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しんしんと、雪が降っていた。
窓の外は一面の銀世界。
北の山脈にある辺境伯邸の『北棟』は、分厚い雪の壁と、三重の防音結界によって、世界から切り離されたような静寂に包まれている。
パチパチ……。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々としたリビングに響く。
ルシアンは、特等席のロッキングチェアに揺られながら、読みかけの本を膝に置いていた。
(……静かだわ)
目を閉じれば、聞こえるのは自分の呼吸音と、すぐ隣にいる人の気配だけ。
あれから、五年が経った。
アランとミナの「騒音コンビ」が去り、公爵家とのしがらみも整理され、ルシアンとキースは本当の意味での隠遁生活を手に入れた。
「……寒いか」
低く、穏やかな声。
ルシアンが目を開けると、キースが膝掛けを掛け直してくれているところだった。
「いいえ、暖かいです。……貴方が暖炉の火加減を完璧に管理してくれていますから」
「……ならいい」
キースは満足げに頷き、自分の椅子(ルシアンの椅子のすぐ隣、距離にして五十センチ)に戻った。
彼は少し老けたかもしれない。目尻に笑い皺が増えた。
でも、その無口さと、ルシアンを見守る瞳の温かさは、出会った頃と何も変わらない。
「……キースさん」
「……ん」
「アラン殿下から、手紙が来ましたよ。ハンスが届けてくれました」
ルシアンはサイドテーブルの上の封筒を指差した。
泥のような汚れがついた、ボロボロの封筒だ。
「……まだ生きていたのか」
「ええ。なんでも、『ついに新種のジャガイモの開発に成功した! 名前はルシアン・ポテトにする!』だそうです」
「……不愉快だ。焼却処分する」
「中身の種芋だけは回収しましょう。美味しそうですから」
キースは渋々といった様子で封筒を手に取り、中身を確認し始めた。
「……ミナからも追伸がある。『劇団の公演が大盛況です! 観客(魔獣)たちがスタンディングオベーション(威嚇)してくれました!』……だそうだ」
「逞しいですね。……彼らなりに、幸せを見つけたのでしょう」
ルシアンは微笑んだ。
騒がしい彼らも、遠い空の下なら愛おしく思える。
ただし、半径一万キロ以内には近づいてほしくないが。
「……お前は」
キースが不意に尋ねた。
「……幸せか?」
「え?」
「……こんな、何もない雪山で。……来る日も来る日も、俺と顔を突き合わせているだけで」
キースは少し不安そうに、ルシアンの手の甲に触れた。
「……退屈していないか」
ルシアンは、きょとんとした。
そして、堪えきれずに吹き出した。
「ふふ、あははは!」
「……笑うな」
「だって、おかしくて。……五年も一緒にいて、まだそんなことを聞くのですか?」
ルシアンは自分の手を裏返し、彼の手を強く握り返した。
「退屈? まさか。……私は毎日、忙しいのですよ」
「……何もしていないように見えるが」
「心の中が、です。……貴方の淹れてくれたコーヒーの香りに感動し、貴方が選んでくれた本に没頭し、貴方が雪かきをする背中を見て『頼もしいな』と思う。……これだけ充実している日々はありません」
ルシアンは暖炉の火を見つめた。
かつて、彼女は「おひとり様」を愛していた。
誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、一人で完結する世界こそが至高だと思っていた。
でも、今は違う。
「……私は今でも『おひとり様』が好きです。一人の時間は大切です」
「……知っている」
「でも、今の私の『おひとり様』の定義には、貴方が含まれているのです」
「……?」
ルシアンは少し照れくさそうに説明した。
「貴方はもう、他人ではありません。私の一部です。……だから、貴方と二人でいる時間は、私にとって『最高のひとり時間』なのです」
キースが目を見開いた。
そして、耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……反則だ」
「あら、事実ですもの」
「……そんなことを言われたら、離れられなくなる」
「離れるつもりだったのですか?」
「……一生、へばりついてやる」
「ええ、覚悟しています」
その時。
二階から、トテ、トテ、トテ……と、小さな足音が聞こえてきた。
そして、扉が少しだけ開き、小さな男の子が顔を出した。
黒髪に黒い瞳。キースによく似た、四歳になる息子だ。
彼は無言で部屋に入ってくると、両手に抱えた絵本をキースに差し出した。
「…………」
無言の要求(読んでくれ)。
キースは苦笑して、息子を膝の上に乗せた。
「……またこれか」
息子はコクンと頷く。
彼はルシアンに似て、非常に無口で、そして本が好きだった。
泣き声一つ上げず、ただ静かにページをめくることに喜びを感じる、生粋の『ヴァイオレット家の血』を引いている。
「……よし、読んでやる」
キースが低い声で読み聞かせを始める。
ルシアンは、その光景を愛おしく眺めた。
夫と、息子。
世界で一番静かで、世界で一番愛する二人の男性。
(……騒がしい未来も覚悟していたけれど、案外、遺伝子というのは正直ね)
ルシアンは再び本を開いた。
部屋には、暖炉の音と、キースの静かな声と、息子のページをめくる音だけが響く。
言葉はいらない。
過剰な演出も、派手なイベントもいらない。
ただ、ここに「いる」こと。
互いの体温を感じ、同じ静寂を共有すること。
それこそが、ルシアン・ヴァイオレットがたどり着いた、ハッピーエンドの形だった。
「……ねえ、キース」
「……なんだ」
「……いえ、なんでもないわ」
「……そうか」
ただ名前を呼んでみただけ。
それだけで通じ合う。
ルシアンは満ち足りた気持ちで、窓の外の雪を見上げた。
これからも、色々なことがあるだろう。
もしかしたら、またアランが脱走してきたり、マーリン学長が実験で山を吹き飛ばしたりするかもしれない。
でも、大丈夫。
私の隣には、最強の『防音壁』がいるのだから。
「……愛していますよ、旦那様」
ルシアンは聞こえないほどの小声で呟いた。
キースの耳がピクリと動き、口元が微かに緩んだのを、ルシアンは見逃さなかった。
静かなる幸福は、これからも永遠に続いていく。
雪のように降り積もり、決して溶けることなく。
窓の外は一面の銀世界。
北の山脈にある辺境伯邸の『北棟』は、分厚い雪の壁と、三重の防音結界によって、世界から切り離されたような静寂に包まれている。
パチパチ……。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々としたリビングに響く。
ルシアンは、特等席のロッキングチェアに揺られながら、読みかけの本を膝に置いていた。
(……静かだわ)
目を閉じれば、聞こえるのは自分の呼吸音と、すぐ隣にいる人の気配だけ。
あれから、五年が経った。
アランとミナの「騒音コンビ」が去り、公爵家とのしがらみも整理され、ルシアンとキースは本当の意味での隠遁生活を手に入れた。
「……寒いか」
低く、穏やかな声。
ルシアンが目を開けると、キースが膝掛けを掛け直してくれているところだった。
「いいえ、暖かいです。……貴方が暖炉の火加減を完璧に管理してくれていますから」
「……ならいい」
キースは満足げに頷き、自分の椅子(ルシアンの椅子のすぐ隣、距離にして五十センチ)に戻った。
彼は少し老けたかもしれない。目尻に笑い皺が増えた。
でも、その無口さと、ルシアンを見守る瞳の温かさは、出会った頃と何も変わらない。
「……キースさん」
「……ん」
「アラン殿下から、手紙が来ましたよ。ハンスが届けてくれました」
ルシアンはサイドテーブルの上の封筒を指差した。
泥のような汚れがついた、ボロボロの封筒だ。
「……まだ生きていたのか」
「ええ。なんでも、『ついに新種のジャガイモの開発に成功した! 名前はルシアン・ポテトにする!』だそうです」
「……不愉快だ。焼却処分する」
「中身の種芋だけは回収しましょう。美味しそうですから」
キースは渋々といった様子で封筒を手に取り、中身を確認し始めた。
「……ミナからも追伸がある。『劇団の公演が大盛況です! 観客(魔獣)たちがスタンディングオベーション(威嚇)してくれました!』……だそうだ」
「逞しいですね。……彼らなりに、幸せを見つけたのでしょう」
ルシアンは微笑んだ。
騒がしい彼らも、遠い空の下なら愛おしく思える。
ただし、半径一万キロ以内には近づいてほしくないが。
「……お前は」
キースが不意に尋ねた。
「……幸せか?」
「え?」
「……こんな、何もない雪山で。……来る日も来る日も、俺と顔を突き合わせているだけで」
キースは少し不安そうに、ルシアンの手の甲に触れた。
「……退屈していないか」
ルシアンは、きょとんとした。
そして、堪えきれずに吹き出した。
「ふふ、あははは!」
「……笑うな」
「だって、おかしくて。……五年も一緒にいて、まだそんなことを聞くのですか?」
ルシアンは自分の手を裏返し、彼の手を強く握り返した。
「退屈? まさか。……私は毎日、忙しいのですよ」
「……何もしていないように見えるが」
「心の中が、です。……貴方の淹れてくれたコーヒーの香りに感動し、貴方が選んでくれた本に没頭し、貴方が雪かきをする背中を見て『頼もしいな』と思う。……これだけ充実している日々はありません」
ルシアンは暖炉の火を見つめた。
かつて、彼女は「おひとり様」を愛していた。
誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、一人で完結する世界こそが至高だと思っていた。
でも、今は違う。
「……私は今でも『おひとり様』が好きです。一人の時間は大切です」
「……知っている」
「でも、今の私の『おひとり様』の定義には、貴方が含まれているのです」
「……?」
ルシアンは少し照れくさそうに説明した。
「貴方はもう、他人ではありません。私の一部です。……だから、貴方と二人でいる時間は、私にとって『最高のひとり時間』なのです」
キースが目を見開いた。
そして、耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……反則だ」
「あら、事実ですもの」
「……そんなことを言われたら、離れられなくなる」
「離れるつもりだったのですか?」
「……一生、へばりついてやる」
「ええ、覚悟しています」
その時。
二階から、トテ、トテ、トテ……と、小さな足音が聞こえてきた。
そして、扉が少しだけ開き、小さな男の子が顔を出した。
黒髪に黒い瞳。キースによく似た、四歳になる息子だ。
彼は無言で部屋に入ってくると、両手に抱えた絵本をキースに差し出した。
「…………」
無言の要求(読んでくれ)。
キースは苦笑して、息子を膝の上に乗せた。
「……またこれか」
息子はコクンと頷く。
彼はルシアンに似て、非常に無口で、そして本が好きだった。
泣き声一つ上げず、ただ静かにページをめくることに喜びを感じる、生粋の『ヴァイオレット家の血』を引いている。
「……よし、読んでやる」
キースが低い声で読み聞かせを始める。
ルシアンは、その光景を愛おしく眺めた。
夫と、息子。
世界で一番静かで、世界で一番愛する二人の男性。
(……騒がしい未来も覚悟していたけれど、案外、遺伝子というのは正直ね)
ルシアンは再び本を開いた。
部屋には、暖炉の音と、キースの静かな声と、息子のページをめくる音だけが響く。
言葉はいらない。
過剰な演出も、派手なイベントもいらない。
ただ、ここに「いる」こと。
互いの体温を感じ、同じ静寂を共有すること。
それこそが、ルシアン・ヴァイオレットがたどり着いた、ハッピーエンドの形だった。
「……ねえ、キース」
「……なんだ」
「……いえ、なんでもないわ」
「……そうか」
ただ名前を呼んでみただけ。
それだけで通じ合う。
ルシアンは満ち足りた気持ちで、窓の外の雪を見上げた。
これからも、色々なことがあるだろう。
もしかしたら、またアランが脱走してきたり、マーリン学長が実験で山を吹き飛ばしたりするかもしれない。
でも、大丈夫。
私の隣には、最強の『防音壁』がいるのだから。
「……愛していますよ、旦那様」
ルシアンは聞こえないほどの小声で呟いた。
キースの耳がピクリと動き、口元が微かに緩んだのを、ルシアンは見逃さなかった。
静かなる幸福は、これからも永遠に続いていく。
雪のように降り積もり、決して溶けることなく。
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