婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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夜明け前。

世界がまだ薄墨色の静寂に包まれている時間帯。

一台の馬車が、ヴァイオレット公爵邸の裏門からひっそりと滑り出した。

見送りはいない。

なぜなら、ルシアンが誰にも気付かれないよう、忍び足で屋敷を抜け出してきたからだ。

御者台に座るのは、古株の御者であるハンスだけ。

彼は手綱を握りながら、何度もハンカチで目元を拭っていた。

「……ううっ、お嬢様。本当によろしいのですか? こんな、夜逃げのような真似をして……」

馬車の中から、ルシアンの冷静な(しかし内心はウキウキした)声が響く。

「ハンス、言葉を慎みなさい。夜逃げではありません。『戦略的撤退』兼『早期リタイア生活の開始』です」

「ですが、公爵様にも挨拶せずに出立だなんて……。これではまるで、罪人の流刑ではありませんか」

「挨拶などすれば、お父様のことですもの。『やはり護衛をつけよう』だの『侍女を連れて行け』だの、余計なオプションをつけてくるに決まっています」

ルシアンは窓のカーテンを少しだけ開け、遠ざかる王都の街並みを眺めた。

まだ眠っている街。

騒音のない街。

(ああ、なんて美しいのかしら)

彼女は深く息を吸い込んだ。

アラン王子の高笑いも、ミナの猫なで声も、夜会の不協和音も、すべてが過去のものとなりつつある。

「ハンス、馬を急がせて。太陽が昇りきって、人々が活動を始める前に、人里を離れたいのです」

「お嬢様……。そのように急いで王都を離れたいほど、お辛いのですね……」

ハンスは盛大な勘違いをして、鼻をすする音を大きくした。

「アラン殿下にあのような恥をかかされ、社交界の噂になるのが耐えられないのでしょう……? 分かります、分かりますぞ。私がもっと若ければ、殿下に決闘を申し込んでいたものを!」

「……ハンス、お願いですから静かに運転してください。あなたの鼻をすする音が、今の私にとって最大の騒音です」

「申し訳ございませんっ! このハンス、涙と共に音も飲み込みます!」

「……ええ、そうしてください」

ルシアンは窓を閉め、シートに深く身を沈めた。

(さあ、目指すは北の果て。地図にも載っていないような森の奥深く)

彼女が向かうのは、ヴァイオレット家が所有する領地の中でも、最も辺鄙な場所にある『旧別荘』だ。

かつては狩猟用の館として使われていたらしいが、十年以上放置され、今では地元民ですら近寄らない廃墟と化しているという。

(最高じゃない)

ルシアンは口元を緩ませた。

幽霊屋敷? 大歓迎だ。

幽霊は喋らないし、物理的な干渉もしてこない。

人間よりも遥かに良識的なルームメイトになり得るだろう。



馬車は半日ほど走り続け、やがて舗装された街道を外れた。

鬱蒼とした森の中へ続く、獣道のような砂利道を進んでいく。

木々の枝が馬車の屋根を擦り、ガサガサという音を立てる。

鳥の鳴き声すら聞こえない、深い緑の闇。

一般の令嬢ならば恐怖で震え上がるような光景だが、ルシアンにとっては極上の癒やし空間だった。

「お、お嬢様……本当にこの道で合っているのでしょうか? 先ほどから、背筋がゾクゾクするのですが……」

ハンスの声が震えている。

「合っていますよ。お父様の書斎から盗ん……拝借した地図によれば、この一本道の突き当たりです」

「く、熊とか出ませんかね?」

「出たら出たで構いません。熊は言葉を喋りませんから」

「そういう問題ではございません!?」

そんな不毛な会話を交わしているうちに、視界が開けた。

「……あ、ありました。あれですね」

ハンスが馬車を止める。

ルシアンは期待に胸を膨らませ、馬車の扉を開けて飛び降りた。

「到着しましたのね! 私の楽園――」

言葉が途切れる。

目の前にそびえ立っていたのは、想像を絶する『物件』だった。

石造りの二階建て屋敷。

屋根瓦は半分以上剥がれ落ち、壁には巨大な蔦が絡まりつき、窓ガラスは割れ、玄関の扉は斜めに傾いている。

庭は雑草が背丈ほどまで伸び、どこからか「ヒュオオオ……」という風切り音が聞こえてくる。

まさに、絵に描いたようなホラーハウス。

「……ひ、ひぃぃッ!!」

ハンスが短い悲鳴を上げる。

「お、お嬢様! 無理です! これは無理です! 人が住める場所ではありません! 今すぐ引き返しましょう!」

しかし、ルシアンの反応は違った。

彼女は頬を紅潮させ、うっとりとした瞳でその廃墟を見上げていた。

「……素晴らしいわ」

「はい!?」

「見て、ハンス。あの蜘蛛の巣。あれほど見事な幾何学模様、芸術作品だわ。それにあの傾いた扉。誰の侵入も拒むという、強い意志を感じる」

「お嬢様、正気ですか!? あれはただの老朽化です!」

「そして何より……」

ルシアンは両手を広げ、周囲の空気を抱きしめるようにした。

「人の気配が、微塵もない」

「そりゃあそうでしょうよ! こんな化け物屋敷に住む物好きはいません!」

「ここに決めました。いえ、ここが私の終の棲家です」

ルシアンは荷台から自分のトランクを下ろすと、地面にドンと置いた。

「ハンス、あなたは帰りなさい。長い道中、ご苦労様でした」

「お、置いていけるわけがありません! こんな場所に、お嬢様をお一人にするなんて!」

「命令です」

ルシアンの声色が、スッと低くなる。

王城の夜会で見せた、あの『氷の悪役令嬢』のトーンだ。

「私は一人になりたいのです。誰の目も、誰の声も届かない場所で、静かに朽ちていきたいのです(比喩ではなく願望)。……分かってくれますね?」

「お嬢様……」

ハンスは涙ぐみ、そして諦めたように肩を落とした。

「……分かりました。ですが、一ヶ月に一度、物資を届けに来ます。それだけは譲れません」

「……分かりました。ただし、玄関前に置いてすぐに帰ること。インターホン(鐘)は鳴らさないでください。私が驚くので」

「どこまでも頑なですね……。では、どうかご無事で!」

ハンスは後ろ髪を引かれる思いで馬車を回頭させ、逃げるように森の奥へと去っていった。

遠ざかる馬蹄の音が完全に聞こえなくなるまで、ルシアンはその場に立ち尽くしていた。

そして。

完全なる静寂が訪れた。

「…………ふふ」

笑みがこぼれる。

「あはははは! やった! やったわ! 一人よ! 完全なる孤独よ!」

ルシアンは誰もいない荒れ放題の庭で、くるくると回った。

誰に見られる心配もない。

無表情を保つ必要もない。

彼女はトランクを引きずり、傾いた玄関の前までスキップで移動した。

「さあ、まずは現状確認ね。今日からここが、私の城(サンクチュアリ)――」

ギギギ……と不気味な音を立てて、扉を開ける。

中は薄暗く、埃の匂いが充満していた。

床板は腐りかけている場所もあるが、骨組みはしっかりしているようだ。

「掃除しがいがありそうね。……うん?」

ふと、ルシアンは違和感を覚えた。

廊下の奥。

埃が積もっているはずの床に、何かが引きずられたような跡がある。

いや、それだけではない。

階段の手すりが、一部分だけ妙に綺麗だ。

まるで、つい最近、誰かが触れたかのように。

(……動物?)

ルシアンは首を傾げた。

(狸か、狐か。……まあいいわ、彼らとなら共存できる)

彼女は気にせず、まずは寝室を確保しようと二階へ上がろうとした。

その時だ。

二階の窓の外。

割れたガラスの隙間から、何かが動くのが見えた。

鳥ではない。

もっと大きな――人影?

ルシアンは足を止めた。心臓が嫌なリズムで跳ねる。

(まさか、浮浪者? それとも山賊?)

もし人間がいるのなら、楽園計画は白紙撤回だ。

ルシアンは音を立てずに階段を上り、気配のする部屋へと近づいた。

一番奥の部屋。

かつての主寝室だろうか。

ドアは開け放たれている。

ルシアンは壁に背をつけ、そっと中の様子を伺った。

そこには。

「…………」

一人の男がいた。

黒髪に黒い瞳。

長身痩躯で、飾り気のない黒い服を身に纏っている。

彼は窓枠に腰掛け、壊れた屋根の隙間を、金槌と釘を使って黙々と修理していた。

カン、カン、カン。

リズミカルで、しかし必要最小限の音しか立てない、職人のような手付き。

(……誰?)

ルシアンは混乱した。

泥棒にしては堂々としているし、修理をしているという意味がわからない。

何より、彼の纏う空気が異常だった。

彼からもまた、自分と同じ匂い――『他者を拒絶する静寂』が漂っていたのだ。

男がふと、手を止める。

そしてゆっくりと、ルシアンが隠れているドアの方へと顔を向けた。

視線が交差する。

「…………」

「…………」

沈黙。

永遠にも感じる数秒間。

普通なら「誰だ!」と叫ぶ場面だろう。

あるいは女性なら悲鳴を上げる場面だ。

しかし、ルシアンは言葉を発しなかった。声を出せば、静寂が壊れるからだ。

そして男もまた、一言も発しなかった。

彼は無表情のまま、再び金槌を振り上げ、屋根の修理を再開したのだ。

カン、カン、カン。

(……無視、された?)

ルシアンはその場で瞬きをした。

追い出すでもなく、挨拶するでもなく、ただ『そこにいること』を自然現象として受け流されたような感覚。

(この人……私より、コミュニケーション能力が死んでいるのではなくて?)

幽霊屋敷に住み着いていたのは、幽霊よりもタチの悪い、無口すぎる不審者だった。

ルシアンの『完全なるおひとり様ライフ』に、早くも暗雲が立ち込めていた。
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