婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

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森の奥にある別荘に、二つの影が舞い降りた。

タンッ。

音もなく着地したのは、純白のタキシードを着たキースと、その腕に抱かれたウェディングドレス姿のルシアンだ。

「……着いたぞ」

「……三半規管が死にました」

ルシアンはキースの腕から滑り落ちると、芝生の上にへたり込んだ。

王都からここまで、ノンストップの高速移動。

景色を楽しむ余裕などなく、ただ風圧と戦うだけの新婚旅行だった。

だが。

シーン……。

耳を澄ませば、そこには完全なる静寂があった。

あの地獄のような歓声も、パレードのラッパも、侍女たちの叫び声も聞こえない。

あるのは、虫の音と、風が木々を揺らす音だけ。

「……帰ってきた」

ルシアンは芝生の冷たさを掌で感じ、深く息を吸い込んだ。

「我が家だわ……。愛しき静寂の我が家……」

「……ああ」

キースもまた、ネクタイを緩めながら、ホッとした表情を見せた。

「……あんな人混み、二度と御免だ」

「同感です。影武者の彼らに、ボーナスを弾んであげてください」

二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。

言葉はいらない。

「ここには私たちしかいない」という安堵感だけで、十分だった。

***

簡単な食事(キースが作り置きしていたサンドイッチ)を済ませ、シャワーを浴びて、夜が更けた頃。

ついに、その時はやってきた。

地下の主寝室。

防音完備、空調完備、そしてキングサイズのベッドが鎮座する、あの部屋だ。

「…………」

「…………」

ルシアンとキースは、ベッドの端と端に座り、無言で壁を見つめていた。

気まずい。

死ぬほど気まずい。

なぜなら、今日から二人は法的に夫婦であり、今は世間一般で言うところの『初夜』だからだ。

(ど、どうすればいいの?)

ルシアンは膝の上で手を握りしめた。

王妃教育の一環で、初夜に関する知識はある。

だが、実践となると話は別だ。

それに、相手はこの『沈黙の要塞』のような男だ。彼が何を考えているのか、全く読めない。

(契約では『同室同ベッド』までは許可したけれど……その先については明記しなかったわ!)

チラリと横を見る。

キースはバスローブ姿で、濡れた髪を拭きながら、じっと一点を見つめている。

その視線の先にあるのは――ルシアンの足元に置かれた『抱き枕(中身は綿)』だ。

「……キースさん」

「……ん」

「抱き枕を睨まないでください。燃えそうです」

「……邪魔だ」

キースが低い声で唸る。

「……こいつがいなければ、もっと近くに行けるのに」

「契約違反です。壁は必要です」

「……チッ」

キースは不満げに舌打ちをしたが、それ以上強引に距離を詰めてくることはなかった。

彼は立ち上がり、部屋の隅にある本棚へ向かった。

そして、分厚い本を一冊抜き取り、ベッドに戻ってきた。

「……寝るぞ」

「え?」

「……明日は早い。パンの仕込みがある」

「あ、はい……」

拍子抜けした。

『影の英雄』は、初夜よりも明日のパンの発酵を優先するらしい。

(……まあ、彼らしいわね)

ルシアンも安堵し、自分のサイドテーブルから読みかけの小説を手に取った。

二人はベッドに入り、それぞれの読書灯をつけた。

間に抱き枕を挟んで、並んで横になる。

カサッ。

カサッ。

ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。

「…………」

ルシアンは活字を目で追っていたが、内容は全く頭に入ってこなかった。

意識の全てが、右側にいる存在に向いている。

彼の体温。

微かな石鹸の香り。

そして、規則正しい呼吸音。

(……不思議)

ルシアンは思った。

以前なら、他人が隣にいるだけでイライラして眠れなかったはずだ。

気配がうるさい、呼吸がうるさい、存在がうるさいと。

でも、今はどうだろう。

彼の立てる音は、まるで波の音のように自然で、心地よいリズムとなってルシアンを包み込んでいる。

(……静かね)

一人でいる時の静寂とは違う。

冷たくて、張り詰めた静寂ではない。

温かくて、柔らかい静寂。

カサッ。

キースがページをめくる。

それに合わせるように、ルシアンもページをめくる。

二人のリズムが、自然とシンクロしていく。

「……ルシアン」

不意に、キースが呼んだ。

「はい」

「……契約の、ハグの時間だ」

「え?」

時計を見ると、針は深夜零時を回ろうとしていた。

「……一日一回、15秒。……まだ消化していない」

「……こんな夜中にですか?」

「……日付が変わる前に、やっておきたい」

キースは本を置き、真剣な眼差しでルシアンを見た。

その目は、獲物を狙う獣ではなく、ご褒美を待つ大型犬のようだった。

ルシアンは小さくため息をつき、本を閉じた。

「……仕方ありませんね。15秒だけですよ」

「……感謝する」

キースは邪魔な抱き枕をポイッと床に放り投げた。

「あ、壁が!」

「……今は緊急時だ」

彼はルシアンの抗議を無視し、長い腕を伸ばして、彼女をそっと引き寄せた。

ふわり。

包み込まれるような感覚。

彼の広い胸板に、ルシアンの顔が埋まる。

トクトク、トクトク。

彼の心音が、直接耳に届く。

少し速い。

「…………」

「…………」

言葉はない。

ただ、体温が伝わってくるだけ。

ルシアンは、強張っていた体の力が抜けていくのを感じた。

鎧のように着込んでいた警戒心も、孤独への執着も、この温かさの前では溶けていくようだった。

(1、2、3……)

心の中で秒数を数える。

でも、10を数えたあたりで、数えるのをやめた。

(……もう少しだけ)

ルシアンはそっと、キースの背中に手を回した。

キースの体が、一瞬ビクリと震え、それからさらに強く、愛おしそうに彼女を抱きしめ返した。

15秒など、とうに過ぎていた。

1分、2分……。

やがて、キースがぽつりと呟いた。

「……悪くないな」

「え?」

「……お前のいる静寂は、悪くない」

彼の言葉に、ルシアンの胸が熱くなった。

それは、彼女が言おうとしていた言葉そのものだったからだ。

「……ええ」

ルシアンは彼の胸の中で、小さく微笑んだ。

「……悪くないわね」

二人は体を離すと、少し照れくさそうに視線を逸らした。

キースは床に落ちた抱き枕を拾い上げ、ポンポンと埃を払ってから、律儀に二人の間に戻した。

「……おやすみ、ルシアン」

「……おやすみなさい、キースさん」

カチッ。

読書灯が消される。

部屋は完全な闇と静寂に包まれた。

だが、ルシアンは知っている。

すぐ隣に、世界で一番頼もしい味方がいることを。

そして、彼の手が、布団の中でこっそりとルシアンの手を探し、小指だけを絡めてきたことを。

(……これなら、眠れそう)

ルシアンは目を閉じた。

波乱万丈の結婚式と、静かすぎる初夜。

それは彼女が夢見た「孤独な隠居生活」とは少し違ったけれど、それよりもずっと温かくて、愛おしい「新しい日常」の始まりだった。

翌朝、キースは約束通り、最高に美味しい焼き立てパンでルシアンを起こしてくれるだろう。

そして二人は、また静かに、幸せな朝食をとるのだ。

……まあ、その数日後に、アランとミナが「開拓送り」にされる前に最後の挨拶に来たり、公爵が孫の顔見たさにアポ無し突撃してきたりするのだが、それはまた別の騒音(ノイズ)である。

今の二人には、この静寂だけで十分だった。
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