追放された香りの令嬢は、氷の宰相に溺愛されています ~政略結婚のはずが、心まで奪われました~

深山きらら

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第一章 追放 ― 令嬢は都を追われる

辺境の地へ

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 翌朝、王都は、昨夜の大騒ぎが嘘のように静かだった。
 王太子に毒が盛られたことを、人々はまだ知らないのだ。知っているのは舞踏会に出席した者たちだけ。

 だがやがて、噂は大変な勢いで広がるだろう。枯れ野に放たれた火のように。

 人影まばらな街道を、グランベール伯爵家の紋章をつけた馬車が走っていく。
 その馬車に注意を払う者は、誰もいない。


 馬車の中で、リシェルは膝の上に小さな木箱を抱えて座っていた。
 そこには、彼女の調香道具が最小限だけ詰め込まれている。

(こんな形で、王都を離れることになるなんて)

 窓の外を流れていく石畳を見つめながら、彼女はぼんやりと考えた。
 香りで満ちていた王都から、今や彼女は切り離されようとしている。

『香りで人を狂わせた魔女』

 昨夜、誰かがそう囁いたのを、リシェルは耳にしていた。
 振り返ると、そこには甘く腐った匂いが漂っていた。
 人の不幸を喜ぶ悪意。

(あんなもののために、わたしは香りを学んできたわけじゃない)

 早朝に出発したのは、なるべく早く姿を消して、実家を守りたかったからだ。
 リシェルがぐずぐずしていたら、悪意という追い風を受けて噂がふくらみ、状況はさらに悪化するだろう。

 幼い日に、母が残してくれた言葉を思い出す。

『香りはね、人の記憶と心をつなぐの。誰かを傷つけるためじゃなく、誰かを救うために使いなさい』

 今は亡き母の香りは、もうほとんど思い出せない。
 けれど、その言葉だけが、彼女の胸に深く刻まれている。

「でも……これからは、もう誰も、わたしを必要としないのかもしれない」

 そうつぶやいて、リシェルは小さく笑った。
 自嘲の香りは、自分でも分かるほど苦い。

(それでも、わたしは、わたしの香りを作る)

 窓を少しだけ開けると、朝の冷たい風が入り込んでくる。
 遠くの森の匂い、湿った土の匂い。
 それらを胸いっぱいに吸い込んで、リシェルは静かに目を閉じた。

(これからは、誰かの権力のためだけに香りを作るのはやめよう。
 たとえこの先、どんな場所で生きることになっても──
 わたしは、わたしの信じる香りだけを、作る)

 それは、追放された令嬢の、ささやかな宣言だった。




 辺境の地は、王都とは別の国のようだった。
 起伏のある草原と、低い山々。

 森からは、素朴な木々の香りが絶えず流れてくる。
 王都のような華やかな香水はなくても、この土地には、この土地の香りがあった。

「よく来たね、リシェル」

 迎えてくれたのは、伯爵の弟にあたる叔父、ハロルド男爵だった。
 恰幅のいい体躯に、分厚い手。
 そして、焼きたてのパンと煙草の香り。温かな家庭の匂い。

「ここは退屈だろうが、王都のような面倒事は少ない。……しばらく、ゆっくりするがいい」
「ありがとうございます、おじさま」

 リシェルは微笑んだ。

 父からの手紙が、早馬でリシェルより先に叔父のもとに届いていたので、叔父はすっかり準備を整えてくれていた。
 窓から庭を見渡せる快適な部屋が、リシェルのために用意されていた。
 叔母も従姉妹たちもリシェルを歓迎してくれた。



 屋敷の一室を小さな調香室にする許可ももらった。
 窓辺に干したハーブの束から、素朴な香りが立ち上る。

(ここから、やり直せるかもしれない)

 リシェルは新しい環境になじみ始めていた。
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