婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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ゴロゴロ……。

遠くで低い唸り声が聞こえる。

魔獣の咆哮ではない。雷鳴だ。

午後から垂れ込めていた重い雨雲が、ついに決壊しようとしていた。

「……素晴らしいわ」

ルシアンは窓の外を見上げ、うっとりと呟いた。

別荘生活、十日目。

今日は朝から気圧が低く、森全体が湿った空気に包まれている。

普通なら憂鬱になる天気だが、ルシアンにとっては『天恵』だった。

なぜなら、激しい雨音は、世の中のあらゆる雑音をかき消してくれる『天然の遮音カーテン』だからだ。

ザーーーッ!!

期待通り、バケツをひっくり返したような豪雨が降り始めた。

屋根を叩く雨粒の音が、心地よいホワイトノイズとなって室内に響く。

「ふふ……いい音。これなら、隣室で誰かが喋っていても聞こえないわね」

ルシアンはソファに深く沈み込み、膝掛けを引き上げた。

薄暗い部屋。

雨の音。

そして、読書灯の暖かな光。

完璧だ。これぞ『おひとり様』の醍醐味。

(キースさんはどうしているかしら)

ふと、同盟相手のことが脳裏をよぎる。

彼は夕方、「……雨戸を補強してくる」と言って外へ出たきりだ。

この嵐の中、まだ作業をしているのだろうか。

(まあ、あの人のことだから、どこかの軒下で気配を消して雨宿りでもしているでしょう)

ルシアンは心配するのをやめ、本のページをめくった。

その時だった。

ドガァァァンッ!!

近くで落雷があった。

同時に、フッ、と室内のランプが消えた。

停電だ。いや、ランプの魔石回路が雷の影響でショートしたのかもしれない。

完全なる闇が訪れた。

ピカッ!

直後、稲妻が走り、部屋の中を一瞬だけ青白く照らし出す。

ゴロゴロゴロ……バリバリッ!

地響きのような雷鳴。

普通の令嬢なら、「キャッ!」と悲鳴を上げて布団に潜り込む場面だ。

しかし、ルシアンはガッツポーズをした。

(よっしゃあ!)

心の中での喝采。

(闇! そして轟音! 誰も私を見つけられないし、誰も私の声を聞けない! これぞ究極のプライベート空間!)

彼女は立ち上がり、暗闇の中でくるくると踊った。

誰も見ていないのだから、何をしてもいい。

「雨よ降れー! 雷よ響けー! 私は自由だー!」

ルシアンが小声で(雨音にかき消される音量で)叫びながら、ソファの上で跳ねようとした瞬間。

ガシッ。

背後から、強い力で抱きしめられた。

「!?!?」

「……ッ!」

耳元で、荒い息遣いが聞こえる。

温かい――いや、熱い体温。

硬い胸板。

そして、ふわりと香る雨と森の匂い。

「き、キースさん!?」

ルシアンが振り向こうとすると、さらに強く抱きすくめられた。

「……大丈夫だ」

低い声が、頭上から降ってくる。

「……俺がいる」

「は?」

「……怖くない。……耳を塞げ」

キースの大きな手が、ルシアンの両耳を覆った。

彼の体温が直に伝わってくる。

どうやら彼は、ずぶ濡れのまま飛び込んできたらしい。服が冷たく、しかしその下の体は燃えるように熱い。

「ちょ、ちょっと! 離してください! 濡れます!」

「……震えている」

「震えてません!」

「……嘘だ。さっき、踊るように暴れていた」

「それは喜びの舞です!」

「……パニックか」

「違います! 話を聞いて!」

ルシアンは彼の腕の中でじたばたと抵抗した。

だが、キースの力は万力のように強く、びくともしない。

彼は完全に『守護騎士モード』に入っていた。

「雷が怖いのは、恥じゃない。……俺も昔は苦手だった」

「だから怖くないと言っているでしょう!」

「……強がるな」

キースは問答無用で、近くにあった毛布を引っ掴むと、ルシアンごと自分を包み込んだ。

バサッ。

一つの毛布の中に、大人二人が密着状態で閉じ込められる。

暗闇の中の、さらに閉鎖された空間。

「……っ」

近い。

あまりにも近い。

キースの顔が目の前にあり、彼の吐息が頬にかかる。

暗くて表情は見えないが、その瞳が心配そうに潤んでいるのだけは分かった。

「……雷が止むまで、こうしている」

「狭いです! 熱いです! 苦しいです!」

「……我慢しろ。……安心するまで」

「貴方が離れてくれた方が安心します!」

ルシアンが抗議するが、キースは聞く耳を持たない。

彼はルシアンの頭を自分の胸に押し付け、よしよし、と子供をあやすように背中を撫で始めた。

トントン、トントン。

一定のリズム。

(……この人、本当に人の話を聞かないわね)

ルシアンは諦めて、脱力した。

抵抗しても無駄だ。嵐が過ぎ去るか、彼が満足するまで、この拘束は解けないだろう。

それに。

(……意外と、悪くないかも)

不覚にも、そう思ってしまった。

外は激しい雨音と雷鳴。

世界が荒れ狂っている中、この毛布の中だけは、奇妙なほど安全で、温かかった。

キースの心臓の音が、ドクン、ドクンと聞こえる。

(……速い?)

彼の心拍数が、やけに速い気がする。

もしかして、雷が怖いのは彼の方ではないか?

「……キースさん」

「……ん」

「心臓、うるさいですよ」

「……っ」

キースの体がビクリと跳ねた。

「……すまん」

「怖いのなら、私が撫でてあげましょうか?」

ルシアンが皮肉交じりに言うと、彼はしばらく沈黙し、そして小さく呟いた。

「……怖いのは、雷じゃない」

「じゃあ何ですか」

「……お前が」

「私?」

「……柔らかくて、いい匂いがするから、だ」

「…………は?」

ルシアンの思考が停止した。

意味を理解するのに数秒。

そして、顔から火が出るのにさらに一秒。

「なっ、ななな……!」

何を言っているんだこの男は。

無自覚か? それとも天然のタラシなのか?

「……忘れてくれ」

キースがそっぽを向く気配がした。

「……独り言だ」

「独り言にしては声が大きいです! 心拍数も上がっています!」

「……黙れ。……静寂同盟だ」

「都合のいい時だけ同盟を持ち出さないでください!」

ルシアンは彼の胸をドンと押したが、彼は岩のように動かない。

むしろ、さらに強く抱きしめ返してきた。

「……動くな。……理性が、保てなくなる」

「ひっ」

ルシアンは凍りついた。

その声が、いつもの淡々とした調子ではなく、どこか切羽詰まった、男の色気を帯びたものだったからだ。

(……そういえば、この人、男の人だったわ)

今更すぎる事実に気づく。

いつも「便利な家具」か「高性能な番犬」くらいにしか思っていなかったが、彼は体格も良く、顔も良い、成人男性なのだ。

そして今、暗闇の中で、一つの毛布にくるまり、密着している。

(……まずい。これは非常に、教育上よろしくない状況だわ)

ルシアンの心臓も、同調するようにドクンドクンと高鳴り始めた。

雨音はもう聞こえない。

聞こえるのは、二人の心音と、荒い呼吸音だけ。

「……キースさん」

「……喋るな」

「……早く、雷が止むといいですね」

「……そうだな」

キースの声は、肯定しているようでいて、どこか残念そうにも聞こえた。

数十分後。

嵐は嘘のように去っていった。

雲の切れ間から月明かりが差し込み、部屋の中を淡く照らす。

毛布の中の二人は、いつの間にか寄り添ったまま、微睡んでいた。

「……ん」

ルシアンが目を覚ます。

目の前には、キースの寝顔があった。

無防備で、子供のような顔。

長い睫毛が影を落としている。

(……黙っていれば、王子様みたいなんだけどな)

ルシアンはため息をつき、そっと彼から離れようとした。

だが、彼の手が服の裾を掴んで離さない。

「……行くな」

寝言だろうか。

「……一人に、しないでくれ」

その言葉は、ルシアンの胸の奥の、一番柔らかい部分をチクリと刺した。

彼もまた、孤独だったのだろうか。

『沈黙の騎士』として恐れられ、誰とも関わらずに生きてきた彼も。

「……行きませんよ」

ルシアンは諦めて、もう一度彼の胸に頭を預けた。

「今日は、特別です。……嵐のせいにしておきますから」

キースの口元が、夢の中で微かに笑ったように見えた。

翌朝。

二人は筋肉痛(変な体勢で寝たため)と、強烈な気まずさと共に目覚めることになるのだが、それはまた別の話である。
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