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聖女メロディの襲来から数日。
森は、かつてないほどの静寂を取り戻していた。
「魔王が出る」「叫び声を聞くと呪われる」という噂が広まったおかげで、野次馬はおろか、鳥さえも近寄らなくなったからだ。
ルシアンは、地下の『完全無音室』で、喉の保養をしていた。
(……平和だわ)
彼女はソファに深く沈み込み、膝の上のスケッチブックにペンを走らせる。
『喉の調子、だいぶ良くなりました』
向かいに座るキースにそれを見せると、彼は無言で頷き、新しいフリップボード(どこから調達したのか、ホワイトボード仕様)を取り出した。
キュッ、キュッ、キュッ。
マーカーの音が響く。
『無理をするな。あと三日は筆談にしろ』
達筆な文字だ。
ルシアンは小さく笑い、再びスケッチブックに書く。
『貴方も筆談にする必要はないのですよ?』
キースは首を横に振った。
『お前が喋れないのに、俺だけ喋るのは不公平だ』
(……律儀な人)
ルシアンは胸が温かくなった。
この数日、二人の会話は全てこのボードとスケッチブックで行われていた。
音のない会話。
だが、それは言葉を交わすよりもずっと濃密で、そして少しだけ気恥ずかしい時間だった。
その時。
ブオン。
地下室の転送ポット(書類受け渡し用)が作動し、一通の封筒が吐き出された。
封蝋には、王家の紋章。
キースの表情が曇る。
彼は封筒を開け、中身を一読すると、眉間に深い皺を刻んだ。
『なんて書いてありますか?』
ルシアンが書くと、キースはボードに殴り書きした。
『国王からの呼び出しだ。「魔王(俺)と、その使い魔(お前)に会いたい」と』
『使い魔扱い!?』
ルシアンは抗議の文字を書こうとしたが、キースの手がそれを制した。
彼は真剣な眼差しで、しばらく考え込んでいた。
そして、何かを決意したように、一度ボードの文字を全て消した。
(……?)
キースは、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、いつもの無愛想なものではなく、熱を帯びた、吸い込まれそうな漆黒だった。
彼はゆっくりと、丁寧に、文字を書き始めた。
キュッ……キュッ……。
迷いのない筆致。
書き終えると、彼はボードをルシアンに向けた。
そこに書かれていたのは、衝撃の一文だった。
『結婚してくれ』
「…………ッ!?」
ルシアンは音にならない悲鳴を上げ、持っていたペンを取り落とした。
コロコロ……。
ペンの転がる音だけが、無音室に響く。
(え? 今、なんて?)
ルシアンは目を擦った。
幻覚ではない。
黒い太字で、明確に『結婚』と書かれている。
混乱するルシアンをよそに、キースはボードを裏返し、さらに続きを書き始めた。
『お前を、王家の干渉から守るには、これしかない』
『辺境伯夫人の地位があれば、国王も手出しできない』
『アランも、公爵も、二度と近づけない』
(……なるほど、政略的な意味ね)
ルシアンは少し冷静になった。
確かに、今の彼女は「公爵家を勘当されかけた厄介者」だ。
キースの妻になれば、身分も保証され、最強の盾が手に入る。
合理的だ。
とても彼らしい提案だ。
(でも……それだけ?)
ルシアンは少しだけ期待していた自分がいたことに気づき、頬を膨らませた。
彼女はスケッチブックを拾い上げ、震える手で書いた。
『それは、私を守るための「偽装結婚」という提案ですか?』
キースがその文字を見た瞬間、彼の表情が歪んだ。
「偽装」という言葉が気に入らなかったらしい。
彼は猛烈な勢いでボードを消し、新しい文字を叩きつけるように書いた。
『違う』
『偽装ではない』
『俺は、お前が欲しい』
「…………///」
ルシアンの顔が、熟れたトマトのように真っ赤になった。
直球すぎる。
無口な男の筆談は、言葉のフィルターがない分、破壊力が桁違いだ。
キースはさらに書き続ける。
まるで、今まで溜め込んでいた言葉を全て吐き出すように。
『お前の沈黙が好きだ』
『お前の書く小説が好きだ』
『お前が食べる顔が好きだ』
『俺の作った飯を美味そうに食うところを見ると、胸が苦しくなる』
(……最後のは、ただの餌付け成功例では?)
ツッコミを入れたかったが、手が震えて書けない。
キースはボードを一度置き、懐から何かを取り出した。
それは、一枚の図面だった。
建物の見取り図だ。
彼はボードに説明を書いた。
『これは、俺の領地にある本邸の図面だ』
『ここの「北棟」を見てくれ』
ルシアンが図面を見ると、北側に離れのような建物があった。
『ここは、断熱・防音・防湿、全て完備の要塞だ』
『地下には大書庫がある』
『窓からは万年雪の静かな山脈が見える』
『隣人はいない。俺の私兵団が半径十キロを警備している』
条件が良すぎる。
ルシアンの理想郷(ユートピア)そのものだ。
キースは、ボードに最後の一行を書き加えた。
『結婚してくれたら、この北棟をやる』
『お前の城だ。好きに使え』
『一生、静かに暮らせることを約束する』
これはプロポーズなのだろうか。
それとも、不動産の商談なのだろうか。
だが、ルシアンにとっては、どんな「愛してる」よりも心に響く殺し文句だった。
(……ズルい)
ルシアンは目頭が熱くなった。
彼は知っているのだ。
私が何を求め、何を恐れているのかを。
そして、その全てを受け入れ、守ろうとしてくれている。
(……断る理由なんて、ないじゃない)
ルシアンは涙を拭い、スケッチブックに向かった。
震える指で、大きく、一言だけ書く。
『条件があります』
キースが眉を上げた。
『なんだ』
ルシアンはページをめくり、悪戯っぽい笑みを浮かべて書いた。
『タダで嫁ぐのは癪です』
『今後の結婚生活における、詳細なルール(条約)を制定します』
『それが飲めるなら、お受けします』
キースはボードを見て、フッと笑った。
嬉しそうな、少年のような笑顔。
彼はボードに力強く書いた。
『交渉に応じよう』
『どんな条件でも飲む』
こうして、地下室での静かなる攻防戦――もとい、前代未聞の『筆談による婚前契約交渉』が幕を開けた。
二人の間にあるのは、紙とペンと、そして隠しきれない愛だけ。
だが、この交渉がそう簡単にまとまるはずもなかった。
なぜなら、ルシアンの提示する条件と、キースの独占欲(ヘビー級)が、正面から衝突することになるからだ。
森は、かつてないほどの静寂を取り戻していた。
「魔王が出る」「叫び声を聞くと呪われる」という噂が広まったおかげで、野次馬はおろか、鳥さえも近寄らなくなったからだ。
ルシアンは、地下の『完全無音室』で、喉の保養をしていた。
(……平和だわ)
彼女はソファに深く沈み込み、膝の上のスケッチブックにペンを走らせる。
『喉の調子、だいぶ良くなりました』
向かいに座るキースにそれを見せると、彼は無言で頷き、新しいフリップボード(どこから調達したのか、ホワイトボード仕様)を取り出した。
キュッ、キュッ、キュッ。
マーカーの音が響く。
『無理をするな。あと三日は筆談にしろ』
達筆な文字だ。
ルシアンは小さく笑い、再びスケッチブックに書く。
『貴方も筆談にする必要はないのですよ?』
キースは首を横に振った。
『お前が喋れないのに、俺だけ喋るのは不公平だ』
(……律儀な人)
ルシアンは胸が温かくなった。
この数日、二人の会話は全てこのボードとスケッチブックで行われていた。
音のない会話。
だが、それは言葉を交わすよりもずっと濃密で、そして少しだけ気恥ずかしい時間だった。
その時。
ブオン。
地下室の転送ポット(書類受け渡し用)が作動し、一通の封筒が吐き出された。
封蝋には、王家の紋章。
キースの表情が曇る。
彼は封筒を開け、中身を一読すると、眉間に深い皺を刻んだ。
『なんて書いてありますか?』
ルシアンが書くと、キースはボードに殴り書きした。
『国王からの呼び出しだ。「魔王(俺)と、その使い魔(お前)に会いたい」と』
『使い魔扱い!?』
ルシアンは抗議の文字を書こうとしたが、キースの手がそれを制した。
彼は真剣な眼差しで、しばらく考え込んでいた。
そして、何かを決意したように、一度ボードの文字を全て消した。
(……?)
キースは、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、いつもの無愛想なものではなく、熱を帯びた、吸い込まれそうな漆黒だった。
彼はゆっくりと、丁寧に、文字を書き始めた。
キュッ……キュッ……。
迷いのない筆致。
書き終えると、彼はボードをルシアンに向けた。
そこに書かれていたのは、衝撃の一文だった。
『結婚してくれ』
「…………ッ!?」
ルシアンは音にならない悲鳴を上げ、持っていたペンを取り落とした。
コロコロ……。
ペンの転がる音だけが、無音室に響く。
(え? 今、なんて?)
ルシアンは目を擦った。
幻覚ではない。
黒い太字で、明確に『結婚』と書かれている。
混乱するルシアンをよそに、キースはボードを裏返し、さらに続きを書き始めた。
『お前を、王家の干渉から守るには、これしかない』
『辺境伯夫人の地位があれば、国王も手出しできない』
『アランも、公爵も、二度と近づけない』
(……なるほど、政略的な意味ね)
ルシアンは少し冷静になった。
確かに、今の彼女は「公爵家を勘当されかけた厄介者」だ。
キースの妻になれば、身分も保証され、最強の盾が手に入る。
合理的だ。
とても彼らしい提案だ。
(でも……それだけ?)
ルシアンは少しだけ期待していた自分がいたことに気づき、頬を膨らませた。
彼女はスケッチブックを拾い上げ、震える手で書いた。
『それは、私を守るための「偽装結婚」という提案ですか?』
キースがその文字を見た瞬間、彼の表情が歪んだ。
「偽装」という言葉が気に入らなかったらしい。
彼は猛烈な勢いでボードを消し、新しい文字を叩きつけるように書いた。
『違う』
『偽装ではない』
『俺は、お前が欲しい』
「…………///」
ルシアンの顔が、熟れたトマトのように真っ赤になった。
直球すぎる。
無口な男の筆談は、言葉のフィルターがない分、破壊力が桁違いだ。
キースはさらに書き続ける。
まるで、今まで溜め込んでいた言葉を全て吐き出すように。
『お前の沈黙が好きだ』
『お前の書く小説が好きだ』
『お前が食べる顔が好きだ』
『俺の作った飯を美味そうに食うところを見ると、胸が苦しくなる』
(……最後のは、ただの餌付け成功例では?)
ツッコミを入れたかったが、手が震えて書けない。
キースはボードを一度置き、懐から何かを取り出した。
それは、一枚の図面だった。
建物の見取り図だ。
彼はボードに説明を書いた。
『これは、俺の領地にある本邸の図面だ』
『ここの「北棟」を見てくれ』
ルシアンが図面を見ると、北側に離れのような建物があった。
『ここは、断熱・防音・防湿、全て完備の要塞だ』
『地下には大書庫がある』
『窓からは万年雪の静かな山脈が見える』
『隣人はいない。俺の私兵団が半径十キロを警備している』
条件が良すぎる。
ルシアンの理想郷(ユートピア)そのものだ。
キースは、ボードに最後の一行を書き加えた。
『結婚してくれたら、この北棟をやる』
『お前の城だ。好きに使え』
『一生、静かに暮らせることを約束する』
これはプロポーズなのだろうか。
それとも、不動産の商談なのだろうか。
だが、ルシアンにとっては、どんな「愛してる」よりも心に響く殺し文句だった。
(……ズルい)
ルシアンは目頭が熱くなった。
彼は知っているのだ。
私が何を求め、何を恐れているのかを。
そして、その全てを受け入れ、守ろうとしてくれている。
(……断る理由なんて、ないじゃない)
ルシアンは涙を拭い、スケッチブックに向かった。
震える指で、大きく、一言だけ書く。
『条件があります』
キースが眉を上げた。
『なんだ』
ルシアンはページをめくり、悪戯っぽい笑みを浮かべて書いた。
『タダで嫁ぐのは癪です』
『今後の結婚生活における、詳細なルール(条約)を制定します』
『それが飲めるなら、お受けします』
キースはボードを見て、フッと笑った。
嬉しそうな、少年のような笑顔。
彼はボードに力強く書いた。
『交渉に応じよう』
『どんな条件でも飲む』
こうして、地下室での静かなる攻防戦――もとい、前代未聞の『筆談による婚前契約交渉』が幕を開けた。
二人の間にあるのは、紙とペンと、そして隠しきれない愛だけ。
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