1 / 26
第一話:瑠璃色の夜会、裏切りの序章
しおりを挟む
煌びやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に幾重にも反射し、無数の星屑を散りばめたかのようにきらめいている。
ここは、王都でも一、二を争う名門、オルコット侯爵家の夜会。
今宵もまた、選りすぐりの貴族たちが集い、優雅なワルツの調べに乗せて、甘やかな会話と社交の花を咲かせている。
その華やかな輪の中心で、ひときわ輝きを放つ一人の女性がいた。
アリアドネ・アシュフォード。
旧姓をオルコットという彼女は、このオルコット侯爵家の一人娘として生まれ、何不自由なく蝶よ花よと育てられた。
豊かな瑠璃色の髪は、熟練の侍女の手によって美しく結い上げられ、夜会の光を受けて艶やかに輝く。
同じ色の大きな瞳は、知性と優しさを湛え、見る者を惹きつけてやまない。
白い肌は陶器のようになめらかで、淡いピンク色のシルクのドレスが、彼女の若々しい美しさを一層引き立てていた。
今年で二十歳を迎えたアリアドネは、半年前、この国で最も権勢を誇るアシュフォード公爵家の若き当主、エリオット・アシュフォードと結婚したばかりだった。
政略結婚の色合いが濃いとはいえ、アリアドネは夫となるエリオットに淡い恋心を抱いていた。
初めて顔を合わせた日、緊張で俯くアリアドネに、エリオットは穏やかな笑みを向けてこう言ったのだ。
「アリアドネ嬢、君のような美しい人と結婚できるとは、私は幸運だ。これからよろしく頼む」
その優しい声と真摯な眼差しに、アリアドネの胸は高鳴った。
結婚してからの半年間は、夢のように幸せな日々だった。
エリオットはアリアドネを大切にし、公爵夫人としての公務も丁寧に教えてくれた。
夜には、広い寝台で逞しい腕に抱かれ、彼の熱い吐息を感じながら愛を囁かれる。
その度に、アリアドネは満たされた思いで胸がいっぱいになった。
(ああ、私はなんて幸せなのかしら……)
そんな幸福を噛み締めていたアリアドネの隣には、今宵も夫であるエリオットが寄り添っている。
彫刻のように端正な顔立ちに、アリアドネに向ける時だけに見せる、とろけるように甘い眼差し。
誰もが羨む、理想の夫婦。
少なくとも、アリアドネ自身は、そう信じて疑わなかった。
「アリアドネ、少し飲み物を取ってくるよ。何か欲しいものはあるかい。」
穏やかなテノールの声が、アリアドネの耳に心地よく響いた。
「まあ、エリオット様。ありがとうございます。私は大丈夫ですわ。どうぞごゆっくり。」
にっこりと微笑んで夫を見送る。
その背中を見つめるアリアドネの瞳には、揺るぎない信頼と愛情が溢れていた。
夫の姿が人波に紛れて見えなくなった頃、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
「アリアドネ様、今夜も一段とお美しいですわね。まるで夜空に輝く星のようです。」
柔らかな金髪を肩まで垂らし、人懐っこい笑顔を向けてきたのは、リディア・ウェルズ男爵令嬢。
アリアドネにとっては、物心ついた頃からの無二の親友であり、姉妹のように育ってきた存在だ。
嬉しいことも、悲しいことも、最初に打ち明けるのはいつもリディアだった。
アリアドネがエリオットとの結婚が決まった時も、自分のことのように喜んでくれた。
「まあ、リディア。あなたこそ、その新しいドレス、とても素敵よ。春の妖精みたい。」
アリアドネは心からの賛辞を贈る。
リディアが着ているのは、柔らかな若草色のドレスで、胸元には繊細な花の刺繍が施されている。
彼女の愛らしい雰囲気にとてもよく似合っていた。
「ありがとうございます。実はこのドレス、エリオット様が選んでくださったのですわ。先日、街で偶然お会いした時に、私に似合うだろうと。」
リディアは頬を染め、少しはにかみながらそう言った。
その言葉に、アリアドネの胸に、ちくりと小さな棘が刺さったような微かな痛みが走った。
(エリオット様が、リディアのドレスを……?)
夫が、自分の親友のドレスを選ぶ。
それは、少しだけ、アリアドネの心をざわつかせた。
だが、エリオットは誰に対しても親切で、面倒見が良い人だ。
リディアは妹のような存在だと、以前エリオットも言っていた。
きっと、ドレス選びに困っていたリディアに、親切心からアドバイスしただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、アリアドネは胸のざわつきを無理やり押し込めた。
「そうなのね。エリオット様は本当に優しい方だわ。」
努めて明るい声でそう言うと、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、本当に。アリアドネ様は、素晴らしい方とご結婚なさいましたね。」
その笑顔は、以前と何も変わらないように見えた。
アリアドネは、ほんの少し芽生えた疑念を、心の奥底へと沈めた。
愛する夫と、信頼する親友。
この二人が、自分を裏切るなど、万が一にもあり得ないことだと。
しかし、その夜。
アリアドネの信じていた世界は、音を立てて崩れ落ちることになる。
夜会も終わりに近づき、客たちが少しずつ帰り始める頃。
アリアドネは、少し疲れたので先に部屋に戻ろうと、エリオットに声をかけるために彼の姿を探した。
控えの間やテラスにも彼の姿はなく、侍従に尋ねると、どうやら書斎にいるらしいとのことだった。
(こんな時間に、書斎で何をなさっているのかしら。)
少し不思議に思いながらも、アリアドネは夫の書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉の前まで来た時、中から話し声が聞こえてきた。
それは紛れもなく、夫であるエリオットの声。
そして、もう一人。
甲高く、甘えるような女の声。
聞き慣れたその声に、アリアドネの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……)
震える指先で、そっと扉に触れる。
硬く閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだけ開いていた。
その僅かな隙間から、信じられない光景がアリアドネの目に飛び込んできた。
「ああ、エリオット様……もっと……あなたの全てを感じさせて……」
甘く蕩けるような声は、リディアのものだった。
彼女は、書斎の大きなデスクにもたれかかるようにして、エリオットの逞しい胸にその身を預けていた。
ドレスの肩紐はだらしなくずり落ち、白い肩があらわになっている。
そして、エリオットは、そのリディアの細い腰を力強く抱き寄せ、彼女の首筋に顔を埋めていた。
その光景は、まるで毒のようにアリアドネの全身に回り、思考を麻痺させた。
息ができない。
声も出ない。
ただ、目の前で繰り広げられる裏切りの光景が、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。
「リディア……ああ、リディア、愛している……アリアドネにはもう何の感情もない。お前だけが、私の心を癒してくれる。」
エリオットが囁く言葉は、鋭い刃となってアリアドネの心をズタズタに引き裂いた。
(何の感情も……ない……?)
あの優しかった日々は?
愛を囁き合った夜は?
全て、偽りだったというのだろうか。
アリアドネの美しい瑠璃色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
もう、我慢できなかった。
震える手で、勢いよく書斎の扉を開け放つ。
「な……何を……なさっているのですか……っ!」
絞り出すような声で叫ぶと、睦み合っていた二人は、驚愕に目を見開いてアリアドネを見た。
リディアは慌てて乱れた衣服を整え、エリオットの背中に隠れるように顔を伏せる。
しかし、エリオットの顔に浮かんだのは、後悔や罪悪感の色ではなかった。
むしろ、忌々しいものを見るかのような、冷たい侮蔑の表情だった。
「……見てしまったのか。まあいい、ちょうど話があると思っていたところだ。」
エリオットは少しも悪びれる様子なく、冷ややかに言い放った。
その声の冷たさに、アリアドネの心は凍り付いた。
「話……ですって……?エリオット様、あなたは……リディアと……!」
「ああ、そうだ。リディアとは愛し合っている。お前のような、人形のように感情の乏しい女にはもううんざりなんだよ。」
あまりの言葉に、アリアドネは言葉を失った。
人形のように感情が乏しい?
それは、あなたが望んだ淑やかな妻の姿ではなかったのか。
「そ、そんな……嘘でしょう……?私たちは、愛し合っていたはずじゃ……」
「愛だと?お前が一方的にそう思い込んでいただけだろう。アシュフォード公爵夫人という地位が欲しかっただけのお前と、真実の愛など育めるはずがない。」
エリオットの言葉は、さらにアリアドネの心を抉る。
その時、エリオットの背後から、リディアが勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を覗かせた。
その瞳には、かつてアリアドネに向けていた親愛の情など、もはや欠片も残ってはいなかった。
そこにあるのは、ただただ、アリアドネを見下す冷たい優越感だけ。
「アリアドネ様、お可哀想に。エリオット様は、もうずっと前から私のものだったのですよ?あなたは、ただのお飾りの奥方様に過ぎなかったのですわ。」
リディアの言葉が、最後の一撃となった。
信頼していた親友からの、残酷な裏切り。
アリアドネの足元が、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
立っているのもやっとだった。
「お前のような女はもうアシュフォード家には不要だ。今すぐこの家から出ていけ。荷物をまとめる時間くらいはくれてやる。」
エリオットはそう言い捨てると、リディアの肩を抱き、アリアドネに背を向けた。
まるで、汚物でも見るかのような目で。
降りしきる冷たい雨の中、アリアドネは、ほんの僅かな手荷物だけを持ち、慣れ親しんだオルコット侯爵家の門を後にした。
いや、正確には、アシュフォード公爵家の屋敷を追い出されたのだ。
たった数時間前までは、幸福の絶頂にいたはずなのに。
冷たい雨が、アリアドネの頬を容赦なく打ち付ける。
それが涙なのか雨なのか、もうアリアドネ自身にも分からなかった。
(許さない……エリオット様も……リディアも……絶対に許さない……!)
絶望の淵に立たされながらも、アリアドネの瑠璃色の瞳の奥には、まだ消えない強い光が宿っていた。
ここは、王都でも一、二を争う名門、オルコット侯爵家の夜会。
今宵もまた、選りすぐりの貴族たちが集い、優雅なワルツの調べに乗せて、甘やかな会話と社交の花を咲かせている。
その華やかな輪の中心で、ひときわ輝きを放つ一人の女性がいた。
アリアドネ・アシュフォード。
旧姓をオルコットという彼女は、このオルコット侯爵家の一人娘として生まれ、何不自由なく蝶よ花よと育てられた。
豊かな瑠璃色の髪は、熟練の侍女の手によって美しく結い上げられ、夜会の光を受けて艶やかに輝く。
同じ色の大きな瞳は、知性と優しさを湛え、見る者を惹きつけてやまない。
白い肌は陶器のようになめらかで、淡いピンク色のシルクのドレスが、彼女の若々しい美しさを一層引き立てていた。
今年で二十歳を迎えたアリアドネは、半年前、この国で最も権勢を誇るアシュフォード公爵家の若き当主、エリオット・アシュフォードと結婚したばかりだった。
政略結婚の色合いが濃いとはいえ、アリアドネは夫となるエリオットに淡い恋心を抱いていた。
初めて顔を合わせた日、緊張で俯くアリアドネに、エリオットは穏やかな笑みを向けてこう言ったのだ。
「アリアドネ嬢、君のような美しい人と結婚できるとは、私は幸運だ。これからよろしく頼む」
その優しい声と真摯な眼差しに、アリアドネの胸は高鳴った。
結婚してからの半年間は、夢のように幸せな日々だった。
エリオットはアリアドネを大切にし、公爵夫人としての公務も丁寧に教えてくれた。
夜には、広い寝台で逞しい腕に抱かれ、彼の熱い吐息を感じながら愛を囁かれる。
その度に、アリアドネは満たされた思いで胸がいっぱいになった。
(ああ、私はなんて幸せなのかしら……)
そんな幸福を噛み締めていたアリアドネの隣には、今宵も夫であるエリオットが寄り添っている。
彫刻のように端正な顔立ちに、アリアドネに向ける時だけに見せる、とろけるように甘い眼差し。
誰もが羨む、理想の夫婦。
少なくとも、アリアドネ自身は、そう信じて疑わなかった。
「アリアドネ、少し飲み物を取ってくるよ。何か欲しいものはあるかい。」
穏やかなテノールの声が、アリアドネの耳に心地よく響いた。
「まあ、エリオット様。ありがとうございます。私は大丈夫ですわ。どうぞごゆっくり。」
にっこりと微笑んで夫を見送る。
その背中を見つめるアリアドネの瞳には、揺るぎない信頼と愛情が溢れていた。
夫の姿が人波に紛れて見えなくなった頃、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
「アリアドネ様、今夜も一段とお美しいですわね。まるで夜空に輝く星のようです。」
柔らかな金髪を肩まで垂らし、人懐っこい笑顔を向けてきたのは、リディア・ウェルズ男爵令嬢。
アリアドネにとっては、物心ついた頃からの無二の親友であり、姉妹のように育ってきた存在だ。
嬉しいことも、悲しいことも、最初に打ち明けるのはいつもリディアだった。
アリアドネがエリオットとの結婚が決まった時も、自分のことのように喜んでくれた。
「まあ、リディア。あなたこそ、その新しいドレス、とても素敵よ。春の妖精みたい。」
アリアドネは心からの賛辞を贈る。
リディアが着ているのは、柔らかな若草色のドレスで、胸元には繊細な花の刺繍が施されている。
彼女の愛らしい雰囲気にとてもよく似合っていた。
「ありがとうございます。実はこのドレス、エリオット様が選んでくださったのですわ。先日、街で偶然お会いした時に、私に似合うだろうと。」
リディアは頬を染め、少しはにかみながらそう言った。
その言葉に、アリアドネの胸に、ちくりと小さな棘が刺さったような微かな痛みが走った。
(エリオット様が、リディアのドレスを……?)
夫が、自分の親友のドレスを選ぶ。
それは、少しだけ、アリアドネの心をざわつかせた。
だが、エリオットは誰に対しても親切で、面倒見が良い人だ。
リディアは妹のような存在だと、以前エリオットも言っていた。
きっと、ドレス選びに困っていたリディアに、親切心からアドバイスしただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、アリアドネは胸のざわつきを無理やり押し込めた。
「そうなのね。エリオット様は本当に優しい方だわ。」
努めて明るい声でそう言うと、リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、本当に。アリアドネ様は、素晴らしい方とご結婚なさいましたね。」
その笑顔は、以前と何も変わらないように見えた。
アリアドネは、ほんの少し芽生えた疑念を、心の奥底へと沈めた。
愛する夫と、信頼する親友。
この二人が、自分を裏切るなど、万が一にもあり得ないことだと。
しかし、その夜。
アリアドネの信じていた世界は、音を立てて崩れ落ちることになる。
夜会も終わりに近づき、客たちが少しずつ帰り始める頃。
アリアドネは、少し疲れたので先に部屋に戻ろうと、エリオットに声をかけるために彼の姿を探した。
控えの間やテラスにも彼の姿はなく、侍従に尋ねると、どうやら書斎にいるらしいとのことだった。
(こんな時間に、書斎で何をなさっているのかしら。)
少し不思議に思いながらも、アリアドネは夫の書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉の前まで来た時、中から話し声が聞こえてきた。
それは紛れもなく、夫であるエリオットの声。
そして、もう一人。
甲高く、甘えるような女の声。
聞き慣れたその声に、アリアドネの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……)
震える指先で、そっと扉に触れる。
硬く閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだけ開いていた。
その僅かな隙間から、信じられない光景がアリアドネの目に飛び込んできた。
「ああ、エリオット様……もっと……あなたの全てを感じさせて……」
甘く蕩けるような声は、リディアのものだった。
彼女は、書斎の大きなデスクにもたれかかるようにして、エリオットの逞しい胸にその身を預けていた。
ドレスの肩紐はだらしなくずり落ち、白い肩があらわになっている。
そして、エリオットは、そのリディアの細い腰を力強く抱き寄せ、彼女の首筋に顔を埋めていた。
その光景は、まるで毒のようにアリアドネの全身に回り、思考を麻痺させた。
息ができない。
声も出ない。
ただ、目の前で繰り広げられる裏切りの光景が、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。
「リディア……ああ、リディア、愛している……アリアドネにはもう何の感情もない。お前だけが、私の心を癒してくれる。」
エリオットが囁く言葉は、鋭い刃となってアリアドネの心をズタズタに引き裂いた。
(何の感情も……ない……?)
あの優しかった日々は?
愛を囁き合った夜は?
全て、偽りだったというのだろうか。
アリアドネの美しい瑠璃色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
もう、我慢できなかった。
震える手で、勢いよく書斎の扉を開け放つ。
「な……何を……なさっているのですか……っ!」
絞り出すような声で叫ぶと、睦み合っていた二人は、驚愕に目を見開いてアリアドネを見た。
リディアは慌てて乱れた衣服を整え、エリオットの背中に隠れるように顔を伏せる。
しかし、エリオットの顔に浮かんだのは、後悔や罪悪感の色ではなかった。
むしろ、忌々しいものを見るかのような、冷たい侮蔑の表情だった。
「……見てしまったのか。まあいい、ちょうど話があると思っていたところだ。」
エリオットは少しも悪びれる様子なく、冷ややかに言い放った。
その声の冷たさに、アリアドネの心は凍り付いた。
「話……ですって……?エリオット様、あなたは……リディアと……!」
「ああ、そうだ。リディアとは愛し合っている。お前のような、人形のように感情の乏しい女にはもううんざりなんだよ。」
あまりの言葉に、アリアドネは言葉を失った。
人形のように感情が乏しい?
それは、あなたが望んだ淑やかな妻の姿ではなかったのか。
「そ、そんな……嘘でしょう……?私たちは、愛し合っていたはずじゃ……」
「愛だと?お前が一方的にそう思い込んでいただけだろう。アシュフォード公爵夫人という地位が欲しかっただけのお前と、真実の愛など育めるはずがない。」
エリオットの言葉は、さらにアリアドネの心を抉る。
その時、エリオットの背後から、リディアが勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を覗かせた。
その瞳には、かつてアリアドネに向けていた親愛の情など、もはや欠片も残ってはいなかった。
そこにあるのは、ただただ、アリアドネを見下す冷たい優越感だけ。
「アリアドネ様、お可哀想に。エリオット様は、もうずっと前から私のものだったのですよ?あなたは、ただのお飾りの奥方様に過ぎなかったのですわ。」
リディアの言葉が、最後の一撃となった。
信頼していた親友からの、残酷な裏切り。
アリアドネの足元が、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
立っているのもやっとだった。
「お前のような女はもうアシュフォード家には不要だ。今すぐこの家から出ていけ。荷物をまとめる時間くらいはくれてやる。」
エリオットはそう言い捨てると、リディアの肩を抱き、アリアドネに背を向けた。
まるで、汚物でも見るかのような目で。
降りしきる冷たい雨の中、アリアドネは、ほんの僅かな手荷物だけを持ち、慣れ親しんだオルコット侯爵家の門を後にした。
いや、正確には、アシュフォード公爵家の屋敷を追い出されたのだ。
たった数時間前までは、幸福の絶頂にいたはずなのに。
冷たい雨が、アリアドネの頬を容赦なく打ち付ける。
それが涙なのか雨なのか、もうアリアドネ自身にも分からなかった。
(許さない……エリオット様も……リディアも……絶対に許さない……!)
絶望の淵に立たされながらも、アリアドネの瑠璃色の瞳の奥には、まだ消えない強い光が宿っていた。
321
あなたにおすすめの小説
実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~
空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」
氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。
「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」
ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。
成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
平凡な伯爵令嬢は平凡な結婚がしたいだけ……それすら贅沢なのですか!?
Hibah
恋愛
姉のソフィアは幼い頃から優秀で、両親から溺愛されていた。 一方で私エミリーは健康が取り柄なくらいで、伯爵令嬢なのに贅沢知らず……。 優秀な姉みたいになりたいと思ったこともあったけど、ならなくて正解だった。 姉の本性を知っているのは私だけ……。ある日、姉は王子様に婚約破棄された。 平凡な私は平凡な結婚をしてつつましく暮らしますよ……それすら贅沢なのですか!?
復縁は絶対に受け入れません ~婚約破棄された有能令嬢は、幸せな日々を満喫しています~
水空 葵
恋愛
伯爵令嬢のクラリスは、婚約者のネイサンを支えるため、幼い頃から血の滲むような努力を重ねてきた。社交はもちろん、本来ならしなくても良い執務の補佐まで。
ネイサンは跡継ぎとして期待されているが、そこには必ずと言っていいほどクラリスの尽力があった。
しかし、クラリスはネイサンから婚約破棄を告げられてしまう。
彼の隣には妹エリノアが寄り添っていて、潔く離縁した方が良いと思える状況だった。
「俺は真実の愛を見つけた。だから邪魔しないで欲しい」
「分かりました。二度と貴方には関わりません」
何もかもを諦めて自由になったクラリスは、その時間を満喫することにする。
そんな中、彼女を見つめる者が居て――
◇5/2 HOTランキング1位になりました。お読みいただきありがとうございます。
※他サイトでも連載しています
【完結】死に戻り8度目の伯爵令嬢は今度こそ破談を成功させたい!
雲井咲穂(くもいさほ)
恋愛
アンテリーゼ・フォン・マトヴァイユ伯爵令嬢は婚約式当日、婚約者の逢引を目撃し、動揺して婚約式の会場である螺旋階段から足を滑らせて後頭部を強打し不慮の死を遂げてしまう。
しかし、目が覚めると確かに死んだはずなのに婚約式の一週間前に時間が戻っている。混乱する中必死で記憶を蘇らせると、自分がこれまでに前回分含めて合計7回も婚約者と不貞相手が原因で死んでは生き返りを繰り返している事実を思い出す。
婚約者との結婚が「死」に直結することを知ったアンテリーゼは、今度は自分から婚約を破棄し自分を裏切った婚約者に社会的制裁を喰らわせ、婚約式というタイムリミットが迫る中、「死」を回避するために奔走する。
ーーーーーーーーー
2024/01/13 ランキング→恋愛95位 ありがとうございました!
なろうでも掲載20万PVありがとうございましたっ!
出来損ないと言われて、国を追い出されました。魔物避けの効果も失われるので、魔物が押し寄せてきますが、頑張って倒してくださいね
猿喰 森繁
恋愛
「婚約破棄だ!」
広間に高らかに響く声。
私の婚約者であり、この国の王子である。
「そうですか」
「貴様は、魔法の一つもろくに使えないと聞く。そんな出来損ないは、俺にふさわしくない」
「… … …」
「よって、婚約は破棄だ!」
私は、周りを見渡す。
私を見下し、気持ち悪そうに見ているもの、冷ややかな笑いを浮かべているもの、私を守ってくれそうな人は、いないようだ。
「王様も同じ意見ということで、よろしいでしょうか?」
私のその言葉に王は言葉を返すでもなく、ただ一つ頷いた。それを確認して、私はため息をついた。たしかに私は魔法を使えない。魔力というものを持っていないからだ。
なにやら勘違いしているようだが、聖女は魔法なんて使えませんよ。
傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ
悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。
残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。
そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。
だがーー
月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。
やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。
それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。
悪役令嬢ベアトリスの仁義なき恩返し~悪女の役目は終えましたのであとは好きにやらせていただきます~
糸烏 四季乃
恋愛
「ベアトリス・ガルブレイス公爵令嬢との婚約を破棄する!」
「殿下、その言葉、七年お待ちしておりました」
第二皇子の婚約者であるベアトリスは、皇子の本気の恋を邪魔する悪女として日々蔑ろにされている。しかし皇子の護衛であるナイジェルだけは、いつもベアトリスの味方をしてくれていた。
皇子との婚約が解消され自由を手に入れたベアトリスは、いつも救いの手を差し伸べてくれたナイジェルに恩返しを始める! ただ、長年悪女を演じてきたベアトリスの物事の判断基準は、一般の令嬢のそれとかなりズレている為になかなかナイジェルに恩返しを受け入れてもらえない。それでもどうしてもナイジェルに恩返しがしたい。このドッキンコドッキンコと高鳴る胸の鼓動を必死に抑え、ベアトリスは今日もナイジェルへの恩返しの為奮闘する!
規格外で少々常識外れの令嬢と、一途な騎士との溺愛ラブコメディ(!?)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる