28 / 28
28
しおりを挟む
しんしんと、雪が降っていた。
窓の外は一面の銀世界。
北の山脈にある辺境伯邸の『北棟』は、分厚い雪の壁と、三重の防音結界によって、世界から切り離されたような静寂に包まれている。
パチパチ……。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々としたリビングに響く。
ルシアンは、特等席のロッキングチェアに揺られながら、読みかけの本を膝に置いていた。
(……静かだわ)
目を閉じれば、聞こえるのは自分の呼吸音と、すぐ隣にいる人の気配だけ。
あれから、五年が経った。
アランとミナの「騒音コンビ」が去り、公爵家とのしがらみも整理され、ルシアンとキースは本当の意味での隠遁生活を手に入れた。
「……寒いか」
低く、穏やかな声。
ルシアンが目を開けると、キースが膝掛けを掛け直してくれているところだった。
「いいえ、暖かいです。……貴方が暖炉の火加減を完璧に管理してくれていますから」
「……ならいい」
キースは満足げに頷き、自分の椅子(ルシアンの椅子のすぐ隣、距離にして五十センチ)に戻った。
彼は少し老けたかもしれない。目尻に笑い皺が増えた。
でも、その無口さと、ルシアンを見守る瞳の温かさは、出会った頃と何も変わらない。
「……キースさん」
「……ん」
「アラン殿下から、手紙が来ましたよ。ハンスが届けてくれました」
ルシアンはサイドテーブルの上の封筒を指差した。
泥のような汚れがついた、ボロボロの封筒だ。
「……まだ生きていたのか」
「ええ。なんでも、『ついに新種のジャガイモの開発に成功した! 名前はルシアン・ポテトにする!』だそうです」
「……不愉快だ。焼却処分する」
「中身の種芋だけは回収しましょう。美味しそうですから」
キースは渋々といった様子で封筒を手に取り、中身を確認し始めた。
「……ミナからも追伸がある。『劇団の公演が大盛況です! 観客(魔獣)たちがスタンディングオベーション(威嚇)してくれました!』……だそうだ」
「逞しいですね。……彼らなりに、幸せを見つけたのでしょう」
ルシアンは微笑んだ。
騒がしい彼らも、遠い空の下なら愛おしく思える。
ただし、半径一万キロ以内には近づいてほしくないが。
「……お前は」
キースが不意に尋ねた。
「……幸せか?」
「え?」
「……こんな、何もない雪山で。……来る日も来る日も、俺と顔を突き合わせているだけで」
キースは少し不安そうに、ルシアンの手の甲に触れた。
「……退屈していないか」
ルシアンは、きょとんとした。
そして、堪えきれずに吹き出した。
「ふふ、あははは!」
「……笑うな」
「だって、おかしくて。……五年も一緒にいて、まだそんなことを聞くのですか?」
ルシアンは自分の手を裏返し、彼の手を強く握り返した。
「退屈? まさか。……私は毎日、忙しいのですよ」
「……何もしていないように見えるが」
「心の中が、です。……貴方の淹れてくれたコーヒーの香りに感動し、貴方が選んでくれた本に没頭し、貴方が雪かきをする背中を見て『頼もしいな』と思う。……これだけ充実している日々はありません」
ルシアンは暖炉の火を見つめた。
かつて、彼女は「おひとり様」を愛していた。
誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、一人で完結する世界こそが至高だと思っていた。
でも、今は違う。
「……私は今でも『おひとり様』が好きです。一人の時間は大切です」
「……知っている」
「でも、今の私の『おひとり様』の定義には、貴方が含まれているのです」
「……?」
ルシアンは少し照れくさそうに説明した。
「貴方はもう、他人ではありません。私の一部です。……だから、貴方と二人でいる時間は、私にとって『最高のひとり時間』なのです」
キースが目を見開いた。
そして、耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……反則だ」
「あら、事実ですもの」
「……そんなことを言われたら、離れられなくなる」
「離れるつもりだったのですか?」
「……一生、へばりついてやる」
「ええ、覚悟しています」
その時。
二階から、トテ、トテ、トテ……と、小さな足音が聞こえてきた。
そして、扉が少しだけ開き、小さな男の子が顔を出した。
黒髪に黒い瞳。キースによく似た、四歳になる息子だ。
彼は無言で部屋に入ってくると、両手に抱えた絵本をキースに差し出した。
「…………」
無言の要求(読んでくれ)。
キースは苦笑して、息子を膝の上に乗せた。
「……またこれか」
息子はコクンと頷く。
彼はルシアンに似て、非常に無口で、そして本が好きだった。
泣き声一つ上げず、ただ静かにページをめくることに喜びを感じる、生粋の『ヴァイオレット家の血』を引いている。
「……よし、読んでやる」
キースが低い声で読み聞かせを始める。
ルシアンは、その光景を愛おしく眺めた。
夫と、息子。
世界で一番静かで、世界で一番愛する二人の男性。
(……騒がしい未来も覚悟していたけれど、案外、遺伝子というのは正直ね)
ルシアンは再び本を開いた。
部屋には、暖炉の音と、キースの静かな声と、息子のページをめくる音だけが響く。
言葉はいらない。
過剰な演出も、派手なイベントもいらない。
ただ、ここに「いる」こと。
互いの体温を感じ、同じ静寂を共有すること。
それこそが、ルシアン・ヴァイオレットがたどり着いた、ハッピーエンドの形だった。
「……ねえ、キース」
「……なんだ」
「……いえ、なんでもないわ」
「……そうか」
ただ名前を呼んでみただけ。
それだけで通じ合う。
ルシアンは満ち足りた気持ちで、窓の外の雪を見上げた。
これからも、色々なことがあるだろう。
もしかしたら、またアランが脱走してきたり、マーリン学長が実験で山を吹き飛ばしたりするかもしれない。
でも、大丈夫。
私の隣には、最強の『防音壁』がいるのだから。
「……愛していますよ、旦那様」
ルシアンは聞こえないほどの小声で呟いた。
キースの耳がピクリと動き、口元が微かに緩んだのを、ルシアンは見逃さなかった。
静かなる幸福は、これからも永遠に続いていく。
雪のように降り積もり、決して溶けることなく。
窓の外は一面の銀世界。
北の山脈にある辺境伯邸の『北棟』は、分厚い雪の壁と、三重の防音結界によって、世界から切り離されたような静寂に包まれている。
パチパチ……。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々としたリビングに響く。
ルシアンは、特等席のロッキングチェアに揺られながら、読みかけの本を膝に置いていた。
(……静かだわ)
目を閉じれば、聞こえるのは自分の呼吸音と、すぐ隣にいる人の気配だけ。
あれから、五年が経った。
アランとミナの「騒音コンビ」が去り、公爵家とのしがらみも整理され、ルシアンとキースは本当の意味での隠遁生活を手に入れた。
「……寒いか」
低く、穏やかな声。
ルシアンが目を開けると、キースが膝掛けを掛け直してくれているところだった。
「いいえ、暖かいです。……貴方が暖炉の火加減を完璧に管理してくれていますから」
「……ならいい」
キースは満足げに頷き、自分の椅子(ルシアンの椅子のすぐ隣、距離にして五十センチ)に戻った。
彼は少し老けたかもしれない。目尻に笑い皺が増えた。
でも、その無口さと、ルシアンを見守る瞳の温かさは、出会った頃と何も変わらない。
「……キースさん」
「……ん」
「アラン殿下から、手紙が来ましたよ。ハンスが届けてくれました」
ルシアンはサイドテーブルの上の封筒を指差した。
泥のような汚れがついた、ボロボロの封筒だ。
「……まだ生きていたのか」
「ええ。なんでも、『ついに新種のジャガイモの開発に成功した! 名前はルシアン・ポテトにする!』だそうです」
「……不愉快だ。焼却処分する」
「中身の種芋だけは回収しましょう。美味しそうですから」
キースは渋々といった様子で封筒を手に取り、中身を確認し始めた。
「……ミナからも追伸がある。『劇団の公演が大盛況です! 観客(魔獣)たちがスタンディングオベーション(威嚇)してくれました!』……だそうだ」
「逞しいですね。……彼らなりに、幸せを見つけたのでしょう」
ルシアンは微笑んだ。
騒がしい彼らも、遠い空の下なら愛おしく思える。
ただし、半径一万キロ以内には近づいてほしくないが。
「……お前は」
キースが不意に尋ねた。
「……幸せか?」
「え?」
「……こんな、何もない雪山で。……来る日も来る日も、俺と顔を突き合わせているだけで」
キースは少し不安そうに、ルシアンの手の甲に触れた。
「……退屈していないか」
ルシアンは、きょとんとした。
そして、堪えきれずに吹き出した。
「ふふ、あははは!」
「……笑うな」
「だって、おかしくて。……五年も一緒にいて、まだそんなことを聞くのですか?」
ルシアンは自分の手を裏返し、彼の手を強く握り返した。
「退屈? まさか。……私は毎日、忙しいのですよ」
「……何もしていないように見えるが」
「心の中が、です。……貴方の淹れてくれたコーヒーの香りに感動し、貴方が選んでくれた本に没頭し、貴方が雪かきをする背中を見て『頼もしいな』と思う。……これだけ充実している日々はありません」
ルシアンは暖炉の火を見つめた。
かつて、彼女は「おひとり様」を愛していた。
誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、一人で完結する世界こそが至高だと思っていた。
でも、今は違う。
「……私は今でも『おひとり様』が好きです。一人の時間は大切です」
「……知っている」
「でも、今の私の『おひとり様』の定義には、貴方が含まれているのです」
「……?」
ルシアンは少し照れくさそうに説明した。
「貴方はもう、他人ではありません。私の一部です。……だから、貴方と二人でいる時間は、私にとって『最高のひとり時間』なのです」
キースが目を見開いた。
そして、耳まで真っ赤にして、顔を背けた。
「……反則だ」
「あら、事実ですもの」
「……そんなことを言われたら、離れられなくなる」
「離れるつもりだったのですか?」
「……一生、へばりついてやる」
「ええ、覚悟しています」
その時。
二階から、トテ、トテ、トテ……と、小さな足音が聞こえてきた。
そして、扉が少しだけ開き、小さな男の子が顔を出した。
黒髪に黒い瞳。キースによく似た、四歳になる息子だ。
彼は無言で部屋に入ってくると、両手に抱えた絵本をキースに差し出した。
「…………」
無言の要求(読んでくれ)。
キースは苦笑して、息子を膝の上に乗せた。
「……またこれか」
息子はコクンと頷く。
彼はルシアンに似て、非常に無口で、そして本が好きだった。
泣き声一つ上げず、ただ静かにページをめくることに喜びを感じる、生粋の『ヴァイオレット家の血』を引いている。
「……よし、読んでやる」
キースが低い声で読み聞かせを始める。
ルシアンは、その光景を愛おしく眺めた。
夫と、息子。
世界で一番静かで、世界で一番愛する二人の男性。
(……騒がしい未来も覚悟していたけれど、案外、遺伝子というのは正直ね)
ルシアンは再び本を開いた。
部屋には、暖炉の音と、キースの静かな声と、息子のページをめくる音だけが響く。
言葉はいらない。
過剰な演出も、派手なイベントもいらない。
ただ、ここに「いる」こと。
互いの体温を感じ、同じ静寂を共有すること。
それこそが、ルシアン・ヴァイオレットがたどり着いた、ハッピーエンドの形だった。
「……ねえ、キース」
「……なんだ」
「……いえ、なんでもないわ」
「……そうか」
ただ名前を呼んでみただけ。
それだけで通じ合う。
ルシアンは満ち足りた気持ちで、窓の外の雪を見上げた。
これからも、色々なことがあるだろう。
もしかしたら、またアランが脱走してきたり、マーリン学長が実験で山を吹き飛ばしたりするかもしれない。
でも、大丈夫。
私の隣には、最強の『防音壁』がいるのだから。
「……愛していますよ、旦那様」
ルシアンは聞こえないほどの小声で呟いた。
キースの耳がピクリと動き、口元が微かに緩んだのを、ルシアンは見逃さなかった。
静かなる幸福は、これからも永遠に続いていく。
雪のように降り積もり、決して溶けることなく。
266
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
これって私の断罪じゃなくて公開プロポーズですか!?
桃瀬ももな
恋愛
「カタリーナ・フォン・シュバルツ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」
卒業パーティーの最中、第一王子アルフォンスから非情な宣告を突きつけられた公爵令嬢カタリーナ。
生まれつきの鋭い目つきと、緊張すると顔が強張る不器用さゆえに「悪役令嬢」として孤立していた彼女は、ついに訪れた「お決まりの断罪劇」に絶望……するかと思いきや。
(……あれ? 殿下、いま小さく「よっしゃあ!」ってガッツポーズしませんでした!?)
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
10回目の婚約破棄。もう飽きたので、今回は断罪される前に自分で自分を追放します。二度と探さないでください(フリではありません)
放浪人
恋愛
「もう、疲れました。貴方の顔も見たくありません」
公爵令嬢リーゼロッテは、婚約者である王太子アレクセイに処刑される人生を9回繰り返してきた。 迎えた10回目の人生。もう努力も愛想笑いも無駄だと悟った彼女は、断罪イベントの一ヶ月前に自ら姿を消すことを決意する。 王城の宝物庫から慰謝料(国宝)を頂き、書き置きを残して国外逃亡! 目指せ、安眠と自由のスローライフ!
――のはずだったのだが。
「『顔も見たくない』だと? つまり、直視できないほど私が好きだという照れ隠しか!」 「『探さないで』? 地の果てまで追いかけて抱きしめてほしいというフリだな!」
実は1周目からリーゼロッテを溺愛していた(が、コミュ障すぎて伝わっていなかった)アレクセイ王子は、彼女の拒絶を「愛の試練(かくれんぼ)」と超ポジティブに誤解! 国家権力と軍隊、そしてS級ダンジョンすら踏破するチート能力を総動員して、全力で追いかけてきた!?
物理で逃げる最強令嬢VS愛が重すぎる勘違い王子。 聖女もドラゴンも帝国も巻き込んだ、史上最大規模の「国境なき痴話喧嘩」が今、始まる!
※表紙はNano Bananaで作成しています
君といるのは疲れると言われたので、婚約者を追いかけるのはやめてみました
水谷繭
恋愛
メイベル・ホワイトは目立たない平凡な少女で、美人な姉といつも比べられてきた。
求婚者の殺到する姉とは反対に、全く縁談のなかったメイベル。
そんなある日、ブラッドという美少年が婚約を持ちかけてくる。姉より自分を選んでくれたブラッドに感謝したメイベルは、彼のために何でもしようとひたすら努力する。
しかしそんな態度を重いと告げられ、君といると疲れると言われてしまう。
ショックを受けたメイベルは、ブラッドばかりの生活を改め、好きだった魔法に打ち込むために魔術院に入ることを決意するが……
◆なろうにも掲載しています
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる