな笑い声が聞こえる。
私の物語。
「悪役令嬢」から始まった、波乱万丈の転職人生。
請求書を武器に戦い、効率化で愛を育み、そして手に入れたこの場所。
これ以上の「ハッピーエンド」は、どこを探しても見つからないだろう。
「……さて、アイザック様」
「ん?」
「明日の予定ですが、アルが『遊園地を作りたいから、土地の視察に行こう』と言っていました」
「……あいつ、本気か?」
「本気です。設計図も書いていました。……投資しますか?」
アイザック様は、やれやれと肩をすくめ、そして世界で一番楽しそうな顔で笑った。
「乗った。グラン・ノワール家の事業拡大だ。……君も手伝ってくれるな? 最高のパートナー」
「ええ、もちろん。見積もりは高くなりますよ?」
「望むところだ」
私たちはグラスを合わせた。
カチン、と澄んだ音が、夜空に響き渡った。
私の計算機は、これからも止まることはない。
だって、私たちの未来には、まだ数えきれないほどの「幸せ」が待っているのだから。
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