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シャンデリアが放つ暴力的なまでの光の奔流。
着飾った貴族たちが発する香水の強烈な匂い。
そして何より、鼓膜を直接やすりで削られるような、絶え間ない喧騒。
公爵令嬢ルシアン・ヴァイオレットにとって、王城の夜会とは『この世の地獄』を具現化した空間に他ならなかった。
(……帰りたい)
ルシアンは、無表情を鉄壁の如く維持しながら、心の内で何度目かわからない呪詛を吐く。
(今すぐ帰りたい。屋敷の図書室に引き籠もりたい。静寂の中で紅茶を啜りたい。なぜ私は、こんな酸素の薄い場所で、愛想笑いという名の顔面体操をしなければならないの……?)
扇で口元を隠し、壁の花と化すべく気配を消そうと試みる。
だが、運命――というより、この国の第一王子であるアランは、それを許さなかった。
「そこまでだ、ルシアン!」
突然、楽団の演奏が止まる。
ホールの中央で、金髪を派手になでつけたアラン王子が、芝居がかった仕草でルシアンを指差していた。
その隣には、小動物のように震える(ふりをしている)男爵令嬢、ミナの姿がある。
衆人環視の中、ルシアンはゆっくりと扇を閉じた。
(……うるさい)
第一感想はそれだった。
アランの声は無駄によく通る。
無駄に響く。
静寂を愛するルシアンにとっては、騒音公害以外の何物でもない。
しかし、公爵令嬢としての矜持が、彼女に優雅なカーテシーを強いる。
「……何事でございましょうか、殿下」
「とぼけるな! 貴様がこのミナに対し、陰湿な嫌がらせを繰り返していたことは明白だ!」
アランが叫ぶ。
「教科書を破り捨て、ドレスにワインをかけ、階段から突き落とそうとした! これほどの悪行、もはや看過できん!」
周囲からヒソヒソとした囁き声が漏れる。
「あれが『氷の悪役令嬢』か……」
「なんと恐ろしい」
「ミナ様がお可哀想に」
ルシアンは内心で首を傾げた。
(教科書? ドレス? 突き落とす? ……私が? 他人に?)
あり得ない。
なぜなら、ルシアンは他人に興味がないからだ。
嫌がらせをするということは、その相手に執着し、時間を割き、労力を費やすということだ。
そんな面倒なことをするくらいなら、ルシアンは部屋の隅の埃を数えている方がマシだと考える性格である。
だが、弁解は面倒だった。
ここで「やっていません」と言えば、「嘘をつくな」と返され、水掛け論になり、この騒音空間に滞在する時間が長引くだけだ。
ルシアンは沈黙を選んだ。
それを肯定と受け取ったアランが、勝利の笑みを浮かべて高らかに宣言する。
「その沈黙こそが罪を認めた証拠! よって、私アラン・クリフォードとルシアン・ヴァイオレットの婚約を、只今をもって破棄する!」
ホールがどよめいた。
婚約破棄。
それは貴族の令嬢にとって、死刑宣告にも等しい不名誉。
誰もがルシアンが泣き崩れるか、あるいは激昂して暴れるか、どちらかの反応を期待して固唾を飲んだ。
しかし。
ルシアンの瞳に宿ったのは、絶望ではなかった。
(婚約……破棄……?)
彼女の脳内で、その言葉がリフレインする。
婚約破棄ということは、王妃教育がなくなるということだ。
王妃にならなくていいということは、公務で人前に出る必要がなくなるということだ。
そして何より、この騒々しいナルシスト王子と、生涯を共にしなくて済むということだ。
(……奇跡?)
ルシアンの胸中に、かつてないほどの感動が押し寄せた。
暗雲が晴れ、光が差し込み、天使がラッパを吹き鳴らすようなカタルシス。
彼女の鉄壁の無表情が、ほんのわずかに崩れる。
口角が、数ミリだけ上がった。
それは周囲から見れば、あまりにも不敵で、冷酷な笑みに見えたかもしれない。
だが、それは純度一〇〇パーセントの『歓喜』だった。
ルシアンは、今日一番の美しい所作で、深く頭を下げた。
「――謹んで、お受けいたします」
「なっ……!?」
予想外の反応に、アランが言葉を詰まらせる。
「泣いて許しを請うならまだしも、その態度はなんだ! 悔しくないのか!?」
「悔しい? まさか。殿下のご判断は、あまりにも……そう、あまりにも賢明でございます」
ルシアンの声は震えていた。
(笑いを堪えるのに必死で)
「私は殿下の隣に相応しくないと、常々感じておりました。ミナ様のような、その……賑やかで、自己主張の激しい方のほうが、殿下にはお似合いです」
「そ、そうであろう! ふん、ようやく自分の身の程を悟ったか」
アランは鼻を鳴らす。
その横で、ミナが涙目でルシアンに歩み寄ろうとした。
「お、お姉様……ごめんなさい、私……」
「近寄らないでください」
ルシアンが鋭く制止する。
「え?」
「私の半径二メートル以内に侵入しないでください。香水の匂いが混ざります」
「ひどい! やっぱりお姉様は悪役令嬢ですわ!」
「ええ、そうですわね。私は悪役。ですので、どうぞお二人で末永くお幸せに。……では」
ルシアンは会話を強制終了させると、踵を返した。
これ以上、一秒たりともここに留まる理由はない。
「待て! まだ話は終わっていないぞ!」
背後でアランが喚いているが、ルシアンの耳にはもう届かない。
(帰れる! これでもう、明日からお茶会に行かなくていい! 夜会も欠席できる! 自由だ! 私は自由だーーッ!!)
ドレスの裾を翻し、彼女は早足で会場を去った。
その背中は、まるで翼が生えたかのように軽やかだった。
***
ヴァイオレット公爵邸に帰還したルシアンは、その足で父である公爵の執務室へと突撃した。
「お父様! 素晴らしい報告があります!」
「……ルシアンか。騒がしいな、どうした」
書類仕事に追われていた公爵が顔を上げる。
普段は「空気のように静かにしろ」と娘に教育してきた厳格な父だが、今日のルシアンのテンションの高さには眉をひそめた。
「婚約破棄されました!」
「……は?」
「アラン殿下より、婚約破棄を言い渡されました! 正式な宣言です! これで私は王家との縁が切れました!」
「な、なんだと……!? 一体何をやらかしたんだお前は!」
公爵が椅子から立ち上がり、頭を抱える。
「なんという不始末……! これでは我が家の面目は丸潰れだ! お前を王太子の婚約者にするために、どれだけの根回しをしたと思っている!」
「ですがお父様、もう終わったことです。覆水盆に返らず。ご破算です」
ルシアンの声は弾んでいる。
「そこで、ご相談がございます」
「相談だと? 勘当の間違いではないのか?」
「いえ、むしろその方が好都合です。私、ほとぼりが冷めるまで、領地の外れにある『あの別荘』で反省の日々を送りたいと思います」
「……あの別荘?」
公爵が怪訝な顔をする。
「北の森の奥にある、廃墟寸前の古びた屋敷のことか? あそこはもう十年以上誰も使っておらん。管理人も置いていない、ただの幽霊屋敷だぞ」
「そこがいいのです!」
ルシアンは瞳を輝かせた。
「誰もいない。管理人もいない。社交界の喧騒も届かない。まさに楽園……いえ、反省にふさわしい過酷な環境です」
「……お前、ショックで頭がおかしくなったのか?」
「正気です。かつてないほどに」
ルシアンは食い下がる。
「婚約破棄された傷心の娘が、人目を避けて森の奥で静かに暮らす。……世間体としても、素晴らしい筋書きではありませんか? 『娘は深く反省し、謹慎しております』と言えば、王家へのポーズにもなります」
公爵は娘の勢いに圧され、数秒ほど沈黙したのち、大きなため息をついた。
「……好きにしろ。どうせ、今のまま王都にいても針の筵(むしろ)だろう」
「ありがとうございます!」
「ただし、あそこは本当に何もないぞ。使用人も最小限しか送れん」
「使用人など不要です。一人で結構です。むしろ一人がいいです」
「……勝手にしろ」
許可は降りた。
ルシアンは一礼すると、スキップしそうな勢いで自室へと戻っていく。
(やった……! ついに手に入れた、夢の隠居生活!)
荷造りは最小限でいい。
必要なのは、愛読書と、着心地の良い服と、あとは静寂だけ。
(明日出発しましょう。夜明けと共に。誰にも見つからないように)
ルシアンはクローゼットを開け、地味な旅行鞄を取り出した。
その時の彼女はまだ知らなかったのだ。
その「誰もいない静寂の別荘」には、とんでもない先客が住み着いていることを。
そして、その先客こそが、彼女の静寂な生活を脅かす(愛すべき)最大のノイズになることを。
ルシアン・ヴァイオレット、十六歳。
彼女の人生で最も騒がしく、そして甘い「引き籠もり生活」が、今始まろうとしていた。
着飾った貴族たちが発する香水の強烈な匂い。
そして何より、鼓膜を直接やすりで削られるような、絶え間ない喧騒。
公爵令嬢ルシアン・ヴァイオレットにとって、王城の夜会とは『この世の地獄』を具現化した空間に他ならなかった。
(……帰りたい)
ルシアンは、無表情を鉄壁の如く維持しながら、心の内で何度目かわからない呪詛を吐く。
(今すぐ帰りたい。屋敷の図書室に引き籠もりたい。静寂の中で紅茶を啜りたい。なぜ私は、こんな酸素の薄い場所で、愛想笑いという名の顔面体操をしなければならないの……?)
扇で口元を隠し、壁の花と化すべく気配を消そうと試みる。
だが、運命――というより、この国の第一王子であるアランは、それを許さなかった。
「そこまでだ、ルシアン!」
突然、楽団の演奏が止まる。
ホールの中央で、金髪を派手になでつけたアラン王子が、芝居がかった仕草でルシアンを指差していた。
その隣には、小動物のように震える(ふりをしている)男爵令嬢、ミナの姿がある。
衆人環視の中、ルシアンはゆっくりと扇を閉じた。
(……うるさい)
第一感想はそれだった。
アランの声は無駄によく通る。
無駄に響く。
静寂を愛するルシアンにとっては、騒音公害以外の何物でもない。
しかし、公爵令嬢としての矜持が、彼女に優雅なカーテシーを強いる。
「……何事でございましょうか、殿下」
「とぼけるな! 貴様がこのミナに対し、陰湿な嫌がらせを繰り返していたことは明白だ!」
アランが叫ぶ。
「教科書を破り捨て、ドレスにワインをかけ、階段から突き落とそうとした! これほどの悪行、もはや看過できん!」
周囲からヒソヒソとした囁き声が漏れる。
「あれが『氷の悪役令嬢』か……」
「なんと恐ろしい」
「ミナ様がお可哀想に」
ルシアンは内心で首を傾げた。
(教科書? ドレス? 突き落とす? ……私が? 他人に?)
あり得ない。
なぜなら、ルシアンは他人に興味がないからだ。
嫌がらせをするということは、その相手に執着し、時間を割き、労力を費やすということだ。
そんな面倒なことをするくらいなら、ルシアンは部屋の隅の埃を数えている方がマシだと考える性格である。
だが、弁解は面倒だった。
ここで「やっていません」と言えば、「嘘をつくな」と返され、水掛け論になり、この騒音空間に滞在する時間が長引くだけだ。
ルシアンは沈黙を選んだ。
それを肯定と受け取ったアランが、勝利の笑みを浮かべて高らかに宣言する。
「その沈黙こそが罪を認めた証拠! よって、私アラン・クリフォードとルシアン・ヴァイオレットの婚約を、只今をもって破棄する!」
ホールがどよめいた。
婚約破棄。
それは貴族の令嬢にとって、死刑宣告にも等しい不名誉。
誰もがルシアンが泣き崩れるか、あるいは激昂して暴れるか、どちらかの反応を期待して固唾を飲んだ。
しかし。
ルシアンの瞳に宿ったのは、絶望ではなかった。
(婚約……破棄……?)
彼女の脳内で、その言葉がリフレインする。
婚約破棄ということは、王妃教育がなくなるということだ。
王妃にならなくていいということは、公務で人前に出る必要がなくなるということだ。
そして何より、この騒々しいナルシスト王子と、生涯を共にしなくて済むということだ。
(……奇跡?)
ルシアンの胸中に、かつてないほどの感動が押し寄せた。
暗雲が晴れ、光が差し込み、天使がラッパを吹き鳴らすようなカタルシス。
彼女の鉄壁の無表情が、ほんのわずかに崩れる。
口角が、数ミリだけ上がった。
それは周囲から見れば、あまりにも不敵で、冷酷な笑みに見えたかもしれない。
だが、それは純度一〇〇パーセントの『歓喜』だった。
ルシアンは、今日一番の美しい所作で、深く頭を下げた。
「――謹んで、お受けいたします」
「なっ……!?」
予想外の反応に、アランが言葉を詰まらせる。
「泣いて許しを請うならまだしも、その態度はなんだ! 悔しくないのか!?」
「悔しい? まさか。殿下のご判断は、あまりにも……そう、あまりにも賢明でございます」
ルシアンの声は震えていた。
(笑いを堪えるのに必死で)
「私は殿下の隣に相応しくないと、常々感じておりました。ミナ様のような、その……賑やかで、自己主張の激しい方のほうが、殿下にはお似合いです」
「そ、そうであろう! ふん、ようやく自分の身の程を悟ったか」
アランは鼻を鳴らす。
その横で、ミナが涙目でルシアンに歩み寄ろうとした。
「お、お姉様……ごめんなさい、私……」
「近寄らないでください」
ルシアンが鋭く制止する。
「え?」
「私の半径二メートル以内に侵入しないでください。香水の匂いが混ざります」
「ひどい! やっぱりお姉様は悪役令嬢ですわ!」
「ええ、そうですわね。私は悪役。ですので、どうぞお二人で末永くお幸せに。……では」
ルシアンは会話を強制終了させると、踵を返した。
これ以上、一秒たりともここに留まる理由はない。
「待て! まだ話は終わっていないぞ!」
背後でアランが喚いているが、ルシアンの耳にはもう届かない。
(帰れる! これでもう、明日からお茶会に行かなくていい! 夜会も欠席できる! 自由だ! 私は自由だーーッ!!)
ドレスの裾を翻し、彼女は早足で会場を去った。
その背中は、まるで翼が生えたかのように軽やかだった。
***
ヴァイオレット公爵邸に帰還したルシアンは、その足で父である公爵の執務室へと突撃した。
「お父様! 素晴らしい報告があります!」
「……ルシアンか。騒がしいな、どうした」
書類仕事に追われていた公爵が顔を上げる。
普段は「空気のように静かにしろ」と娘に教育してきた厳格な父だが、今日のルシアンのテンションの高さには眉をひそめた。
「婚約破棄されました!」
「……は?」
「アラン殿下より、婚約破棄を言い渡されました! 正式な宣言です! これで私は王家との縁が切れました!」
「な、なんだと……!? 一体何をやらかしたんだお前は!」
公爵が椅子から立ち上がり、頭を抱える。
「なんという不始末……! これでは我が家の面目は丸潰れだ! お前を王太子の婚約者にするために、どれだけの根回しをしたと思っている!」
「ですがお父様、もう終わったことです。覆水盆に返らず。ご破算です」
ルシアンの声は弾んでいる。
「そこで、ご相談がございます」
「相談だと? 勘当の間違いではないのか?」
「いえ、むしろその方が好都合です。私、ほとぼりが冷めるまで、領地の外れにある『あの別荘』で反省の日々を送りたいと思います」
「……あの別荘?」
公爵が怪訝な顔をする。
「北の森の奥にある、廃墟寸前の古びた屋敷のことか? あそこはもう十年以上誰も使っておらん。管理人も置いていない、ただの幽霊屋敷だぞ」
「そこがいいのです!」
ルシアンは瞳を輝かせた。
「誰もいない。管理人もいない。社交界の喧騒も届かない。まさに楽園……いえ、反省にふさわしい過酷な環境です」
「……お前、ショックで頭がおかしくなったのか?」
「正気です。かつてないほどに」
ルシアンは食い下がる。
「婚約破棄された傷心の娘が、人目を避けて森の奥で静かに暮らす。……世間体としても、素晴らしい筋書きではありませんか? 『娘は深く反省し、謹慎しております』と言えば、王家へのポーズにもなります」
公爵は娘の勢いに圧され、数秒ほど沈黙したのち、大きなため息をついた。
「……好きにしろ。どうせ、今のまま王都にいても針の筵(むしろ)だろう」
「ありがとうございます!」
「ただし、あそこは本当に何もないぞ。使用人も最小限しか送れん」
「使用人など不要です。一人で結構です。むしろ一人がいいです」
「……勝手にしろ」
許可は降りた。
ルシアンは一礼すると、スキップしそうな勢いで自室へと戻っていく。
(やった……! ついに手に入れた、夢の隠居生活!)
荷造りは最小限でいい。
必要なのは、愛読書と、着心地の良い服と、あとは静寂だけ。
(明日出発しましょう。夜明けと共に。誰にも見つからないように)
ルシアンはクローゼットを開け、地味な旅行鞄を取り出した。
その時の彼女はまだ知らなかったのだ。
その「誰もいない静寂の別荘」には、とんでもない先客が住み着いていることを。
そして、その先客こそが、彼女の静寂な生活を脅かす(愛すべき)最大のノイズになることを。
ルシアン・ヴァイオレット、十六歳。
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