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三章
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「ガストン、ヨシノを見なかったかい?」
チャールズ・フレミングが、学舎からチャペルへ抜ける中庭で、偶然に見かけたクリス・ガストンを大声で引き留めている。
「いいえ」
首を横に振るクリスに、チャールズは、「まったくあの子は……。最近、本当に捉まらなくて困っているんだ。消灯時間まで帰ってこないし」と、大きくため息をついてみせる。
「あの、たしか今日は、彼、五時からクレイマー先生の個別指導を受けるって、言っていました」
「音楽棟か……。ありがとう、ガストン」
チャールズはちらりと時計を見、クリスの横でじっと黙ったまま自分を見つめるアレンに遅ればせながら気づいて、その足の具合を訊ねた。「かなり良くなりました」と、はにかむように返ってきた彼の笑みに、「そう、あまり頑張りすぎないようにね」と軽く頭を撫でてやる。
そそくさと立ち去って行くその背中を目で追いながら、「みんな、ヨシノ、ヨシノって……。寮長まで、あのアジア人に目を掛けているなんておかしいよ」と、アレンは腹立たしそうに呟いた。彼にとって、チャールズはこの学校で信頼のおける数少ない人物で、兄の友人だ。それなのになぜ彼がこうも吉野のことを気に掛けるのか、理解も、納得もできなかったのだ。
クリスは眉根を寄せて、「ヨシノはいい奴だよ」と毅然と言い返した。
「アジア人って一括りにしないで、ちゃんとヨシノを見てみなよ。きっときみだって彼を好きになるよ。あんなにわくわくさせてくれる奴、他にいないよ!」
「結構だよ。早く図書館に行こうよ、時間がもったいない」
アレンは嫌そうに首を振って、つんと頭を反らせて歩き出す。クリスは不満げに小さくため息をついて、その後を追った。
「わざわざ指名してもらって、なんなんだがね。フルートは初めてなんだろう? 私に何を教わりたいのかね?」
吉野が個別指導室に入るなり、すでにその場にいた音楽教師のクレイマーは、真っ白なふわふわした髪を神経質に掻き上げながら、イライラした厳しい口調で問いかけた。遅刻したわけじゃないよな、と吉野は教師の不機嫌を訝しく思いながら、率直に返答する。
「タンギングです、先生。これのやり方が判りません」
「基本中の基本だろう? そんなことも知らないでラ・カンパネラだと?」
クレイマーは皮肉に唇を歪め、うろうろと教室を歩き回っている。
熊みたいだな――、と吉野はぼんやりとそんなイメージを思い浮かべながら、彼の不満の理由に当たりをつけて、逆に不敵な笑みを浮かべていた。
「それだけ、クレイマー先生に習ってこい、と言われました」
「誰に?」
押し黙る吉野の持つ剥き出しのフルートを一瞥すると、「始めなさい」と教師は腕組みをし、しかめっ面のままどっかりと椅子に腰を下ろした。
だが、吉野が課題曲を吹き終わる頃には、クレイマーは目尻を下げ、口の端をほころばしていたのだ。
「リチャードは元気か?」
怪訝そうな顔をする吉野に、「そのフルートの前の持主だよ」と顎をしゃくってみせる。
「すみません。僕は面識がありません」
「息子の方か! あの悪童が!」
懐かしそうに目を細め、クレイマーはでっぷりとした体を揺すって大声で笑いだす。
「なるほどな。何の楽器をやっていたんだ?」
「龍笛です。日本の、」
説明しようとする吉野を、ひらひらと手を振って押しとどめる。
「何年?」
「十年になります」
「毎日、七時半からの自習時間にウォーポール寮に来なさい」
「ありがとうございます」
吉野は深く頭を下げ、ほっと息を吐く。
「日本式の礼だな」
クレイマーは、また目を細めて微笑んでいた。とても、懐かしそうに――。
ヘンリーがこの人に師事するように、とアドバイスをくれた理由を、吉野は特に探ろうともしなかった。だが、的確であったことだけは確かだな、と思わずにはいられない。これなら本番まで何とか我慢できそうだ、と吉野は教室に入った時とは打って変わった、教師の友好的で真摯な姿勢に安堵していた。
そうして無事に個別レッスンを終え廊下にでると、チャールズが壁にもたれて待っていた。おもわず顔を逸らして、吉野は小さくため息を漏らしていた。
「何ですか、寮長?」
「最後通告だよ、ヨシノ。これ以上、課外活動をさぼると罰則だ」
「今晩から、クレイマー先生の個別指導を受けます」
「夕方の課外活動は?」
「音楽棟の自習室を使います」
チャールズは吉野に顔をよせ、「あの噂、本当なの?」と、声をひそめて訊ねた。
「とっておき、教えましょうか?」
吉野は、にやっと笑うと歩き出す。
「何? とっておきって?」
一瞬身構え、慌てて追いかけ肩を並べる。
「セドリック・ブラッドリーの件、どうなりました?」
前を向いたまま何気なく切り出す吉野に、「寮で話そう。で、とっておきって?」チャールズは一段と声を落として、ここでは言えない、と顔をしかめている。
「寮で話します」
言葉少なに歩調を速める吉野に、「そんなに重大なこと?」と眉をひそめ、顔を覗き込むようにして畳みかけて訊ねる。
「まぁ、俺には、あんまり……」
吉野は肩に掛けていたリュックを反対側に持ち替えて立ち止まると、くっくっと笑った。
「冗談ですよ。そんな大したことじゃありませんよ」
「ヨシノ、きみ、コンサートの選抜試験を受けるんだってね」
吉野は頷くと、ひょいっと肩をすくめる。
「俺が選抜で残れたら、ヘンリーがコンサートに来てくれるそうですよ」
チャールズは、目をまんまるにして口をポカンと開けて、言葉をなくしたようにその場に立ち尽くした。
そして満面の笑顔で雄叫びを上げると、いきなり吉野を抱きしめて背中をバンバンと叩いた。
「絶対に、残れ! 寮監には僕から報告しておくから!」
だが、ハッとして手を放すとニ、三歩後退って、「ごめん」、と頬を強張らせ、唇を歪めて謝った。
「いいえ。俺の方こそ、すみませんでした」
吉野はばつが悪そうに、目を伏せて呟く。チャールズは嬉しそうににっこりと笑みを湛えた。
「早く戻ろう。セドリックの件、なかなかややこしくてね……」
チャールズは内緒話でも始めるように顔を近づけると、吉野の肩を組んでゆっくりと歩き出した。
チャールズ・フレミングが、学舎からチャペルへ抜ける中庭で、偶然に見かけたクリス・ガストンを大声で引き留めている。
「いいえ」
首を横に振るクリスに、チャールズは、「まったくあの子は……。最近、本当に捉まらなくて困っているんだ。消灯時間まで帰ってこないし」と、大きくため息をついてみせる。
「あの、たしか今日は、彼、五時からクレイマー先生の個別指導を受けるって、言っていました」
「音楽棟か……。ありがとう、ガストン」
チャールズはちらりと時計を見、クリスの横でじっと黙ったまま自分を見つめるアレンに遅ればせながら気づいて、その足の具合を訊ねた。「かなり良くなりました」と、はにかむように返ってきた彼の笑みに、「そう、あまり頑張りすぎないようにね」と軽く頭を撫でてやる。
そそくさと立ち去って行くその背中を目で追いながら、「みんな、ヨシノ、ヨシノって……。寮長まで、あのアジア人に目を掛けているなんておかしいよ」と、アレンは腹立たしそうに呟いた。彼にとって、チャールズはこの学校で信頼のおける数少ない人物で、兄の友人だ。それなのになぜ彼がこうも吉野のことを気に掛けるのか、理解も、納得もできなかったのだ。
クリスは眉根を寄せて、「ヨシノはいい奴だよ」と毅然と言い返した。
「アジア人って一括りにしないで、ちゃんとヨシノを見てみなよ。きっときみだって彼を好きになるよ。あんなにわくわくさせてくれる奴、他にいないよ!」
「結構だよ。早く図書館に行こうよ、時間がもったいない」
アレンは嫌そうに首を振って、つんと頭を反らせて歩き出す。クリスは不満げに小さくため息をついて、その後を追った。
「わざわざ指名してもらって、なんなんだがね。フルートは初めてなんだろう? 私に何を教わりたいのかね?」
吉野が個別指導室に入るなり、すでにその場にいた音楽教師のクレイマーは、真っ白なふわふわした髪を神経質に掻き上げながら、イライラした厳しい口調で問いかけた。遅刻したわけじゃないよな、と吉野は教師の不機嫌を訝しく思いながら、率直に返答する。
「タンギングです、先生。これのやり方が判りません」
「基本中の基本だろう? そんなことも知らないでラ・カンパネラだと?」
クレイマーは皮肉に唇を歪め、うろうろと教室を歩き回っている。
熊みたいだな――、と吉野はぼんやりとそんなイメージを思い浮かべながら、彼の不満の理由に当たりをつけて、逆に不敵な笑みを浮かべていた。
「それだけ、クレイマー先生に習ってこい、と言われました」
「誰に?」
押し黙る吉野の持つ剥き出しのフルートを一瞥すると、「始めなさい」と教師は腕組みをし、しかめっ面のままどっかりと椅子に腰を下ろした。
だが、吉野が課題曲を吹き終わる頃には、クレイマーは目尻を下げ、口の端をほころばしていたのだ。
「リチャードは元気か?」
怪訝そうな顔をする吉野に、「そのフルートの前の持主だよ」と顎をしゃくってみせる。
「すみません。僕は面識がありません」
「息子の方か! あの悪童が!」
懐かしそうに目を細め、クレイマーはでっぷりとした体を揺すって大声で笑いだす。
「なるほどな。何の楽器をやっていたんだ?」
「龍笛です。日本の、」
説明しようとする吉野を、ひらひらと手を振って押しとどめる。
「何年?」
「十年になります」
「毎日、七時半からの自習時間にウォーポール寮に来なさい」
「ありがとうございます」
吉野は深く頭を下げ、ほっと息を吐く。
「日本式の礼だな」
クレイマーは、また目を細めて微笑んでいた。とても、懐かしそうに――。
ヘンリーがこの人に師事するように、とアドバイスをくれた理由を、吉野は特に探ろうともしなかった。だが、的確であったことだけは確かだな、と思わずにはいられない。これなら本番まで何とか我慢できそうだ、と吉野は教室に入った時とは打って変わった、教師の友好的で真摯な姿勢に安堵していた。
そうして無事に個別レッスンを終え廊下にでると、チャールズが壁にもたれて待っていた。おもわず顔を逸らして、吉野は小さくため息を漏らしていた。
「何ですか、寮長?」
「最後通告だよ、ヨシノ。これ以上、課外活動をさぼると罰則だ」
「今晩から、クレイマー先生の個別指導を受けます」
「夕方の課外活動は?」
「音楽棟の自習室を使います」
チャールズは吉野に顔をよせ、「あの噂、本当なの?」と、声をひそめて訊ねた。
「とっておき、教えましょうか?」
吉野は、にやっと笑うと歩き出す。
「何? とっておきって?」
一瞬身構え、慌てて追いかけ肩を並べる。
「セドリック・ブラッドリーの件、どうなりました?」
前を向いたまま何気なく切り出す吉野に、「寮で話そう。で、とっておきって?」チャールズは一段と声を落として、ここでは言えない、と顔をしかめている。
「寮で話します」
言葉少なに歩調を速める吉野に、「そんなに重大なこと?」と眉をひそめ、顔を覗き込むようにして畳みかけて訊ねる。
「まぁ、俺には、あんまり……」
吉野は肩に掛けていたリュックを反対側に持ち替えて立ち止まると、くっくっと笑った。
「冗談ですよ。そんな大したことじゃありませんよ」
「ヨシノ、きみ、コンサートの選抜試験を受けるんだってね」
吉野は頷くと、ひょいっと肩をすくめる。
「俺が選抜で残れたら、ヘンリーがコンサートに来てくれるそうですよ」
チャールズは、目をまんまるにして口をポカンと開けて、言葉をなくしたようにその場に立ち尽くした。
そして満面の笑顔で雄叫びを上げると、いきなり吉野を抱きしめて背中をバンバンと叩いた。
「絶対に、残れ! 寮監には僕から報告しておくから!」
だが、ハッとして手を放すとニ、三歩後退って、「ごめん」、と頬を強張らせ、唇を歪めて謝った。
「いいえ。俺の方こそ、すみませんでした」
吉野はばつが悪そうに、目を伏せて呟く。チャールズは嬉しそうににっこりと笑みを湛えた。
「早く戻ろう。セドリックの件、なかなかややこしくてね……」
チャールズは内緒話でも始めるように顔を近づけると、吉野の肩を組んでゆっくりと歩き出した。
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