婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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地下室の『完全無音室』は、今や『静寂の講和会議場』と化していた。

中央の小さな机を挟んで、ルシアンとキースが対峙している。

二人の間には、殺伐とした空気――ではなく、異様な熱気が漂っていた。

ルシアンはスケッチブックをめくり、新しいページに大きく『第1条』と書き込んだ。

彼女の表情は真剣そのものだ。

これはただの婚前契約ではない。彼女の今後の人生における「静寂」の総量が決まる、極めて重要な闘いなのだ。

『第1条:会話の制限について』

ルシアンはペンを走らせる。

『基本、会話は筆談とする。発声による会話は「一日三言」までとする』

彼女はドヤ顔でスケッチブックを突き出した。

三言。

「おはよう」「おやすみ」「いただきます」。これで終わりだ。完璧な静寂ライフ。

キースはボードを見た瞬間、眉間にシワを寄せた。

そして、猛烈な勢いで書き殴った。

『却下』

『少なすぎる』

『愛の囁きが含まれていない』

(……愛の囁き?)

ルシアンがジト目で睨むと、キースは真顔で書き足した。

『最低でも一日百言は必要だ』

『内訳:愛してる(50回)、可愛い(30回)、その他(20回)』

『多いです! 却下!』

ルシアンはスケッチブックを叩いた。

『そんなに言われたら、鼓膜が摩耗します! それに、愛の言葉は量より質です!』

キースは少し考え込み、不服そうに修正案を出した。

『では、十言。ただし、緊急時の「好きだ」はカウントしない』

『……まあ、十言なら妥協しましょう』

ルシアンは渋々頷いた。

第一ラウンド、引き分け。

続いて、最大の争点である『第2条』へ移る。

ルシアンは深呼吸をし、決意を込めて書いた。

『第2条:寝室について』

『寝室は別々とする。互いのプライベート空間(半径10メートル)を侵さないこと』

これだけは譲れない。

睡眠こそ、究極の「おひとり様タイム」だ。

いびき、寝返りの音、体温。それらは全て安眠の妨げになる。

だが、キースの反応は劇的だった。

ガタンッ!

彼は椅子を蹴って立ち上がり、ホワイトボードにマジックの芯が折れるほどの筆圧で書いた。

『断固拒否』

『論外』

『寝室は同室。ベッドも一つ(キングサイズ)とする』

ルシアンも立ち上がった。

『嫌です! 狭いです! 暑いです! 私は大の字で寝たいのです!』

『キングサイズなら大の字になれる』

『そういう問題ではありません! 気配が気になるのです!』

『気配は消す』

キースは自信満々に書いた。

『俺は「隠密」のプロだ。隣にいても、お前は俺の存在に気づかない』

『気づきますよ! 心音が聞こえるって話をしたばかりじゃないですか!』

『心臓も止める』

『死にますよ!?』

『呼吸もしない。体温も下げる。石になる』

『死体と一緒に寝るみたいで怖いです!』

膠着状態(デッドロック)。

二人は睨み合った。

ルシアンは譲歩案を出した。

『では、部屋は同じでもいいですが、ベッドは別々にしましょう』

キースは首を横に振った。

『ダメだ』

『なぜですか』

キースは少し目を伏せ、ペンをゆっくりと動かした。

『……怖いんだ』

『何が?』

『朝起きた時、お前がいなくなっているんじゃないかと』

『……』

『触れていないと、安心できない』

『俺は、分離不安かもしれない』

(……ずるい)

ルシアンは胸がキュンとなった。

「影の英雄」と呼ばれる男が、捨てられた子犬のような目で訴えてくるのだ。

これを拒絶できる女性がいたら、心臓がミスリルでできているに違いない。

ルシアンは長いため息をつき、スケッチブックに書いた。

『わかりました。同室同ベッドで構いません』

キースの顔がパァッと輝いた。

『ただし!』

ルシアンは急いで追記した。

『抱き枕の使用を許可してください。貴方と私の間に、抱き枕(防壁)を置きます』

『……抱き枕の中身は俺ではダメか?』

『ダメです。綿です』

『チッ』

舌打ちが聞こえた気がしたが、キースは『承諾』と書いた。

第二ラウンド、キースの判定勝ち。

そして最後の『第3条』。

ルシアンは、少し迷った末に、以前から気になっていたことを書いた。

『第3条:お触りについて』

『頭を撫でるのは許可しますが、人前での過度なスキンシップは禁止です』

『特に「お姫様抱っこ」での移動は、恥ずかしいのでやめてください』

キースは真剣な顔で図面を描き始めた。

棒人間が二人。

一人がもう一人を抱えている図だ。

『緊急退避の場合は?』

『緊急時のみ許可します』

『「ルシアン分」が不足して、俺が禁断症状を起こした場合は?』

『それは緊急時ではありません。自制してください』

『無理だ』

『頑張ってください』

『では、一日一回、30秒の充電(ハグ)を要求する』

『……10秒で』

『20秒』

『15秒。これ以上は譲りません』

『……交渉成立』

キースは満足げにペンを置いた。

ルシアンもスケッチブックを閉じた。

こうして、『静寂条約』という名の、実質的な『イチャイチャ許容契約』が締結された。

キースはボードを消すと、最後に大きく一言書いた。

『これで、俺たちは共犯だ』

『もう逃がさない』

ルシアンはその文字を見て、苦笑した。

逃げる気など、とっくになかった。

この面倒で、重たくて、でも温かい「静寂」の中に、自ら囚われることを選んだのだから。

『ええ、覚悟の上です』

ルシアンが書くと、キースはボードを放り出し、テーブル越しに身を乗り出して、ルシアンの手を握った。

条約締結の握手。

……にしては、指が絡み合い、熱っぽすぎる握手だった。

「……さて」

キースが口を開いた。

久しぶりの肉声。

低く、優しい声が、無音室に響く。

「……書類は整った。……次は、王への報告だ」

「……そうですね」

ルシアンも、掠れた声で答えた。

「……国王陛下に、私たちの『同盟』を認めさせに行きましょう」

「……ああ。……文句は言わせない」

キースは立ち上がり、ルシアンをエスコートするように手を差し出した。

「……行くぞ、未来の辺境伯夫人」

「……はい、旦那様(仮)」

二人は地下室を出た。

目指すは王宮。

この国の最高権力者が待つ場所へ。

だが、二人はまだ知らない。

国王陛下が、ただの「報告」で済ませるつもりなど毛頭なく、国を挙げた『盛大な結婚式(公開処刑)』を画策していることを。

静かなるカップルの前に、最大の「騒音イベント」が待ち受けていた。
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