婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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それは、嵐の前の静けさ――ではなく、嵐の後の『燃え尽き症候群』のような朝だった。

夜会での大捕り物から二日後。

ルシアンはテラスで、死んだ魚のような目で空を見上げていた。

「……平和だわ」

鳥のさえずりさえ、今の彼女には少しうるさい。

それほどまでに、先日の王都遠征は彼女の精神力を削り取っていた。

(もう動きたくない。一生、このロッキングチェアと融合していたい)

隣では、キースがいつものように無言でナイフを研いでいる。

シュッ、シュッ。

規則的なその音だけが、ルシアンの心を癒やす鎮静剤だった。

「……キースさん」

「……ん」

「研ぐのはいいですけど、何を切るつもりですか? 食材ですか、それとも新たな刺客ですか?」

「……両方に対応できる準備だ」

「頼もしいですけど、物騒ですね」

そんな緩やかな会話を交わしていた、その時だった。

ガサガサッ!!

庭の植え込みが激しく揺れた。

キースの手が止まる。

ルシアンも身を起こした。

(熊? それとも野犬?)

茂みから飛び出してきたのは、そのどちらでもなかった。

「はぁ……はぁ……水……水をくれ……」

ボロボロの服を着て、目の下に濃い隈(くま)を作り、頬がこけた男。

髪はボサボサで、かつての輝きは見る影もない。

「……ゾンビ?」

ルシアンが呟くと、男はギョッとして顔を上げた。

「誰がゾンビだ!! 私だ、アランだ!!」

「えっ」

ルシアンは二度見、三度見した。

よく見れば、その薄汚れた服は王族仕様の最高級シルク(泥まみれ)。

そして、その無駄に通る声量。

間違いない。元婚約者のアラン第一王子だ。

「……殿下? どうされたのですか、そのお姿は。山賊にでも襲われました?」

「山賊の方がマシだ!!」

アランはテラスの柵を乗り越え、倒れ込むようにルシアンの足元にすがった。

「助けてくれルシアン! 匿ってくれ! あいつから……あいつから逃げてきたんだ!」

「あいつ?」

「ミナだ!!」

アランが絶叫した。

「あいつは化け物だ! 四六時中喋り続けている! 寝ている時でさえ『アラン様ぁ』と寝言を言う! 朝は『愛の詩』の朗読で起こされ、昼は『お揃いの服』を着せられ、夜は『今日の反省会』だ!」

「……楽しそうで何よりです」

「地獄だ!!」

アランは頭を抱えて震え出した。

「私の周りには常にピンク色の何かが漂っている! 香水の匂いで鼻が麻痺した! そして何より……静寂がない! 一秒たりとも静かな時間がないんだ!」

彼は血走った目でルシアンを見上げた。

「そこで、私は思い出したのだ。……君のことを」

「はい?」

「ルシアン、君は素晴らしかった!」

アランが立ち上がり、両手を広げる。

「君は喋らなかった! 私の隣で、常に無表情で、地蔵のように黙っていた! あれこそが『美徳』だったのだ! 君の沈黙は、金(ゴールド)よりも価値のあるダイヤモンドだった!」

「……褒められている気がしませんわね」

ルシアンは冷めた紅茶を啜った。

「要するに、新しいおもちゃが騒がしすぎて壊れたから、古いおもちゃ(静かな方)に戻りたいと?」

「言い方が悪いな! 『真実の愛に気づいた』と言ってくれ!」

アランはニカッと笑った。歯に海苔がついているように見えるほど、その笑顔は薄汚れていた。

「ルシアン、復縁してやろう! 君を正妃に戻す! 感謝しろ!」

「……」

「どうした? 嬉しすぎて声が出ないか? ああ、その沈黙だ! その『反応のなさ』が、今の私には心地いい!」

アランがルシアンの手を取ろうと踏み出した。

ヒュッ。

銀色の閃光が走った。

「ひぃっ!?」

アランの鼻先数センチを、キースのナイフが掠めた。

ナイフはそのままテラスの柱に深々と突き刺さる。

「……次はない」

キースが低い声で告げた。

彼はいつの間にかルシアンの前に立ち、アランを見下ろしていた。

その瞳は、ゴミを見る目そのものだった。

「な、なんだ貴様は! 使用人の分際で王子に刃を向けるとは!」

「……俺は、この屋敷の『防音壁』だ」

「は?」

「……騒音は、通さない」

キースは指の関節をボキボキと鳴らした。

「……帰れ。それとも、二度と喋れないように喉を潰すか?」

「ひ、ひえぇ……!」

アランは腰を抜かしたが、それでも諦めきれないらしく、キースの足の間からルシアンに訴えかけた。

「ル、ルシアン! 聞いてくれ! ミナは本当にやばいんだ! 昨日なんて『アラン様の爪の垢を煎じて飲みたいから爪を切ってください』と言って、ハサミを持って追いかけてきたんだぞ!?」

「それは……確かにホラーですね」

ルシアンは少しだけ同情した。

「ですが、殿下。それは貴方が選んだ道です。ご自身でおっしゃったではありませんか。『賑やかな方がお似合いだ』と」

「撤回する! 前言撤回だ! 私は静かな女がいい! 君のように、何を考えているか分からなくて、薄気味悪いくらい大人しい女がいいんだ!」

「失礼極まりないですね」

ルシアンは立ち上がった。

「お帰りください。私と貴方では、生きる世界が違います」

「な、なぜだ! 私は王子だぞ! 金も権力もある!」

「貴方には、決定的に欠けているものがあります」

ルシアンは自分の耳を指差した。

「『デシベルへの配慮』です」

「デシベル?」

「貴方の声は大きすぎます。存在そのものが騒音です。貴方が近くにいるだけで、私の鼓膜は悲鳴を上げ、脳細胞がストレスで死滅していきます」

「そ、そんな……」

「対して、こちらの彼は」

ルシアンはキースの背中に手を置いた。

「一日中一緒にいても、風の音より静かです。呼吸音すら聞こえません。……比較になりませんわ」

「こ、こんな根暗な男のどこがいいんだ!」

「静かさです(即答)」

ルシアンはアランを冷たく見下ろした。

「それに、私、気づいてしまったのです。……私は『おひとり様』が好きなのではなく、『静かな人との二人きり』が好きなのだと」

「……ッ!」

キースの背中がビクリと震えた。

耳が真っ赤になっているのが、後ろからでも分かった。

「……というわけで、復縁はお断りです。二度と来ないでください。……鼓膜が破れますので」

ルシアンが言い切った、その時。

森の奥から、地響きのような音が聞こえてきた。

ズシン、ズシン、ズシン。

そして、あの甲高い声が響き渡った。

「アラン様ぁぁぁぁぁ~~~!! どこですのぉぉぉぉ~~~!!」

「!!」

アランの顔色が、土気色から死神色へと変わった。

「き、来た……! 嗅ぎつけられた……! あいつ、私のフェロモンを追跡できる能力があるんだ!」

「警察犬並みですね」

「ルシアン! 隠してくれ! 地下室でも屋根裏でもいい! 頼む!」

アランが這いつくばって懇願する。

だが、キースが無慈悲に指差した。

「……あっちだ」

「え?」

キースが指差したのは、森の入り口。

そこには、ピンク色のドレスを泥だらけにし、髪を振り乱し、両手に捕獲網を持ったミナが仁王立ちしていた。

「みーつけたぁぁぁぁ♡」

ミナの目が怪しく光った。

「あ、あ、ああ……」

アランが絶望の声を漏らす。

「かくれんぼは終わりですわ、アラン様! さあ、お城に帰りましょうねぇ! 今日は二人で、愛のデュエットを五時間歌う約束でしょう?」

「いやだぁぁぁ! 助けてくれぇぇぇ!」

アランが逃げようとするが、ミナの投網(いつの間に習得したのか)が正確に彼を捉えた。

バサッ!

「捕獲完了ですわ♡」

「放せ! 誰か! 人権団体の介入を求む!」

網の中でもがく王子を引きずりながら、ミナはルシアンに向かって満面の笑みで手を振った。

「お姉様! アラン様を見つけてくださってありがとうございます! お礼に今度、私のリサイタルにご招待しますわね!」

「結構です! 永久に欠席します!」

ルシアンが叫ぶと、ミナは「うふふ」と笑いながら、ズルズルとアランを森の奥へと引きずっていった。

「ルシアァァァン……!! 見捨てないでくれぇぇぇ……!!」

アランの断末魔が、こだまとなって消えていく。

シーン。

再び、森に静寂が戻った。

「……嵐のような人たちだったわね」

ルシアンは疲労困憊で椅子に座り込んだ。

「……よく言った」

キースがポツリと言った。

「え?」

「……『静かな人との二人きり』が好き、と」

キースは背を向けたまま、柱に刺さったナイフを引き抜いた。

「……あれは、本心か?」

「…………」

ルシアンの顔がカッと熱くなった。

勢いで言ってしまったが、あれは事実上の告白に近かったのではないか。

「そ、それは……アラン殿下を追い払うための方便で……」

「……俺は、本気にした」

キースが振り返る。

その顔には、今まで見たこともないような、優しく、そして少し悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「……責任、取ってもらうぞ」

「せ、責任って……」

「……一生、俺の『静寂』に付き合ってもらう」

「なっ……!」

それはプロポーズなのか。

それとも、新たな脅迫なのか。

ルシアンが反論しようと口を開きかけた時、キースが人差し指を彼女の唇に当てた。

「……しっ」

「……んぐっ」

「……今は、静寂を楽しもう」

キースの指の熱さが、唇に残る。

ルシアンは真っ赤な顔で頷くことしかできなかった。

騒がしい元婚約者の襲来は、皮肉にも二人の絆を(そしてキースの独占欲を)より強固なものにしてしまったようだ。

だが、これで終わりではない。

アラン撃退の報は、すぐに王都に知れ渡る。

そして次に動くのは、今まで静観していた『ラスボス』的な存在――そう、あの噂の出所を探る、王国の『諜報機関』の手先かもしれない。

キースの正体がバレる危機は、すぐそこまで迫っていた。
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