婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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「……危機だわ」

ルシアンは、手入れされたばかりの庭のベンチに座り、深刻な面持ちで呟いた。

彼女の膝の上には、読みかけの哲学書。

そしてサイドテーブルには、湯気を立てる極上のロイヤルミルクティーと、焼きたてのスコーン(クロテッドクリーム添え)。

これらは全て、例の「隣人」キースによる仕事である。

ここ一週間の生活は、堕落の一途を辿っていた。

朝起きれば顔を洗う水が用意され、食堂に行けば朝食が出てくる。

掃除も洗濯も、気づけば終わっている。

ルシアンがやるべきことといえば、呼吸と読書と、時折キースが運んでくるおやつを咀嚼することだけ。

(……これではいけない。私は『孤高の悪役令嬢』として、一人で生きていくと決めたはず)

誰かに依存するのは危険だ。

その誰かがいなくなった瞬間、自分は何もできない廃人になってしまう。

それに、キースとの距離感が近すぎる。

会話こそ少ないが、彼の存在感は日に日に増している。

(線引きが必要ね。ここは私の城。彼に主導権を握らせてはならないわ)

ルシアンは決意を固め、パタンと本を閉じた。

ちょうどその時、庭の奥からキースが歩いてきた。

片手には斧、もう片方の肩には切り出したばかりの丸太を軽々と担いでいる。

相変わらずのハイスペック肉体労働だ。

「……キースさん」

ルシアンが呼び止めると、彼は足を止め、無言で首を傾げた。

「少し、お話があります。そこに座ってください」

キースは素直に従った。

ドスン、と丸太を地面に置き、ベンチの反対側に腰掛ける。

適度な距離感。

だが、ルシアンは更に居住まいを正した。

「単刀直入に言います。貴方、少し私に構いすぎです」

「…………」

キースは瞬きを一つした。

心外だ、と顔に書いてある。

「……構っていない。……生かしているだけだ」

「それが構いすぎなのです。餌付け、環境整備、警備。これではまるで、過保護な飼い主とペットです」

「……ペットではない」

キースは即答した。

「……姫だ」

「だからその呼び方はやめてください。寒気がします」

ルシアンは咳払いをした。

「そこで、提案があります。私たちがこの森で共存していくための、ルール作りです」

「……ルール?」

「ええ。名付けて『静寂同盟』。どうでしょう?」

キースの瞳が、ほんの少しだけ輝いた気がした。

「……悪くない」

「でしょう? お互い、干渉を嫌う者同士。ここらで不可侵条約を結んでおくべきです」

ルシアンは指を一本立てた。

「第一条。会話は必要最低限に留めること」

キースは頷く。

「……同意する」

「挨拶も不要です。天気の話もいりません。『敵襲』『火事』『夕飯できた』以外の言葉は、原則として慎んでください」

「……了解」

「第二条。……これが最も重要です」

ルシアンはキースの目を真っ直ぐに見つめ、宣言した。

「私の視界に、極力入らないこと」

「…………」

キースが眉をひそめた。

「……なぜだ」

「貴方が視界にいると、気が散るからです。筋肉質すぎて圧迫感がありますし、顔が……その、整いすぎているので、目のやり場に困るのです」

後半は言うつもりはなかったが、口が滑った。

キースはポカンとした後、口元を手で覆った。

耳が赤い。

「……そうか」

「……ええ、そうです。ですから、貴方は私の『空気』になってください。そこにいるけれど、いない。認識できない存在。それが理想です」

ルシアンは無理難題を吹っかけたつもりだった。

同じ敷地内にいて、視界に入らないなど不可能だ。

これで彼が「無理だ」と言えば、妥協案として「一日の滞在時間を制限する」という条件に持ち込む予定だった。

しかし。

キースは静かに頷いた。

「……分かった」

「え?」

「……得意分野だ」

彼はスッと立ち上がった。

「……お前の視界から、消えてやる。……だが、護衛は続ける」

「え、ちょっと……」

言うが早いか、キースの姿がブレた。

シュッ。

風を切る音がしたかと思うと、彼の姿が消えていた。

「……へ?」

ルシアンは目をぱちくりさせた。

庭には誰もいない。

ベンチにも、木の陰にも。

「キースさん?」

返事はない。

ただ、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。

「……本当に消えた?」

ルシアンは立ち上がり、周囲を見回した。

気配がない。

完全に、誰もいない空間だ。

(……すごい。本当に空気になったわ)

これぞ、彼女が求めていた理想の環境だ。

誰もいない。

でも、何かあれば助けてくれる(らしい)存在が、どこかに潜んでいる。

「ふふ……いいわね。これなら読書に集中できるわ」

ルシアンは再びベンチに座り、本を開いた。

静寂。

完璧なる静寂。

ページをめくる音が、心地よく響く。

……はずだった。

五分後。

(……視線を感じる)

ルシアンは顔を上げた。

誰もいない。

だが、確実に何者かに見られている感覚がある。

背筋がゾワゾワするような、熱っぽい視線。

「……キースさん?」

シーン。

「……いるのよね?」

シーン。

(……どこ? どこから見ているの?)

ルシアンはキョロキョロと視線を巡らせる。

屋根の上? いない。

木の上? 見当たらない。

茂みの中? 動く気配はない。

だが、喉が渇いたなと思ってカップに手を伸ばそうとすると、いつの間にかカップの中身が注ぎ足されているのだ。

「ヒッ!?」

ルシアンは悲鳴を上げた。

「い、いつの間に!?」

一瞬、視線を外した隙の出来事だった。

まるで魔法だ。

「で、出てきなさい! 心臓に悪いです!」

ルシアンが叫ぶと、背後の大きな樫の木の裏から、ヌッと黒い影が現れた。

「……呼んだか」

「近い! そして気配を消しすぎです!」

ルシアンは胸を押さえた。

「視界に入らないとは言いましたけど、忍者のように振る舞えとは言っていません!」

「……これが、俺の平常運転だ」

キースは平然と言い放った。

「……『隠密行動』は騎士の必須スキルだ」

「騎士ってそんなにコソコソするものですか!?」

「……敵に悟られず、主を守る。……それが影の務め」

「私は敵ではありません!」

ルシアンは頭を抱えた。

どうやら、この男のスペックを甘く見ていたようだ。

彼は『視界に入らない』という条件を、『完璧な隠密護衛』という形で実行してしまった。

結果、ルシアンは常に「見えない誰かに見守られている」という、ある種のホラー体験(またはストーカー被害)を強いられることになったのだ。

「……条約改正を求めます」

ルシアンは疲れた声で言った。

「第三条を追加します。……適度に、存在をアピールすること」

「……矛盾している」

「私の心が休まらないからです! 完全に消えられると、逆に気になって仕方ありません!」

キースは少し考え込み、やがて不承不承という様子で頷いた。

「……分かった。では、視界の端に映る程度にする」

「ええ、それで結構です。チラチラ見えるくらいが、安心できます」

「……安心?」

キースが反応した。

「……俺がいると、安心するのか?」

「ッ……!」

ルシアンは口ごもった。

誘導尋問に引っかかった気分だ。

「……そ、それは、防犯上の意味で、です。熊とか出たら困りますし」

「……そうか」

キースは口元を緩めた。

明らかに嬉しそうだ。

「……では、契約成立だ」

彼は右手を差し出した。

「……よろしく頼む、同盟者」

ルシアンは躊躇った。

握手。

肌と肌の接触。

それは「おひとり様」の流儀に反するのではないか。

だが、目の前の大きな手は、無骨で、傷だらけで、しかしどこか温かそうだった。

(……まあ、同盟なら仕方ないわね)

ルシアンはおずおずと、自分の小さな手を差し出した。

「……よろしくお願いします、隣人さん」

手が触れ合う。

予想通り、彼の掌は熱く、そして硬かった。

キースは強く握り返すことはせず、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。

「…………」

「…………」

沈黙。

しかし、それは居心地の悪いものではなかった。

「静寂同盟」。

その実態は、「互いに言葉少なに甘やかし合う共依存関係」の始まりであったが、二人がそれに気づくのはまだ先のことだ。

「……さて、祝杯だ」

キースが手を離し、どこからかワインボトルを取り出した。

「まだ昼ですよ?」

「……いいだろう、今日は」

「……そうですね。同盟結成記念日ですし」

二人はテラスで、静かにグラスを傾けた。

会話はない。

だが、ルシアンの心は満たされていた。

孤独を愛する彼女が初めて見つけた、「孤独を共有できる相手」。

(悪くないわ。……本当に)

ルシアンはグラス越しに、少し離れた場所に座るキースの横顔を盗み見た。

彼もまた、視界の端でルシアンを見守っている。

この奇妙で穏やかな均衡が、翌日に訪れる嵐によって吹き飛ばされるとは、この時の二人は知る由もなかった。

嵐は、物理的な意味でも、感情的な意味でも、すぐそこまで迫っていた。
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