婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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『賢者マーリンの魔除け札』と『キース特製・濃霧結界』。

この二重の防壁により、ヴァイオレット公爵令嬢の別荘は、一時的な平和を取り戻したかに見えた。

だが、人類の歴史が証明している通り、最も強固な壁を破るのは兵器ではない。

『熱狂』だ。

ある晴れた(はずの)朝。

ルシアンは、地響きのような『声』で目を覚ました。

「聖女様ァァァ!! お姿をォォォ!!」

「沈黙をォォォ!! 我らに至高の沈黙をォォォ!!」

「ありがたやァァァ!! この霧もまた、聖女様の吐息なりィィィ!!」

ドンドコドンドコドンドコ!!

太鼓の音。

鐘の音。

そして、数百、いや数千の人々による合唱。

「……」

ルシアンはベッドの上で、無言で天井を見つめた。

時間は午前五時。

低血圧の彼女にとって、最も静寂が必要な時間帯である。

(……聞こえる。霧の向こうから、明確に聞こえる)

どうやら、巡礼者たちは霧を「聖なる試練」と解釈し、逆にテンションを上げてしまったらしい。

しかも、どこかの商魂たくましい業者が「聖女様の声を届ける拡声魔道具」なるものを持ち込み、現場の熱気を実況中継しているようだ。

『さあ、今、霧が動きました! 聖女様のお目覚めでしょうか!? 皆さん、もっと大きな声で祈りましょう! 届け、この想い!!』

「ワァァァァァァァッ!!!」

プチッ。

ルシアンの脳内で、何かが切れる音がした。

血管か、理性か、あるいはその両方か。

彼女は布団を跳ね除け、ゆらりと立ち上がった。

その背後には、修羅のようなオーラが立ち昇っている。

部屋の隅で待機していたキースが、ビクリと震えた。

「……ルシアン?」

「……キースさん」

ルシアンの声は、絶対零度よりも冷たかった。

「……おはようございます」

「……ああ。……うるさいな、外」

「ええ。とても賑やかで、素晴らしい朝ですこと」

ルシアンは笑顔だった。

ただし、目は笑っていない。瞳孔が開いている。

彼女はナイトガウンの上に、適当な上着を羽織ると、スタスタと部屋を出て行った。

「……おい、どこへ行く」

キースが慌てて追いかける。

「……散歩です」

「……外は危険だ。……狂信者どもがいる」

「ええ、知っています。だからこそ、挨拶に行かねばなりません」

ルシアンは玄関の扉に手をかけた。

「ルシアン、待て。……俺が追い払う。……実力行使で」

「いいえ」

ルシアンは首を横に振った。

「貴方の手は汚させません。それに、言葉が通じない相手には、言葉で分からせるしかありません」

「……矛盾しているぞ」

「いいえ。……『黙れ』という言葉だけは、世界共通ですから」

ガチャリ。

ルシアンは扉を開け放った。



霧の中。

屋敷の前には、見えない結界を前に立ち往生する群衆が溢れかえっていた。

先頭に立つのは、「聖女ルシアン教団・臨時代表」を名乗る怪しい男だ。

彼は拡声器を片手に、群衆を煽っていた。

「祈れ! もっと叫べ! 静寂の聖女様は、我々の情熱を試しておられるのだ!」

「静寂をくれェェェ!!(絶叫)」

カオスだった。

矛盾の極みだった。

その時。

ザッ……。

濃霧が、まるでモーゼの海割れのように、左右に分かれた。

「おっ? おおっ!?」

群衆がどよめく。

霧の奥から、一人の女性が姿を現した。

寝起きでボサボサの髪。

適当に羽織った上着。

そして、手にはなぜか『布団叩き』が握られている。

しかし、その全身から放たれる威圧感は、魔王のそれだった。

「せ、聖女様だァァァ!!」

代表の男が叫んだ。

「見ろ! あのお姿を! 寝起きという無防備な姿で、我々を迎えてくださったぞ!」

「ありがたやァァァ!!」

人々が押し寄せようとする。

ルシアンは、一歩も動かなかった。

ただ、ゆっくりと息を吸い込み、そして――。

カッ!!

目を見開いた。

「五月蝿い」

声量は、決して大きくなかった。

しかし、その声は拡声器の音量を遥かに凌駕し、人々の鼓膜ではなく、脳幹に直接響いた。

ピタリ。

群衆の動きが止まる。

太鼓の手が止まる。

鳥さえも落ちるような、強制的な停止。

ルシアンは布団叩きを指揮棒のように振り上げ、群衆を指し示した。

「貴方たち、今、何時だと思っているのですか」

「え、あ、ご、五時半で……」

代表の男が震える声で答える。

「そうです。五時半です。早朝です。常識ある人間が、睡眠を貪っている神聖な時間です」

ルシアンは一歩、前に踏み出した。

それだけで、最前列の屈強な男たちが「ヒッ」と後ずさる。

「百歩譲って、祈るのは勝手です。私の名前を勝手に使うのも、まあ、著作権の概念がないこの国では許しましょう」

彼女の瞳が、爬虫類のように冷たく細められる。

「ですが」

ドンッ!

ルシアンは布団叩きで地面を叩いた。

ただの土なのに、岩が砕けるような音がした(気がした)。

「私の半径五百メートル以内で、呼吸音以上のデシベルを出すことは許しません」

「は、はい……?」

「聞こえませんでしたか? 『黙れ』と言ったのです」

ルシアンの声が、一段低くなる。

「貴方たちのその汚い声が、私の安眠を妨げ、読書の集中力を削ぎ、紅茶の香りを損なうのです。それは万死に値する重罪です」

「し、しかし聖女様! 我々は貴女を崇拝して……!」

「崇拝? 笑わせないでください」

ルシアンは冷笑した。

「貴方たちが求めているのは『静寂』でしょう? ならば、まずは己が口を閉じなさい。それができない人間に、静寂を語る資格はありません」

正論の暴力。

ぐうの音も出ないとはこのことだ。

ルシアンはさらに畳み掛ける。

「いいですか。今後、この森に足を踏み入れる者は、以下のルールを厳守していただきます」

彼女は指を一本立てた。

「一、私語厳禁。筆談のみ許可します」

二本目。

「二、足音厳禁。忍び足、もしくは匍匐(ほふく)前進で移動すること」

三本目。

「三、私の視界に入らないこと。私は人間アレルギーです」

そして最後に、彼女は究極の宣告をした。

「もし、これらを破り、再び私に『うるさい』と感じさせたならば……」

ルシアンは背後のキース(呆然と立ち尽くしている)を親指で指した。

「そこの『黒いのが』が、貴方たちを物理的に『永眠(サイレンス)』させます」

「!?」

キースが「俺かよ」という顔をしたが、すぐに空気を読んで、わざとらしく指の骨をボキボキと鳴らした。

同時に、彼の『影の騎士団』としての本気の殺気を、ほんの少しだけ漏らす。

ゴゴゴゴゴ……。

空気が歪む。

群衆は悟った。

この女は、聖女ではない。

慈愛の女神でもない。

触れてはいけない、この森の『主(ヌシ)』だ。

「……わ、わかりましたァァァ!!」

代表の男が土下座した。

「静かにします! 死ぬほど静かにします! ですから命だけは!」

「……よろしい」

ルシアンは満足げに頷いた。

「では、解散。……静かに、帰りなさい」

彼女が踵を返すと同時に、数千の群衆は、まるで訓練された軍隊のように「音もなく」撤収を開始した。

悲鳴も上げない。

走り去る足音もしない。

恐怖が、彼らを真の『静寂の使徒』へと変えたのだ。



屋敷に戻ったルシアンは、ソファに倒れ込んだ。

「……ふぅ。スッキリした」

「……お前」

キースが恐る恐る声をかける。

「……怖かったぞ」

「あら、そうですか? いつもの貴方を見習っただけですけれど」

「……俺以上だ。……あんな殺気、初めて見た」

キースは本気で引いていた。

「……『聖女』の噂は消えるだろうが、代わりに『魔王』の噂が立つぞ」

「構いません。魔王の方が、人は寄り付きませんから」

ルシアンは紅茶を一口飲み、ふう、と息をついた。

「これでやっと、静かな朝が――」

その時。

窓の外で、小鳥が「チュン!」と鳴いた。

「……チッ」

ルシアンが舌打ちをした。

「……殺気立っているな」

キースが苦笑する。

「……当分、お前には逆らわないことにする」

「賢明な判断です。……さて、二度寝しますので、起こさないでくださいね」

ルシアンは自室へと戻っていった。

その背中は、以前よりも一回り大きく、そして頼もしく見えた。

こうして、「ルシアン、キレる」事件は幕を閉じた。

群衆は去った。

だが、この事件がもたらした効果は、ルシアンの予想を斜め上に裏切ることになる。

人々は恐怖したのではない。

『あの方こそ、言葉の無意味さを説き、恐怖によって我々を導く、真の支配者だ!』

と、信仰の方向性が『M属性』の方へ捻じ曲がってしまったのだ。

結果、屋敷の周りには「音を立てずに供物を置いていく」という、さらに高度で不気味な信者たちが現れるようになるのだが……。

今のルシアンは、ただ温かい布団の中で、束の間の勝利の夢を見ていた。

だが、地上での生活には限界がある。

ルシアンは夢の中で思った。

(……地下だ。地下しかない。地上の音など届かない、完全なる核シェルター級の地下室を作ろう)

その野望が、次なる物語の扉を開く。
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