婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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嵐の翌朝は、快晴だった。

だが、ルシアンの気分はどんよりとした曇り空だった。

理由は二つある。

一つは、昨晩の「毛布事件」による強烈な気まずさと、変な体勢で寝たことによる首の痛み。

もう一つは、早朝に届いた一通の手紙だ。

「……はぁ」

ルシアンは食卓で、ため息をついた。

目の前には、焼きたてのフレンチトースト(キース作)があるが、フォークが進まない。

向かいの席では、キースがいつも通り無表情でコーヒーを飲んでいるが、彼もまた時折首をコキッと鳴らしている。

「……痛むか」

「ええ、少し。誰かさんが万力のような力で抱きしめて離さなかったせいです」

「……不可抗力だ」

キースは視線を逸らした。

「……それより、その紙切れはなんだ」

彼はテーブルの上に放置された、分厚い封筒を顎でしゃくった。

ヴァイオレット公爵家の家紋が入った、最高級の羊皮紙。

今朝一番で、早馬の使者が置いていったものだ。

「お父様からです。嫌な予感しかしません」

ルシアンはペーパーナイフを手に取った。

「もしかしたら『勘当だ』とか『二度と敷居を跨ぐな』とか、そういう嬉しい知らせかもしれませんけれど」

「……開けろ」

促されて、封を切る。

中から出てきたのは、父の達筆な文字が踊る手紙だった。

ルシアンは読み上げ始めた。

『親愛なる娘、ルシアンへ。

 森での生活はいかがかな。
 先日の週刊誌の記事を読んだぞ。「沈黙の令嬢」としての評判、誠に素晴らしい。
 お前がこれほどまでに計算高い……いや、聡明な娘だとは知らなかった。
 アラン殿下を無言で撃退したという武勇伝は、今や社交界の伝説だ』

「……誤解が加速しています」

ルシアンは頭を抱えた。

「続きを読みます。

 さて、本題だ。
 お前の株が急上昇したおかげで、我が家に釣書(つりがき)が殺到している』

「……釣書?」

キースの眉がピクリと動く。

「……結婚の申し込み書類のことです」

ルシアンの声が震え始めた。

『その中でも、特に条件の良い相手を選んでおいた。
 隣国の富豪、ガルシア伯爵だ。
 彼は「静かな女性が好みだ。飾り物のように座っていてくれればいい」と申しておる。
 お前の希望とも合致するだろう?』

「合致しません!!」

ルシアンはバンッ! と机を叩いた。

「飾り物扱いなんてごめんです! 私は私の意志で静かにしていたいのであって、誰かのコレクションになりたいわけではありません!」

『よって、直ちに帰還せよ。
 来週の夜会で、お見合いの席を設けてある。
 拒否権はない。これは公爵家としての命令であり、お前の将来を案じての慈悲だ。
 もし戻らぬ場合は、強制的に連れ戻す部隊を派遣する。

 父より』

読み終えたルシアンの手から、手紙が滑り落ちた。

「……終わった」

彼女は椅子に崩れ落ちた。

「強制連行……。お父様は本気だわ。あの人は、一度言い出したら絶対に曲げない」

せっかく手に入れた静寂。

キースとの奇妙で穏やかな同盟生活。

それら全てが、一通の手紙によって粉砕されようとしていた。

「……嫌だ」

ルシアンの目から、涙が滲む。

アランに婚約破棄された時は一ミリも泣かなかったのに、この楽園を失うことへの恐怖は、彼女を容易に泣かせた。

「戻りたくない……。あんなうるさい場所へ……。見知らぬ男の飾り物になるなんて……」

「…………」

ガシャッ。

音がして、ルシアンは顔を上げた。

キースが、手に持っていたコーヒーカップを握りつぶしていた。

陶器の破片が散らばり、黒い液体がテーブルに広がる。

しかし、彼は熱さなど感じていないようだった。

「……キ、キースさん?」

「……ガルシア伯爵」

地獄の底から響くような声だった。

「……知っている。好色な豚だ。……すでに三人の妻を過労で亡くしている」

「えっ……」

「……飾り物にするんじゃない。……籠の鳥にして、精神を壊すのが趣味の男だ」

キースの瞳に、明確な殺意が宿っていた。

普段の静けさは消え失せ、嵐のような激情が渦巻いている。

「……行くな」

彼は立ち上がり、ルシアンの肩を掴んだ。

「……絶対に行かせない」

「で、でも……お父様は兵を送ると言っています。ここが見つかっている以上、逃げ場はありません」

ルシアンは絶望に首を振った。

「私は公爵令嬢です。家の方針には逆らえない……。貴方に迷惑をかけるわけにもいきません」

「……迷惑?」

キースが鼻で笑った。

「……俺を誰だと思っている」

「え? えっと、無口な隣人さん……あるいは、ストーカー気質の庭師?」

「……違う」

キースはルシアンの涙を、親指で乱暴に、しかし優しく拭った。

「……同盟者だ」

「…………」

「……お前の静寂を乱す者は、たとえ国王だろうと、実の父親だろうと、俺が排除する」

「排除って、貴方……戦争でも起こす気ですか?」

キースは答えなかった。

ただ、燃えるような瞳でルシアンを見つめ、低い声で囁いた。

「……待っていろ。……すぐに片付ける」

「え?」

「……今日はもう寝ろ。……泣き腫らした顔は、ブサイクだ」

「余計なお世話です!」

いつもの軽口。

しかし、キースはそれ以上語らなかった。

彼はルシアンを半ば強引に二階の寝室へ押し込み、「休め」と短く命じて扉を閉めた。

ルシアンは疲労と絶望で、言われるがままベッドに横になった。

(どうすればいいの……。逃げる? でもどこへ?)

思考がまとまらない。

窓の外では、また風が吹き始めていた。

いつの間にか、ルシアンは浅い眠りに落ちていた。

***

翌朝。

ルシアンが目覚めると、屋敷の中は奇妙なほど静かだった。

「……キースさん?」

呼びかけても、返事はない。

いつもなら聞こえるはずの、朝食を作る音も、薪を割る音もしない。

「まさか……」

ルシアンは一階へ駆け下りた。

リビングには誰もいなかった。

キッチンも、庭も、屋根の上も。

彼の姿はどこにもなかった。

「嘘……」

ルシアンは立ち尽くした。

昨日の今日で、私を見捨てて出て行ったの?

面倒になって逃げた?

(……ううん、違う。あの人はそんな人じゃない)

ふと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれているのに気づいた。

ルシアンは震える手でそれを手に取る。

そこには、彼の無骨な文字で、たった一行だけ書かれていた。

『ゴミ処理に行ってくる。すぐに戻る』

「…………は?」

ゴミ処理?

この森にゴミ収集車など来ない。

だとすれば、彼が言う『ゴミ』とは――。

「まさか……」

ルシアンの顔から血の気が引いた。

『お前の静寂を乱す者は、俺が排除する』

昨日の言葉が蘇る。

ゴミ=ガルシア伯爵? あるいは、お父様?

「……馬鹿な人!」

ルシアンは紙切れを握りしめた。

彼は一人で、公爵家と、そして伯爵家という巨大な権力に喧嘩を売りに行ったのだ。

たった一人で。

ただの「隣人」として。

「……どうしよう」

ルシアンの胸に、かつてない焦燥感が広がる。

自分のために、誰かが傷つくかもしれない。

あの無口で不器用な彼が、私のために罪を犯すかもしれない。

(……黙って見ていろってこと?)

静かに待っていれば、彼は全てを片付けて戻ってくるだろう。

そしてまた、平和な二人きりの生活が始まる。

それが一番楽だ。

それが一番『静寂』に近い。

だが。

「……じっとなんて、していられないわよ!」

ルシアンは叫んだ。

彼女はクローゼットを開け、一番動きやすい服(キースが作業用に貸してくれたズボン)に着替えた。

「待ってなさい、キース。……私が『止めて』あげるわ」

ルシアンは玄関を飛び出した。

向かうは王都。

悪役令嬢ルシアン・ヴァイオレット。

彼女が初めて、自分の意志で、静寂を捨てて「騒音」の中へと飛び込む時が来たのだ。

愛する(まだ認めていないが)隣人を、救うために。
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