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六章
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「デヴィッド卿は、ラテン世界が嫌いだと仰っていたのに、本当はそうでもないのかなぁ」
デヴィッドとロレンツォの背中を不思議そうに目で追いながら、アレンは吉野に問いかけた。前を行く二人は先ほどからずっと、明日からのフェレンツェでの観光日程をどうするか、口角泡を飛ばしながら話し合っているのだ。見にいけるのなら順番なんて、と思うアレンには、何をそう言い争うまでになるのかが、今ひとつ理解できずにいる。
「ああ、あいつ、ぼろかすに言ってたもんな。相当好きなんだろうな」
吉野の目が笑う。
「考えてもみろよ、英国人だぞ。素直に好きなんて言う訳ないじゃん。あれは、悪口言えるほど、良く知っているって意味だよ。お前、そのまんまで受け取ってたの? ほんと、単純」
こっち側にいて良かった――。今、彼は絶対に唇の右端を持ちあげて、僕のことを笑っている!
右側にある吉野の動かない横顔をちらと見て、アレンは拗ねたように唇を尖らせた。
「ほら、ここがドゥオーモ広場だ。大聖堂、ジョットの鐘楼、それから洗礼堂」
振り返ったロレンツォが、一つ一つの建築物を指さして説明してくれている。白を基調として、緑、ピンクの大理石が幾何学模様で飾られ、赤褐色の丸屋根ののる複雑な美しさに、アレンは足を止め、さっきまでの膨れっ面を忘れて感嘆の声をあげる。
「観光は後からだぞ! 俺の家はすぐそこだから!」
ロレンツォは大きく腕を降って手招きし、大聖堂脇の道を横に曲がる。そのままずんずんと進みしばらくすると、レモン色の外壁の建物の前で足を止めた。
呼び鈴を押し、すぐに開かれたドアの内側は、外観からは想像もつかないほど広い玄関ホールだ。アラベスク模様の施された大理石の床から見上げる大階段には真紅の絨毯が敷かれ、中央の踊り場には大きな聖ゲオルギオスの絵が飾られている。立ちすくむ清楚な姫の足元にはゲオルギオスによって退治された龍の屍が横たわり、ゲオルギオスは、姫の足下に跪きその手を取っている。あまりお目にかかることのない構図だ。大抵は、龍に槍を突き立てるゲオルギオスと怯える姫が一般的な図なのだが。
ホールに一歩足を踏みいれるなり飛び込んできたその印象的な絵に、英国から来た客人三人は釘付けにされたまま、言葉を失っていた。
アレンはその美しさにため息をつき、デヴィッドは口を引きつらせて固まっている。吉野はなぜかずっと顔を伏せたままだった。
ロレンツォだけが、賑やかにてきぱきと執事に指示をだしている。
「駄目だ――。俺、もう、笑い死にしそう……」
吉野は必死に口元を押さえ、肩を震わせて声を殺し、笑っているのだ。
「きみがそうして元気でぴんぴんしてるってことは、彼、ここに来たことはないんだねぇ?」
デヴィッドの冷え冷えとした声がロレンツォに投げつけられる。
「べつに俺はあいつに見られたって平気だぞ。忠誠の証だろ?」
平然と、むしろ自慢げに言ってのけたロレンツォに、吉野は堪えきれずに声を立てて笑いだした。
「あんたたちの関係、ずっと不思議だったんだけどさ、これが原因だったんだな!」
むせ返りながら笑いを収め、「おい、やっぱりルベリーニ一族との関係は解消しよう。末代までの恥を晒されることになるぞ」と吉野は、きょとんとしているアレンの肩を組む。
「お前も、必死に逃げ回ったってのになぁ」
「え?」
その言葉にやっとアレンは思い当たり、しげしげと絵の中の姫を見つめた。
紅い薔薇の花冠を頂いた長く豊かな金の髪、純白の古風なドレス、青紫の瞳――。
「まさか、聖ジョージの日の……」
自分も米国に戻っていた二学年時を除く一学年、三学年生時にこのイベントの姫役に、と言われたことがある。そのどちらも当時の寮長が上手くやってくれて、なんとか断ることができた。でもまさか、あの兄に限って――。
アレンは脳裏に浮かんだその推察がどうしても信じられずに、怖々とすぐ横にある吉野の顔を振り返る。だが、さも可笑しそうな笑いを含んだその瞳を見て確信すると、きゅっと眉根を寄せ、ロレンツォに向かって怒気を含んだ声音で言い放った。
「捨ててください、今すぐに!」
「うわぁ! 相変わらず過激だな、お前は!」
吉野は完全にこの状態を楽しんでいるようだ。
「お前にどうこう言われる筋合いじゃない」
ロレンツォはいたって冷静に、だが威圧をかけて答えた。
「兄が見て喜ぶはずがないものを、見過ごしにはできません!」
いつもはぼんやり、そして、どこかおどおどしているのに、他人と接する時はとたんに氷の様に冷ややかになる。そんなアレンが、今自分に向けている瞳に宿した色彩に、ロレンツォは驚きのあまり目を瞠っていた。
ヘンリーと同じ瞳。一瞬にして燃えあがる空の色。
この滅多に表出されることのない内面の激しさは、ヘンリーと同じなのだ。
ロレンツォは、ふっと華やかに相好を崩した。
「分かった。すぐに取り外させよう。お前たちは俺の客人だからな。ここでの滞在が良いものになるように、できる限り要望は聞きいれてやる」
その言葉に、デヴィッドがピューと口笛を鳴らす。
「天下のルベリーニが折れるなんてね!」
「お前なぁ、人がせっかく、」
「それじゃあさぁ、やっぱりウフィツィ美術館の前に、サン・マルコ美術館とアカデミア美術館をいれてぇ、」
「だからそれじゃ、ウフィツィを見学する時間が少なすぎるだろ! わっからない奴だな、まったく!」
大声で再びキャンキャンと言い争いを始めた二人に、「なぁロニー、俺、腹減った」もうこれ以上動けない、とばかりにアレンの両肩に腕を回してのしかかりながら、吉野が、さも哀れっぽい声色で申し立てた。
デヴィッドとロレンツォの背中を不思議そうに目で追いながら、アレンは吉野に問いかけた。前を行く二人は先ほどからずっと、明日からのフェレンツェでの観光日程をどうするか、口角泡を飛ばしながら話し合っているのだ。見にいけるのなら順番なんて、と思うアレンには、何をそう言い争うまでになるのかが、今ひとつ理解できずにいる。
「ああ、あいつ、ぼろかすに言ってたもんな。相当好きなんだろうな」
吉野の目が笑う。
「考えてもみろよ、英国人だぞ。素直に好きなんて言う訳ないじゃん。あれは、悪口言えるほど、良く知っているって意味だよ。お前、そのまんまで受け取ってたの? ほんと、単純」
こっち側にいて良かった――。今、彼は絶対に唇の右端を持ちあげて、僕のことを笑っている!
右側にある吉野の動かない横顔をちらと見て、アレンは拗ねたように唇を尖らせた。
「ほら、ここがドゥオーモ広場だ。大聖堂、ジョットの鐘楼、それから洗礼堂」
振り返ったロレンツォが、一つ一つの建築物を指さして説明してくれている。白を基調として、緑、ピンクの大理石が幾何学模様で飾られ、赤褐色の丸屋根ののる複雑な美しさに、アレンは足を止め、さっきまでの膨れっ面を忘れて感嘆の声をあげる。
「観光は後からだぞ! 俺の家はすぐそこだから!」
ロレンツォは大きく腕を降って手招きし、大聖堂脇の道を横に曲がる。そのままずんずんと進みしばらくすると、レモン色の外壁の建物の前で足を止めた。
呼び鈴を押し、すぐに開かれたドアの内側は、外観からは想像もつかないほど広い玄関ホールだ。アラベスク模様の施された大理石の床から見上げる大階段には真紅の絨毯が敷かれ、中央の踊り場には大きな聖ゲオルギオスの絵が飾られている。立ちすくむ清楚な姫の足元にはゲオルギオスによって退治された龍の屍が横たわり、ゲオルギオスは、姫の足下に跪きその手を取っている。あまりお目にかかることのない構図だ。大抵は、龍に槍を突き立てるゲオルギオスと怯える姫が一般的な図なのだが。
ホールに一歩足を踏みいれるなり飛び込んできたその印象的な絵に、英国から来た客人三人は釘付けにされたまま、言葉を失っていた。
アレンはその美しさにため息をつき、デヴィッドは口を引きつらせて固まっている。吉野はなぜかずっと顔を伏せたままだった。
ロレンツォだけが、賑やかにてきぱきと執事に指示をだしている。
「駄目だ――。俺、もう、笑い死にしそう……」
吉野は必死に口元を押さえ、肩を震わせて声を殺し、笑っているのだ。
「きみがそうして元気でぴんぴんしてるってことは、彼、ここに来たことはないんだねぇ?」
デヴィッドの冷え冷えとした声がロレンツォに投げつけられる。
「べつに俺はあいつに見られたって平気だぞ。忠誠の証だろ?」
平然と、むしろ自慢げに言ってのけたロレンツォに、吉野は堪えきれずに声を立てて笑いだした。
「あんたたちの関係、ずっと不思議だったんだけどさ、これが原因だったんだな!」
むせ返りながら笑いを収め、「おい、やっぱりルベリーニ一族との関係は解消しよう。末代までの恥を晒されることになるぞ」と吉野は、きょとんとしているアレンの肩を組む。
「お前も、必死に逃げ回ったってのになぁ」
「え?」
その言葉にやっとアレンは思い当たり、しげしげと絵の中の姫を見つめた。
紅い薔薇の花冠を頂いた長く豊かな金の髪、純白の古風なドレス、青紫の瞳――。
「まさか、聖ジョージの日の……」
自分も米国に戻っていた二学年時を除く一学年、三学年生時にこのイベントの姫役に、と言われたことがある。そのどちらも当時の寮長が上手くやってくれて、なんとか断ることができた。でもまさか、あの兄に限って――。
アレンは脳裏に浮かんだその推察がどうしても信じられずに、怖々とすぐ横にある吉野の顔を振り返る。だが、さも可笑しそうな笑いを含んだその瞳を見て確信すると、きゅっと眉根を寄せ、ロレンツォに向かって怒気を含んだ声音で言い放った。
「捨ててください、今すぐに!」
「うわぁ! 相変わらず過激だな、お前は!」
吉野は完全にこの状態を楽しんでいるようだ。
「お前にどうこう言われる筋合いじゃない」
ロレンツォはいたって冷静に、だが威圧をかけて答えた。
「兄が見て喜ぶはずがないものを、見過ごしにはできません!」
いつもはぼんやり、そして、どこかおどおどしているのに、他人と接する時はとたんに氷の様に冷ややかになる。そんなアレンが、今自分に向けている瞳に宿した色彩に、ロレンツォは驚きのあまり目を瞠っていた。
ヘンリーと同じ瞳。一瞬にして燃えあがる空の色。
この滅多に表出されることのない内面の激しさは、ヘンリーと同じなのだ。
ロレンツォは、ふっと華やかに相好を崩した。
「分かった。すぐに取り外させよう。お前たちは俺の客人だからな。ここでの滞在が良いものになるように、できる限り要望は聞きいれてやる」
その言葉に、デヴィッドがピューと口笛を鳴らす。
「天下のルベリーニが折れるなんてね!」
「お前なぁ、人がせっかく、」
「それじゃあさぁ、やっぱりウフィツィ美術館の前に、サン・マルコ美術館とアカデミア美術館をいれてぇ、」
「だからそれじゃ、ウフィツィを見学する時間が少なすぎるだろ! わっからない奴だな、まったく!」
大声で再びキャンキャンと言い争いを始めた二人に、「なぁロニー、俺、腹減った」もうこれ以上動けない、とばかりにアレンの両肩に腕を回してのしかかりながら、吉野が、さも哀れっぽい声色で申し立てた。
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