婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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ヒュオオオオオオオッ!!

風が唸る。

景色が流れる。

いや、流れるというレベルではない。溶けている。

ルシアンはキースの腕の中で、必死に目を閉じていた。

「……速すぎます!」

「……舌を噛むぞ」

「乗り心地が悪いです! 馬車より揺れないのは評価しますが、風圧で顔が変形しそうです!」

「……我慢しろ」

キースは王都の屋根を飛び移り、城壁を越え、街道を無視して森の中を直進していた。

人間業ではない。

彼の脚力は、もはや魔獣のそれに近かった。

一歩で数メートル跳躍し、着地の衝撃は膝のバネで完全に殺している。だからルシアンには衝撃が来ない。

だが、速度が異常だ。

「……着いたぞ」

唐突に、風が止んだ。

「へ?」

ルシアンが目を開けると、そこは見慣れた廃屋――いや、愛しき我が家(別荘)の玄関前だった。

「……嘘でしょう?」

ルシアンは呆然とした。

「王都まで、馬車で半日。馬の全力疾走で数時間。……貴方、今、三十分もかかっていませんよ?」

「……近道をした」

「物理法則を無視する近道なんて知りません!」

キースはルシアンを地面に下ろすと、涼しい顔で呼吸ひとつ乱していなかった。

「……風呂、沸かすか?」

「その前に説明を! 貴方、本当に人間ですか!?」

「……元、騎士団長だ」

「騎士団長があんな速度で移動していたら、戦場が混乱します!」

ルシアンは叫んだが、地面に足がついた安心感からか、へなへなと座り込んでしまった。

ドッと疲れが押し寄せてくる。

夜会での緊張、父との対決、伯爵への断罪、そして超高速移動。

今日のカロリー消費量は、彼女の一年分に相当した。

「……終わったわ」

ルシアンは夜空を見上げて呟いた。

「私の『壁の花作戦』……大失敗よ」

「……壁の花?」

キースが首を傾げる。

「そうよ。私は今日、会場の壁と同化して、誰の記憶にも残らずに帰ってくる予定だったの。それなのに……」

ルシアンは両手で顔を覆った。

「あんな大立ち回りを演じて、あまつさえ伯爵のズボンを下ろして(物理)、衆人環視の中で逃亡……。これでもう、社交界の語り草よ。『伝説の悪役令嬢』として、教科書に載るレベルだわ」

「……いいことだ」

「どこがですか!」

ルシアンはキースを睨んだ。

「これで『おひとり様』どころか、指名手配犯よ。お父様は激怒して、今頃軍隊を差し向けているかもしれないわ」

「……来ない」

キースは断言した。

「……なぜ分かるのですか?」

「……公爵は、メンツを大事にする」

キースは玄関の扉を開けながら言った。

「……娘が夜会で男を蹴散らし、謎の男と駆け落ちしたなどと公表すれば、公爵家の恥だ。……当面は『体調不良で療養に戻った』として隠蔽するはずだ」

「……あ」

確かに。

父は世間体を何よりも重んじる。

「伯爵の件も、向こうが先に手を出そうとした。……お前は正当防衛だ。それに、あんな恥ずかしい姿を晒した伯爵の方が、口封じに必死になるだろう」

「……言われてみれば」

ルシアンは少し希望を持った。

「つまり、私はまだ『静寂ライフ』を続けられる?」

「……ああ」

キースはリビングの暖炉に火をつけながら、振り返った。

「……ただし」

「ただし?」

「……もう、王都には行くな」

キースの瞳が、揺らめく炎を映して赤く光った。

「……心臓に悪い」

「……貴方がですか?」

「……お前が他の男に囲まれているのを見るのは、不快だ」

「…………」

ルシアンは口をパクパクさせた。

それは、独占欲というやつではないか。

「……同盟違反では?」

「……特例措置だ」

キースは強引に話を打ち切り、キッチンへ向かった。

「……夜食は、リゾットにする」

「……チーズ多めでお願いします」

ルシアンは降参した。

もういい。

指名手配だろうが、伝説の悪役令嬢だろうが、この温かい部屋と、美味しいご飯と、静かな隣人がいれば、それでいい。

ルシアンは重たいドレスを脱ぎ捨てるべく、自室へと向かった。

「……あ、キースさん」

「……ん」

「ありがとう。……助けに来てくれて」

素直な言葉。

キースの背中が、一瞬だけ固まった。

「……仕事だ」

照れ隠しのぶっきらぼうな返事。

だが、ルシアンには分かっていた。彼がリゾットの鍋をかき混ぜる速度が、いつもより少しだけ軽快になっていることを。

***

翌日。

予想通り、公爵家からの追手は来なかった。

その代わり、新聞が届いた。

ハンスが命がけで(キースの罠を回避して)届けてくれたのだ。

一面トップ。

『悪役令嬢ルシアン、セクハラ伯爵を成敗! 正義の鉄槌(ベルト切断)に称賛の嵐!』

「……はあ?」

ルシアンは記事を二度見した。

『昨夜の夜会にて、好色で知られるガルシア伯爵が、ルシアン嬢に乱暴を働こうとした際、彼女の気高いオーラが奇跡を起こした! 伯爵のベルトが自然に弾け飛び、その醜態が晒されたのだ! これは天罰か、あるいは彼女の魔力か!?』

「……奇跡扱いにされてる」

キースのナイフ投げが、神の御業にすり替わっていた。

『去り際の「謹んでお断り申し上げます」というセリフは、今年の流行語大賞間違いなし! 多くの令嬢たちが「私もあのように毅然と拒絶したい」と涙したという』

「……なんで?」

どうしてこう、自分の行動は全て美談に変換されてしまうのか。

「……良かったな」

キースが新聞を覗き込む。

「……これでガルシアは失脚だ。公爵もお前を政略結婚の駒には使いにくくなる」

「それはそうですけど……」

ルシアンは溜息をついた。

「『壁の花』にはなれなかったわ」

「……花ではない」

キースがボソッと言った。

「……高嶺の花だ。……誰の手も届かない場所で、ひっそりと咲いていればいい」

「……それ、褒めてます?」

「……俺だけが、見ている」

「ッ……!」

不意打ちの殺し文句。

ルシアンは顔を真っ赤にして、持っていた新聞でキースの肩を叩いた。

「……静かにしてください! 朝から重いです!」

「……事実だ」

キースは動じない。

「……それに、壁の花作戦は失敗したが、別の作戦は成功している」

「別の作戦?」

「……『二人きりの引き籠もり生活』維持作戦だ」

キースは満足げに、庭のトマトを収穫しに外へ出て行った。

残されたルシアンは、誰もいない部屋で一人、頭を抱えた。

「……完全に、外堀が埋まっている気がする」

婚約破棄から二週間。

ルシアンの『孤独』は、もはや『二人だけの世界』へと変貌を遂げていた。

だが、平和は長くは続かない。

次なる騒音は、アラン王子でも公爵でもない。

アラン王子が「ルシアンを諦めた」という情報を聞きつけた、『復縁』を目論むあの男の再来だった。

そう、アランだ。

彼が懲りずにまた来るのだ。

「……ん? なんか悪寒が」

ルシアンは背筋を震わせた。

この予感は外れない。

静寂同盟の敵は、しぶといのだった。
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