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九章
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その日、携帯していたTSネクストがアレンを呼びだすことはなく、春の一日は緩やかにゆるゆると暮れていった。もちろん、何の連絡事項もなかったわけではない。吉野からは一両日中に戻る旨のメッセージが届き、彼をずいぶん安堵させてくれた。けれど午後から予定していた人工知能の取り組みが再開されなかったことで、アレンはその喜びを上回る懸念を抱いてしまっていたのだ。
そのうえ、夕食の席に飛鳥は着かないとマーカスから聞かされた。決して体調が悪いわけではなく、たんに仕事に集中したいらしい。だがそれは、「仕事を食事をしない言い訳に使わない」というこの家の暗黙の規則を、飛鳥はあえて無視したということだ。
仕事と言われては、様子を伺いに部屋を訪ねるわけにもいかないか、とアレンは眉根を寄せて押し黙ってしまった。一呼吸おいて、彼も同じく夕食は遠慮することをマーカスに伝えた。そして鬱屈した想いを抱えたまま、自分も自室へと踵を返した。
翌朝、「おはようございます」と食堂に入ったアレンを、いつもの面々が和やかに迎える。先に食卓についていた飛鳥は、普段と変わりなくサラの横にいる。彼女を挟んでケネスと屈託なく喋っている。
飛鳥は、ケネスのことを気にしていたのではないのか――。
一人悶々と悩んでいたアレンは、肩透かしを食らったような気がした。昨日垣間見た庭での二人、それに不可解だった飛鳥の挙動を思い返しては、僕なら平静ではいられない、とさながら自分のことのように一晩中あれやこれやと想い巡らせていたのだ。
しかし、こうして清廉潔白な人格者として慕われていたケネスと対座してみると、たかだか飛鳥の婚約者と二人でいたということくらいで、動揺する自分が狭量なのだ、と恥づかしさの方が勝ってくる。それに飛鳥は自分なんかとは違い、些細なことで下らぬ嫉妬心など持たない人だ、と今さらながらに心が納得する。
飛鳥を気づかうあまり、何か悩んでいるように見えた飛鳥が、たまたま見かけたこの二人のことで猜疑心に苦しんでいたのではないか、と甚だ手前勝手な妄想を膨らませてしまったのだ。だが、夜がいくら妄想を育んだところで、朝の光はたやすく真実を曝け出すもの――。
アレンは自分の思い込みに気づき、自然に安堵を含んだ苦笑を浮かべていた。
「朝から何をそんなに嬉しそうに、にやにやしてるの?」
そんなアレンを見とがめて、ケネスがからかうような声音で尋ねた。
「えっ、その――、ヨシノが、ようやく帰ってこられそうだって」
本人を目の前にして自分が膨らませてしまった妄想の話をするわけにもいかず、アレンは赤くなってしどろもどろに話しをすり替えた。
「あいつ、僕には一言もないよ。まったく何してんだか――。それで、ヘンリーも来るかな? 最近忙しいみたいで、二人とも、まるで話せてないんだ。まぁ、スペアがアップデートでこっちにいるから、本人が忙しいのかもしれないけどさ」
真面目に言っているのか、それとも皮肉なのか判断のつかない飛鳥の言い様に、アレンは困ったように小首を傾げた。
「どうでしょう? ヨシノは、兄の話はしていなかったので」
「ヘンリーは無理よ。今の案件が片づくまで手が離せないって言っていたもの」
サラの声に、カトラリーを握っていた飛鳥の手がふと止まる。だが、「そうなんだ」と残念そうに微笑んだだけで、飛鳥はすぐにまた視線を手許の皿に戻して黙々と食事を再開する。なんとなくそこで途切れてしまった会話を継ぐ者もなく、食堂はしんと静まっていた。
「アレン、もし特に予定がないのなら、この後、散歩につき合ってくれる?」
やがて早々と食事を終えたケネスがこの沈黙を破り、にこやかにアレンを見つめて言った。アレンは伺うように飛鳥に視線を走らせる。
「僕の方は気にしないで。ごめん。今日は――、今日も、スペアの方まで触れそうもないんだ」
申し訳なさそうに、飛鳥は肩をすくめてみせる。昨日、アレンをすっぽかしたことを、ようやく思いだしたらしい。
「ええ、わかりました」と、アレンは柔らかに微笑んで頷いた。
やはり飛鳥の頭は、新しく持ち込まれたらしい案件で占められていただけなのだ。ライラックの甘やかな香りに囲まれた庭に似あわない深刻な表情をしていたのも、そのせいだったのだ。そう理解してようやく胸のつかえが取れたのか、アレンはほっと息をついた。そして、機械的にこなしていただけの朝食に意識を向け、がぜん勢い良く頬張り始める。時間を惜しむように目玉焼きののったトーストを手早く切り分け、次々と口へ運んでお茶で流しこむ。
ケネスとの時間が持てるのなら――。
アレンは図書室に籠っては立体映像の相手をしてばかりいたので、思う以上にケネスと話せていなかった。そんな機会を持てたのは、飛鳥が熱をだして倒れたときくらいで――。あのときのように、兄の幼いころの思い出話をもっと聴きたい。そんな想いが、彼の口を忙しなく駆りたてている。
だがそれよりも、当面の問題についてケネスと話し合わなければならないのだ。彼は自分自身の問題を保留にしたままなのだから。あるいは、忙しさにかまけて逃げていたと言うべきか――。それを忘れているわけではないから、頭がぼんやりしてしまわないようにと、当面のエネルギー補給を、アレンは眼前の食事に求めていたのかもしれない。
そのうえ、夕食の席に飛鳥は着かないとマーカスから聞かされた。決して体調が悪いわけではなく、たんに仕事に集中したいらしい。だがそれは、「仕事を食事をしない言い訳に使わない」というこの家の暗黙の規則を、飛鳥はあえて無視したということだ。
仕事と言われては、様子を伺いに部屋を訪ねるわけにもいかないか、とアレンは眉根を寄せて押し黙ってしまった。一呼吸おいて、彼も同じく夕食は遠慮することをマーカスに伝えた。そして鬱屈した想いを抱えたまま、自分も自室へと踵を返した。
翌朝、「おはようございます」と食堂に入ったアレンを、いつもの面々が和やかに迎える。先に食卓についていた飛鳥は、普段と変わりなくサラの横にいる。彼女を挟んでケネスと屈託なく喋っている。
飛鳥は、ケネスのことを気にしていたのではないのか――。
一人悶々と悩んでいたアレンは、肩透かしを食らったような気がした。昨日垣間見た庭での二人、それに不可解だった飛鳥の挙動を思い返しては、僕なら平静ではいられない、とさながら自分のことのように一晩中あれやこれやと想い巡らせていたのだ。
しかし、こうして清廉潔白な人格者として慕われていたケネスと対座してみると、たかだか飛鳥の婚約者と二人でいたということくらいで、動揺する自分が狭量なのだ、と恥づかしさの方が勝ってくる。それに飛鳥は自分なんかとは違い、些細なことで下らぬ嫉妬心など持たない人だ、と今さらながらに心が納得する。
飛鳥を気づかうあまり、何か悩んでいるように見えた飛鳥が、たまたま見かけたこの二人のことで猜疑心に苦しんでいたのではないか、と甚だ手前勝手な妄想を膨らませてしまったのだ。だが、夜がいくら妄想を育んだところで、朝の光はたやすく真実を曝け出すもの――。
アレンは自分の思い込みに気づき、自然に安堵を含んだ苦笑を浮かべていた。
「朝から何をそんなに嬉しそうに、にやにやしてるの?」
そんなアレンを見とがめて、ケネスがからかうような声音で尋ねた。
「えっ、その――、ヨシノが、ようやく帰ってこられそうだって」
本人を目の前にして自分が膨らませてしまった妄想の話をするわけにもいかず、アレンは赤くなってしどろもどろに話しをすり替えた。
「あいつ、僕には一言もないよ。まったく何してんだか――。それで、ヘンリーも来るかな? 最近忙しいみたいで、二人とも、まるで話せてないんだ。まぁ、スペアがアップデートでこっちにいるから、本人が忙しいのかもしれないけどさ」
真面目に言っているのか、それとも皮肉なのか判断のつかない飛鳥の言い様に、アレンは困ったように小首を傾げた。
「どうでしょう? ヨシノは、兄の話はしていなかったので」
「ヘンリーは無理よ。今の案件が片づくまで手が離せないって言っていたもの」
サラの声に、カトラリーを握っていた飛鳥の手がふと止まる。だが、「そうなんだ」と残念そうに微笑んだだけで、飛鳥はすぐにまた視線を手許の皿に戻して黙々と食事を再開する。なんとなくそこで途切れてしまった会話を継ぐ者もなく、食堂はしんと静まっていた。
「アレン、もし特に予定がないのなら、この後、散歩につき合ってくれる?」
やがて早々と食事を終えたケネスがこの沈黙を破り、にこやかにアレンを見つめて言った。アレンは伺うように飛鳥に視線を走らせる。
「僕の方は気にしないで。ごめん。今日は――、今日も、スペアの方まで触れそうもないんだ」
申し訳なさそうに、飛鳥は肩をすくめてみせる。昨日、アレンをすっぽかしたことを、ようやく思いだしたらしい。
「ええ、わかりました」と、アレンは柔らかに微笑んで頷いた。
やはり飛鳥の頭は、新しく持ち込まれたらしい案件で占められていただけなのだ。ライラックの甘やかな香りに囲まれた庭に似あわない深刻な表情をしていたのも、そのせいだったのだ。そう理解してようやく胸のつかえが取れたのか、アレンはほっと息をついた。そして、機械的にこなしていただけの朝食に意識を向け、がぜん勢い良く頬張り始める。時間を惜しむように目玉焼きののったトーストを手早く切り分け、次々と口へ運んでお茶で流しこむ。
ケネスとの時間が持てるのなら――。
アレンは図書室に籠っては立体映像の相手をしてばかりいたので、思う以上にケネスと話せていなかった。そんな機会を持てたのは、飛鳥が熱をだして倒れたときくらいで――。あのときのように、兄の幼いころの思い出話をもっと聴きたい。そんな想いが、彼の口を忙しなく駆りたてている。
だがそれよりも、当面の問題についてケネスと話し合わなければならないのだ。彼は自分自身の問題を保留にしたままなのだから。あるいは、忙しさにかまけて逃げていたと言うべきか――。それを忘れているわけではないから、頭がぼんやりしてしまわないようにと、当面のエネルギー補給を、アレンは眼前の食事に求めていたのかもしれない。
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