胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 飛鳥は何も応えなかった。ただ、顔を覆う腕の下から覗く口許をぐっとひき締めただけだった。ヘンリーもまた、自分の愚かしい言葉を恥じて唇を噛んだ。

 こんな情けない恨みごとを今さら口にするなんて。飛鳥は自分の傍にいたくないだけであって、会社を離れるわけでも、事業を放りだすと言っているのでもないのに。

 今さら吉野と張りあってどうしようというのだ? 今まで一度たりとも、彼の代わりになりえたことなどないのに――。

 飛鳥は吉野を、父親を、自分の家ともいえる日本の『杜月』を守り、盛り立てていくためにここにいる。きっとそれが、彼の素直な本音に違いない。
 だが吉野は、そんな兄の想いに胡坐をかいて甘んじるような子ではない。彼は飛鳥唯一人を守るためだけに、世界を丸ごと動かそうとする。その事実を薄々悟っていながら、ずっと目を逸らし続けていた飛鳥ではないか。

 それをなぜ今になって言うのか? こうして自分に当てつけるのか? 

 ヘンリーは息を詰めたまま、TSの人工の月を映すガラス天井を見あげた。本物の星空にしか見えない、作りものの宇宙そらを。まるで自分と飛鳥の関係そのものだ。創った者にしか見分けることはできない本物そっくりの虚構。遠く、冷たく、そのくせ酷く懐かしく、甘い、偽りの世界。

 飛鳥の肯定の基準はいつも吉野で、吉野は好き勝手にしているように見せながら、その実、広大な柵を張り巡らせて飛鳥を囲いこみ、自分の手の内から決して放すことをしない。

 飛鳥を手中に収めているのは吉野であって、ヘンリーではない。

 その悔しさから、ヘンリーは口を閉ざしてこれ以上の反論をしなかった。飛鳥にその事実を突きつけること自体が嫌だったのだ。彼はヘンリーの手の内にあると、そう思ってくれている方がよほどマシだ。

 僕と吉野はよく似ている……。

 このどうしようもない独占欲が。この醜さを相手に悟られまいとする小賢しいプライドが。そのためにどれほど相手を苦しめていようと、解っていても手放すことができない身を掻きむしるような執着も――。


「アスカ」
 ヘンリーは先ほどまでとは打って変わった、柔らかな声音で呼びかける。

「すまない、僕の言い方が悪かったようだね。きみが日本に帰りたいのなら、そうしたって全然かまわないんだよ。誤解して欲しくないんだ。きみは自由だ。これまでもそうだったし、これからも。僕がきみやヨシノの行動を縛っていると感じていたのなら謝るよ。でも、それは誤解だと解ってほしい。僕にそんなつもりはなかったんだ」

 ヘンリーはソファーから滑りおりて、びっしりと苔むした地面に膝をつく。飛鳥の腕の下の、月明かりで一層青褪めて見える頬を伝う一筋の涙を指先でそっと掬う。

「きみとともに歩んでいたい。同じ夢を見ていたい。そんな僕の望みが、きみを束縛していたの?」

 飛鳥の唇がかすかに動いた。

 ごめん、ヘンリー。

 空気を震わせる。そんな気がしただけかもしれなかったが。

 ヘンリーはふわりと脱力して、横たわる飛鳥の胸の上に、そっと自分の頭を預けた。鼓動が皮膚を通じて伝わってくる。存在の希薄な飛鳥がここにいることの証明。この温もりこそが生きている証。

「僕はただ、きみの信頼が欲しいだけ」

 目を瞑り、ヘンリーは呟いた。

 自分には触れることすらできない思い出を宿す吉野の創りあげたこのしっとりと柔らかな子宮の中で、自分という人間の温もりこそが飛鳥の生きるこの世界の実在なのだと、知らしめたかった。

 飛鳥の守りたい吉野こそが虚像なのだ。彼はもう、かつてのような弱い、大人に翻弄されるがままの子どもではない。飛鳥の取り戻したい吉野は、もうこの世のどこにもいない。彼はただ認めることができないだけだ。そして、変わってゆく吉野を受けいれることができないだけなのだ。

 飛鳥はじっと動かなかった。浅い呼吸を繰り返すだけだった。


「ヘンリー、」
 やっと開かれた唇が彼の名を呼んだ。頭を起こしてヘンリーは「うん」と返事する。
「吉野は、きみを信頼している」
「解っているよ」
「でも、僕は、あいつが幸せだとは、とても思えないんだ」
「それはきみの決めることじゃないよ。幸か、不幸かなんて当人にしか判らない」

 飛鳥の言いたいことは、ヘンリーにも苦々しくも理解できた。吉野の幸不幸の基準は自分自身ではなく飛鳥なのだから。飛鳥が自分に満足できていないのならば、吉野も当然満足しないだろう。

「きみはもうそろそろ、自分自身の幸せの基準を持つべきじゃないかな。弟ではなく、家族でも、日本に残してきた『杜月』でも、亡くなられた方の残された想いでもない――、きみ自身のね。きみが大人にならないから、あの子はいつまでもきみを過保護に気遣うんだ」

 自分のことは棚あげだな、と内心苦笑しながら、ヘンリーは努めて優しく諭すように語りかけた。少しは聞く耳を持ってくれているのだろうか、と一挙手一投足、わずかな変化すら見逃すまいと飛鳥を凝視しながら。



 

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