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第一話:瑠璃色の夜会、裏切りの序章
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煌びやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に幾重にも反射し、無数の星屑を散りばめたかのようにきらめいている。
ここは、王都でも一、二を争う名門、オルコット侯爵家の夜会。
今宵もまた、選りすぐりの貴族たちが集い、優雅なワルツの調べに乗せて、甘やかな会話と社交の花を咲かせている。
その華やかな輪の中心で、ひときわ輝きを放つ一人の女性がいた。
アリアドネ・アシュフォード。
旧姓をオルコットという彼女は、このオルコット侯爵家の一人娘として生まれ、何不自由なく蝶よ花よと育てられた。
豊かな瑠璃色の髪は、熟練の侍女の手によって美しく結い上げられ、夜会の光を受けて艶やかに輝く。
同じ色の大きな瞳は、知性と優しさを湛え、見る者を惹きつけてやまない。
白い肌は陶器のようになめらかで、淡いピンク色のシルクのドレスが、彼女の若々しい美しさを一層引き立てていた。
今年で二十歳を迎えたアリアドネは、半年前、この国で最も権勢を誇るアシュフォード公爵家の若き当主、エリオット・アシュフォードと結婚したばかりだった。
政略結婚の色合いが濃いとはいえ、アリアドネは夫となるエリオットに淡い恋心を抱いていた。
初めて顔を合わせた日、緊張で俯くアリアドネに、エリオットは穏やかな笑みを向けてこう言ったのだ。
「アリアドネ嬢、君のような美しい人と結婚できるとは、私は幸運だ。これからよろしく頼む」
その優しい声と真摯な眼差しに、アリアドネの胸は高鳴った。
結婚してからの半年間は、夢のように幸せな日々だった。
エリオットはアリアドネを大切にし、公爵夫人としての公務も丁寧に教えてくれた。
夜には、広い寝台で逞しい腕に抱かれ、彼の熱い吐息を感じながら愛を囁かれる。
その度に、アリアドネは満たされた思いで胸がいっぱいになった。
(ああ、私はなんて幸せなのかしら……)
そんな幸福を噛み締めていたアリアドネの隣には、今宵も夫であるエリオットが寄り添っている。
彫刻のように端正な顔立ちに、アリアドネに向ける時だけに見せる、とろけるように甘い眼差し。
誰もが羨む、理想の夫婦。
少なくとも、アリアドネ自身は、そう信じて疑わなかった。
「アリアドネ、少し飲み物を取ってくるよ。何か欲しいものはあるかい。」
穏やかなテノールの声が、アリアドネの耳に心地よく響いた。
「まあ、エリオット様。ありがとうございます。私は大丈夫ですわ。どうぞごゆっくり。」
にっこりと微笑んで夫を見送る。
その背中を見つめるアリアドネの瞳には、揺るぎない信頼と愛情が溢れていた。
夫の姿が人波に紛れて見えなくなった頃、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
「アリアドネ様、今夜も一段とお美しいですわね。まるで夜空に輝く星のようです。」
柔らかな金髪を肩まで垂らし、人懐っこい笑顔を向けてきたのは、リディア・ウェルズ男爵令嬢。
アリアドネにとっては、物心ついた頃からの無二の親友であり、姉妹のように育ってきた存在だ。
嬉しいことも、悲しいことも、最初に打ち明けるのはいつもリディアだった。
アリアドネがエリオットとの結婚が決まった時も、自分のことのように喜んでくれた。
「まあ、リディア。あなたこそ、その新しいドレス、とても素敵よ。春の妖精みたい。」
アリアドネは心からの賛辞を贈る。
リディアが着ているのは、柔らかな若草色のドレスで、胸元には繊細な花の刺繍が施されている。
彼女の愛らしい雰囲気にとてもよく似合っていた。
「ありがとうございます。実はこのドレス、エリオット様が選んでくださったのですわ。先日、街で偶然お会いした時に、私に似合うだろうと。」
リディアは頬を染め、少しはにかみながらそう言った。
その言葉に、アリアドネの胸に、ちくりと小さな棘が刺さったような微かな痛みが走った。
(エリオット様が、リディアのドレスを……?)
夫が、自分の親友のドレスを選ぶ。
それは、少しだけ、アリアドネの心をざわつかせた。
だが、エリオットは誰に対しても親切で、面倒見が良い人だ。
リディアは妹のような存在だと、以前エリオットも言っていた。
きっと、ドレス選びに困っていたリディアに、親切心からアドバイスしただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、アリアドネは胸のざわつきを無理やり押し込めた。
「そうなのね。エリオット様は本当に優しい方だわ。」
努めて明るい声でそう言うと、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、本当に。アリアドネ様は、素晴らしい方とご結婚なさいましたね。」
その笑顔は、以前と何も変わらないように見えた。
アリアドネは、ほんの少し芽生えた疑念を、心の奥底へと沈めた。
愛する夫と、信頼する親友。
この二人が、自分を裏切るなど、万が一にもあり得ないことだと。
しかし、その夜。
アリアドネの信じていた世界は、音を立てて崩れ落ちることになる。
夜会も終わりに近づき、客たちが少しずつ帰り始める頃。
アリアドネは、少し疲れたので先に部屋に戻ろうと、エリオットに声をかけるために彼の姿を探した。
控えの間やテラスにも彼の姿はなく、侍従に尋ねると、どうやら書斎にいるらしいとのことだった。
(こんな時間に、書斎で何をなさっているのかしら。)
少し不思議に思いながらも、アリアドネは夫の書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉の前まで来た時、中から話し声が聞こえてきた。
それは紛れもなく、夫であるエリオットの声。
そして、もう一人。
甲高く、甘えるような女の声。
聞き慣れたその声に、アリアドネの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……)
震える指先で、そっと扉に触れる。
硬く閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだけ開いていた。
その僅かな隙間から、信じられない光景がアリアドネの目に飛び込んできた。
「ああ、エリオット様……もっと……あなたの全てを感じさせて……」
甘く蕩けるような声は、リディアのものだった。
彼女は、書斎の大きなデスクにもたれかかるようにして、エリオットの逞しい胸にその身を預けていた。
ドレスの肩紐はだらしなくずり落ち、白い肩があらわになっている。
そして、エリオットは、そのリディアの細い腰を力強く抱き寄せ、彼女の首筋に顔を埋めていた。
その光景は、まるで毒のようにアリアドネの全身に回り、思考を麻痺させた。
息ができない。
声も出ない。
ただ、目の前で繰り広げられる裏切りの光景が、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。
「リディア……ああ、リディア、愛している……アリアドネにはもう何の感情もない。お前だけが、私の心を癒してくれる。」
エリオットが囁く言葉は、鋭い刃となってアリアドネの心をズタズタに引き裂いた。
(何の感情も……ない……?)
あの優しかった日々は?
愛を囁き合った夜は?
全て、偽りだったというのだろうか。
アリアドネの美しい瑠璃色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
もう、我慢できなかった。
震える手で、勢いよく書斎の扉を開け放つ。
「な……何を……なさっているのですか……っ!」
絞り出すような声で叫ぶと、睦み合っていた二人は、驚愕に目を見開いてアリアドネを見た。
リディアは慌てて乱れた衣服を整え、エリオットの背中に隠れるように顔を伏せる。
しかし、エリオットの顔に浮かんだのは、後悔や罪悪感の色ではなかった。
むしろ、忌々しいものを見るかのような、冷たい侮蔑の表情だった。
「……見てしまったのか。まあいい、ちょうど話があると思っていたところだ。」
エリオットは少しも悪びれる様子なく、冷ややかに言い放った。
その声の冷たさに、アリアドネの心は凍り付いた。
「話……ですって……?エリオット様、あなたは……リディアと……!」
「ああ、そうだ。リディアとは愛し合っている。お前のような、人形のように感情の乏しい女にはもううんざりなんだよ。」
あまりの言葉に、アリアドネは言葉を失った。
人形のように感情が乏しい?
それは、あなたが望んだ淑やかな妻の姿ではなかったのか。
「そ、そんな……嘘でしょう……?私たちは、愛し合っていたはずじゃ……」
「愛だと?お前が一方的にそう思い込んでいただけだろう。アシュフォード公爵夫人という地位が欲しかっただけのお前と、真実の愛など育めるはずがない。」
エリオットの言葉は、さらにアリアドネの心を抉る。
その時、エリオットの背後から、リディアが勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を覗かせた。
その瞳には、かつてアリアドネに向けていた親愛の情など、もはや欠片も残ってはいなかった。
そこにあるのは、ただただ、アリアドネを見下す冷たい優越感だけ。
「アリアドネ様、お可哀想に。エリオット様は、もうずっと前から私のものだったのですよ?あなたは、ただのお飾りの奥方様に過ぎなかったのですわ。」
リディアの言葉が、最後の一撃となった。
信頼していた親友からの、残酷な裏切り。
アリアドネの足元が、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
立っているのもやっとだった。
「お前のような女はもうアシュフォード家には不要だ。今すぐこの家から出ていけ。荷物をまとめる時間くらいはくれてやる。」
エリオットはそう言い捨てると、リディアの肩を抱き、アリアドネに背を向けた。
まるで、汚物でも見るかのような目で。
降りしきる冷たい雨の中、アリアドネは、ほんの僅かな手荷物だけを持ち、慣れ親しんだオルコット侯爵家の門を後にした。
いや、正確には、アシュフォード公爵家の屋敷を追い出されたのだ。
たった数時間前までは、幸福の絶頂にいたはずなのに。
冷たい雨が、アリアドネの頬を容赦なく打ち付ける。
それが涙なのか雨なのか、もうアリアドネ自身にも分からなかった。
(許さない……エリオット様も……リディアも……絶対に許さない……!)
絶望の淵に立たされながらも、アリアドネの瑠璃色の瞳の奥には、まだ消えない強い光が宿っていた。
ここは、王都でも一、二を争う名門、オルコット侯爵家の夜会。
今宵もまた、選りすぐりの貴族たちが集い、優雅なワルツの調べに乗せて、甘やかな会話と社交の花を咲かせている。
その華やかな輪の中心で、ひときわ輝きを放つ一人の女性がいた。
アリアドネ・アシュフォード。
旧姓をオルコットという彼女は、このオルコット侯爵家の一人娘として生まれ、何不自由なく蝶よ花よと育てられた。
豊かな瑠璃色の髪は、熟練の侍女の手によって美しく結い上げられ、夜会の光を受けて艶やかに輝く。
同じ色の大きな瞳は、知性と優しさを湛え、見る者を惹きつけてやまない。
白い肌は陶器のようになめらかで、淡いピンク色のシルクのドレスが、彼女の若々しい美しさを一層引き立てていた。
今年で二十歳を迎えたアリアドネは、半年前、この国で最も権勢を誇るアシュフォード公爵家の若き当主、エリオット・アシュフォードと結婚したばかりだった。
政略結婚の色合いが濃いとはいえ、アリアドネは夫となるエリオットに淡い恋心を抱いていた。
初めて顔を合わせた日、緊張で俯くアリアドネに、エリオットは穏やかな笑みを向けてこう言ったのだ。
「アリアドネ嬢、君のような美しい人と結婚できるとは、私は幸運だ。これからよろしく頼む」
その優しい声と真摯な眼差しに、アリアドネの胸は高鳴った。
結婚してからの半年間は、夢のように幸せな日々だった。
エリオットはアリアドネを大切にし、公爵夫人としての公務も丁寧に教えてくれた。
夜には、広い寝台で逞しい腕に抱かれ、彼の熱い吐息を感じながら愛を囁かれる。
その度に、アリアドネは満たされた思いで胸がいっぱいになった。
(ああ、私はなんて幸せなのかしら……)
そんな幸福を噛み締めていたアリアドネの隣には、今宵も夫であるエリオットが寄り添っている。
彫刻のように端正な顔立ちに、アリアドネに向ける時だけに見せる、とろけるように甘い眼差し。
誰もが羨む、理想の夫婦。
少なくとも、アリアドネ自身は、そう信じて疑わなかった。
「アリアドネ、少し飲み物を取ってくるよ。何か欲しいものはあるかい。」
穏やかなテノールの声が、アリアドネの耳に心地よく響いた。
「まあ、エリオット様。ありがとうございます。私は大丈夫ですわ。どうぞごゆっくり。」
にっこりと微笑んで夫を見送る。
その背中を見つめるアリアドネの瞳には、揺るぎない信頼と愛情が溢れていた。
夫の姿が人波に紛れて見えなくなった頃、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
「アリアドネ様、今夜も一段とお美しいですわね。まるで夜空に輝く星のようです。」
柔らかな金髪を肩まで垂らし、人懐っこい笑顔を向けてきたのは、リディア・ウェルズ男爵令嬢。
アリアドネにとっては、物心ついた頃からの無二の親友であり、姉妹のように育ってきた存在だ。
嬉しいことも、悲しいことも、最初に打ち明けるのはいつもリディアだった。
アリアドネがエリオットとの結婚が決まった時も、自分のことのように喜んでくれた。
「まあ、リディア。あなたこそ、その新しいドレス、とても素敵よ。春の妖精みたい。」
アリアドネは心からの賛辞を贈る。
リディアが着ているのは、柔らかな若草色のドレスで、胸元には繊細な花の刺繍が施されている。
彼女の愛らしい雰囲気にとてもよく似合っていた。
「ありがとうございます。実はこのドレス、エリオット様が選んでくださったのですわ。先日、街で偶然お会いした時に、私に似合うだろうと。」
リディアは頬を染め、少しはにかみながらそう言った。
その言葉に、アリアドネの胸に、ちくりと小さな棘が刺さったような微かな痛みが走った。
(エリオット様が、リディアのドレスを……?)
夫が、自分の親友のドレスを選ぶ。
それは、少しだけ、アリアドネの心をざわつかせた。
だが、エリオットは誰に対しても親切で、面倒見が良い人だ。
リディアは妹のような存在だと、以前エリオットも言っていた。
きっと、ドレス選びに困っていたリディアに、親切心からアドバイスしただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、アリアドネは胸のざわつきを無理やり押し込めた。
「そうなのね。エリオット様は本当に優しい方だわ。」
努めて明るい声でそう言うと、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、本当に。アリアドネ様は、素晴らしい方とご結婚なさいましたね。」
その笑顔は、以前と何も変わらないように見えた。
アリアドネは、ほんの少し芽生えた疑念を、心の奥底へと沈めた。
愛する夫と、信頼する親友。
この二人が、自分を裏切るなど、万が一にもあり得ないことだと。
しかし、その夜。
アリアドネの信じていた世界は、音を立てて崩れ落ちることになる。
夜会も終わりに近づき、客たちが少しずつ帰り始める頃。
アリアドネは、少し疲れたので先に部屋に戻ろうと、エリオットに声をかけるために彼の姿を探した。
控えの間やテラスにも彼の姿はなく、侍従に尋ねると、どうやら書斎にいるらしいとのことだった。
(こんな時間に、書斎で何をなさっているのかしら。)
少し不思議に思いながらも、アリアドネは夫の書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉の前まで来た時、中から話し声が聞こえてきた。
それは紛れもなく、夫であるエリオットの声。
そして、もう一人。
甲高く、甘えるような女の声。
聞き慣れたその声に、アリアドネの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……)
震える指先で、そっと扉に触れる。
硬く閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだけ開いていた。
その僅かな隙間から、信じられない光景がアリアドネの目に飛び込んできた。
「ああ、エリオット様……もっと……あなたの全てを感じさせて……」
甘く蕩けるような声は、リディアのものだった。
彼女は、書斎の大きなデスクにもたれかかるようにして、エリオットの逞しい胸にその身を預けていた。
ドレスの肩紐はだらしなくずり落ち、白い肩があらわになっている。
そして、エリオットは、そのリディアの細い腰を力強く抱き寄せ、彼女の首筋に顔を埋めていた。
その光景は、まるで毒のようにアリアドネの全身に回り、思考を麻痺させた。
息ができない。
声も出ない。
ただ、目の前で繰り広げられる裏切りの光景が、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。
「リディア……ああ、リディア、愛している……アリアドネにはもう何の感情もない。お前だけが、私の心を癒してくれる。」
エリオットが囁く言葉は、鋭い刃となってアリアドネの心をズタズタに引き裂いた。
(何の感情も……ない……?)
あの優しかった日々は?
愛を囁き合った夜は?
全て、偽りだったというのだろうか。
アリアドネの美しい瑠璃色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
もう、我慢できなかった。
震える手で、勢いよく書斎の扉を開け放つ。
「な……何を……なさっているのですか……っ!」
絞り出すような声で叫ぶと、睦み合っていた二人は、驚愕に目を見開いてアリアドネを見た。
リディアは慌てて乱れた衣服を整え、エリオットの背中に隠れるように顔を伏せる。
しかし、エリオットの顔に浮かんだのは、後悔や罪悪感の色ではなかった。
むしろ、忌々しいものを見るかのような、冷たい侮蔑の表情だった。
「……見てしまったのか。まあいい、ちょうど話があると思っていたところだ。」
エリオットは少しも悪びれる様子なく、冷ややかに言い放った。
その声の冷たさに、アリアドネの心は凍り付いた。
「話……ですって……?エリオット様、あなたは……リディアと……!」
「ああ、そうだ。リディアとは愛し合っている。お前のような、人形のように感情の乏しい女にはもううんざりなんだよ。」
あまりの言葉に、アリアドネは言葉を失った。
人形のように感情が乏しい?
それは、あなたが望んだ淑やかな妻の姿ではなかったのか。
「そ、そんな……嘘でしょう……?私たちは、愛し合っていたはずじゃ……」
「愛だと?お前が一方的にそう思い込んでいただけだろう。アシュフォード公爵夫人という地位が欲しかっただけのお前と、真実の愛など育めるはずがない。」
エリオットの言葉は、さらにアリアドネの心を抉る。
その時、エリオットの背後から、リディアが勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を覗かせた。
その瞳には、かつてアリアドネに向けていた親愛の情など、もはや欠片も残ってはいなかった。
そこにあるのは、ただただ、アリアドネを見下す冷たい優越感だけ。
「アリアドネ様、お可哀想に。エリオット様は、もうずっと前から私のものだったのですよ?あなたは、ただのお飾りの奥方様に過ぎなかったのですわ。」
リディアの言葉が、最後の一撃となった。
信頼していた親友からの、残酷な裏切り。
アリアドネの足元が、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
立っているのもやっとだった。
「お前のような女はもうアシュフォード家には不要だ。今すぐこの家から出ていけ。荷物をまとめる時間くらいはくれてやる。」
エリオットはそう言い捨てると、リディアの肩を抱き、アリアドネに背を向けた。
まるで、汚物でも見るかのような目で。
降りしきる冷たい雨の中、アリアドネは、ほんの僅かな手荷物だけを持ち、慣れ親しんだオルコット侯爵家の門を後にした。
いや、正確には、アシュフォード公爵家の屋敷を追い出されたのだ。
たった数時間前までは、幸福の絶頂にいたはずなのに。
冷たい雨が、アリアドネの頬を容赦なく打ち付ける。
それが涙なのか雨なのか、もうアリアドネ自身にも分からなかった。
(許さない……エリオット様も……リディアも……絶対に許さない……!)
絶望の淵に立たされながらも、アリアドネの瑠璃色の瞳の奥には、まだ消えない強い光が宿っていた。
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