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第三部:兵糧戦線、前進!
第三十一話:異臭か、糧か、治部少輔の問い
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武藤家の大軍は、戦場への長く困難な行軍を続けていた。
だが、道のりは険しく、兵士たちの疲弊は色濃くなるばかりだ。
追い打ちをかけるように、陣中では病が広がり始めていた。
特に、腹の調子を崩す者が多く、嘔吐や下痢といった症状は、兵士たちの体力を急激に奪っていく。
栄養不足や不衛生な水も、この状況を悪化させている。
陣幕では、病人のうめき声が絶えず、多くの兵士が力なく横たわっている。
軍医たちは手当てに追われているが、限られた薬では焼け石に水だ。
病の蔓延は、戦わずして軍が弱体化する最大の危機だった。
この危機に対し、兵糧奉行の執務室で緊急の会議が招集された。
兵糧奉行の黒田幻斎に加え、軍政を司る重鎮たちが集まる。
第二師団の兵糧責任者として、千兵衛も末席に加えられた。
会議の空気は張り詰め、皆の顔に焦燥の色が浮かんでいる。
議題は、病の蔓延と、それに対する軍の対応だった。
軍医から現状報告がなされるが、抜本的な解決策は見出せない。
やがて、会議の焦点は、兵士たちの健康維持、特に食事の管理へと移っていく。
その時、一人の男が口を開いた。
軍目付代、井上 治部少輔(いのうえ じぶしょうすけ)だ。
井上は、厳しい表情で千兵衛をじろりと見た。
彼の視線には、千兵衛のような末端の、しかも武功なき者が、このような重要な会議に末席とはいえ参加していることへの、明確な不快感が含まれているようだ。
「病人が増えすぎだ。
これでは戦にならぬ」
井上はきつい声で言った。
「軍医は何をしておる。
病の原因を特定し、治療に専念せよ」
軍医からの報告がなされるが、限られた薬や人手、そして不衛生な陣中という現状では、根本的な解決は難しいことが示される。
井上は苛立ちを隠さない。
「無能め」
井上はふんと鼻を鳴らした。
「病は治療するものであろう。
兵站の役人が口を出す領域ではない。
特に、伊吹と申したか。
お前は兵糧の責任者でありながら、兵士に奇妙なものを配っておると聞く」
井上は、千兵衛に視線を向けた。
「なんでも、病を防ぐなどと称して、貴重な梅干しを飯団子に混ぜているそうではないか。
梅干しは保存が利き、交易品としても価値がある。
それを、気休めにもならぬ飯に混ぜて浪費しているなど、言語道断だ」
井上は、千兵衛のいくさ飯の噂を聞きつけていたのだ。
特に、彼の心をざわつかせたのは、ある兵士たちが口にしていたという、奇妙な「豆」の話だった。
「あれは一体なんだ。
糸を引き、独特の匂いがすると聞く。
まるで腐った豆ではないか!」
井上は忌々しげに千兵衛に問い詰めた。
「兵糧担当でありながら、そのような異臭を放つものを兵士に食わせるとは、何を考えておる!
それが病の原因にならぬと申すか!」
井上は、千兵衛が活用していた「納豆」(あるいはそれに類する発酵豆製品)に言及したのだ。
千兵衛は、納豆が持つ高い栄養価、消化を助ける力、そして乏しい時期に貴重なタンパク源となることを見出し、一部の兵士に配給していた。
しかし、その強烈な匂いとねばねばとした見た目は、多くの者にとって受け入れがたいものだった。
井上治部少輔にとって、それは「兵糧」という概念からかけ離れた、見るに堪えない、そして不潔極まりない代物に映ったのだ。
千兵衛は、井上の強い剣幕に、一瞬たじろいだが、すぐに心をしゃきっとさせた。
これは、彼のいくさ飯の根幹に関わる問いだ。
「井上様、畏れながら申し上げます」
千兵衛は答えた。
「それは納豆、あるいはそれに類する発酵させた豆でございます。
確かに独特の匂いはございますが、栄養が豊富で、特に乏しい時期には貴重なタンパク源となります。
また、昔から腹に良いと言われており、消化を助け、弱った体でも滋養となります。病で弱った兵士にとって、消化の良い栄養は不可欠です。
この納豆は、見た目や匂いこそ劣りますが、飢餓と病と戦う兵士たちの、確かな糧となりうるのです」
千兵衛は、納豆の見た目や匂いという表面的な特徴ではなく、その栄養価と効用という実質的な価値を訴えた。
飢餓と病が蔓延する今、必要なのは見た目の美しさや香り高さではなく、兵士たちの命を繋ぐ力だ、と。
しかし、井上は千兵衛の言葉にふんと鼻を鳴らした。
「腹に良いだと?
迷信に過ぎぬ!
飢えれば何を食わせても腹は膨れる。
だが、病を治すのは医術だ。
貴様の奇妙な豆が、この状況を改善するなど、到底信じられぬわ!」
井上は、千兵衛の論を頭ごなしに否定する。
彼にとって、納豆という異臭を放つ得体の知れないものは、軍隊の食として認められない。
そして、千兵衛のような者が、兵糧という領域で病に口を出すこと自体が、軍の秩序を乱す行為なのだ。
井上の目は、千兵衛を「無能な異端者」と見定めている。
会議の空気は、井上の怒りによってぴりぴりとさらに張り詰めた。
「伊吹千兵衛。
貴様のやり方、この井上がしかと見届けさせてもらう」
井上は冷ややかな声で言い放った。
「今後、貴様の独断専行は許さぬ。
兵糧は、定められた基準に基づき、無駄なく運用せよ。
特に、そのような得体の知れぬものを弄んで、貴重な備蓄を浪費することはまかりならぬ」
会議が終わり、千兵衛は陣幕の外に出た。
冬の風が顔を撫でる。
体は冷えているが、それ以上に、井上治部少輔という明確な、そして強力なライバルが現れたことへの緊張で、心がきゅっと引き締まる。
井上は、千兵衛のいくさ飯の理念を否定する最初の、そして最も手強い相手となるだろう。
彼の伝統と合理主義(彼自身の考える)は、千兵衛の柔軟な創意工夫と真っ向から対立する。
納豆は、その対立の象徴となった。
千兵衛は、自身の信念を改めて固めた。
飢餓と病は、決して兵士たちの命を奪わせない。
そして、納豆のような、見た目は悪くとも力を持つ食材の重要性を、井上治部少輔に、そして軍全体に証明して見せる。
飢餓との戦いは、兵站内部の権力争いと、食に対する価値観の衝突という、新たな局面を迎えたのだ。
【今回のいくさ飯】
『異臭を放つ、栄養の塊。 行軍納豆(仮称)』
大豆を発酵させて作られる、独特の匂いとねばねばした食感を持つ食品。
千兵衛は、その見た目や匂いから敬遠されがちだが、高い栄養価(特にタンパク質)と消化を助ける力に注目し、病が流行する陣中で兵士に提供した。
飢餓と病で弱った兵士にとって、貴重な滋養となるが、その型破りな性質は、兵站内の伝統主義者との対立の原因となる。
(現代の納豆。栄養豊富、発酵食品、匂いが特徴。兵站内の対立の象徴)
だが、道のりは険しく、兵士たちの疲弊は色濃くなるばかりだ。
追い打ちをかけるように、陣中では病が広がり始めていた。
特に、腹の調子を崩す者が多く、嘔吐や下痢といった症状は、兵士たちの体力を急激に奪っていく。
栄養不足や不衛生な水も、この状況を悪化させている。
陣幕では、病人のうめき声が絶えず、多くの兵士が力なく横たわっている。
軍医たちは手当てに追われているが、限られた薬では焼け石に水だ。
病の蔓延は、戦わずして軍が弱体化する最大の危機だった。
この危機に対し、兵糧奉行の執務室で緊急の会議が招集された。
兵糧奉行の黒田幻斎に加え、軍政を司る重鎮たちが集まる。
第二師団の兵糧責任者として、千兵衛も末席に加えられた。
会議の空気は張り詰め、皆の顔に焦燥の色が浮かんでいる。
議題は、病の蔓延と、それに対する軍の対応だった。
軍医から現状報告がなされるが、抜本的な解決策は見出せない。
やがて、会議の焦点は、兵士たちの健康維持、特に食事の管理へと移っていく。
その時、一人の男が口を開いた。
軍目付代、井上 治部少輔(いのうえ じぶしょうすけ)だ。
井上は、厳しい表情で千兵衛をじろりと見た。
彼の視線には、千兵衛のような末端の、しかも武功なき者が、このような重要な会議に末席とはいえ参加していることへの、明確な不快感が含まれているようだ。
「病人が増えすぎだ。
これでは戦にならぬ」
井上はきつい声で言った。
「軍医は何をしておる。
病の原因を特定し、治療に専念せよ」
軍医からの報告がなされるが、限られた薬や人手、そして不衛生な陣中という現状では、根本的な解決は難しいことが示される。
井上は苛立ちを隠さない。
「無能め」
井上はふんと鼻を鳴らした。
「病は治療するものであろう。
兵站の役人が口を出す領域ではない。
特に、伊吹と申したか。
お前は兵糧の責任者でありながら、兵士に奇妙なものを配っておると聞く」
井上は、千兵衛に視線を向けた。
「なんでも、病を防ぐなどと称して、貴重な梅干しを飯団子に混ぜているそうではないか。
梅干しは保存が利き、交易品としても価値がある。
それを、気休めにもならぬ飯に混ぜて浪費しているなど、言語道断だ」
井上は、千兵衛のいくさ飯の噂を聞きつけていたのだ。
特に、彼の心をざわつかせたのは、ある兵士たちが口にしていたという、奇妙な「豆」の話だった。
「あれは一体なんだ。
糸を引き、独特の匂いがすると聞く。
まるで腐った豆ではないか!」
井上は忌々しげに千兵衛に問い詰めた。
「兵糧担当でありながら、そのような異臭を放つものを兵士に食わせるとは、何を考えておる!
それが病の原因にならぬと申すか!」
井上は、千兵衛が活用していた「納豆」(あるいはそれに類する発酵豆製品)に言及したのだ。
千兵衛は、納豆が持つ高い栄養価、消化を助ける力、そして乏しい時期に貴重なタンパク源となることを見出し、一部の兵士に配給していた。
しかし、その強烈な匂いとねばねばとした見た目は、多くの者にとって受け入れがたいものだった。
井上治部少輔にとって、それは「兵糧」という概念からかけ離れた、見るに堪えない、そして不潔極まりない代物に映ったのだ。
千兵衛は、井上の強い剣幕に、一瞬たじろいだが、すぐに心をしゃきっとさせた。
これは、彼のいくさ飯の根幹に関わる問いだ。
「井上様、畏れながら申し上げます」
千兵衛は答えた。
「それは納豆、あるいはそれに類する発酵させた豆でございます。
確かに独特の匂いはございますが、栄養が豊富で、特に乏しい時期には貴重なタンパク源となります。
また、昔から腹に良いと言われており、消化を助け、弱った体でも滋養となります。病で弱った兵士にとって、消化の良い栄養は不可欠です。
この納豆は、見た目や匂いこそ劣りますが、飢餓と病と戦う兵士たちの、確かな糧となりうるのです」
千兵衛は、納豆の見た目や匂いという表面的な特徴ではなく、その栄養価と効用という実質的な価値を訴えた。
飢餓と病が蔓延する今、必要なのは見た目の美しさや香り高さではなく、兵士たちの命を繋ぐ力だ、と。
しかし、井上は千兵衛の言葉にふんと鼻を鳴らした。
「腹に良いだと?
迷信に過ぎぬ!
飢えれば何を食わせても腹は膨れる。
だが、病を治すのは医術だ。
貴様の奇妙な豆が、この状況を改善するなど、到底信じられぬわ!」
井上は、千兵衛の論を頭ごなしに否定する。
彼にとって、納豆という異臭を放つ得体の知れないものは、軍隊の食として認められない。
そして、千兵衛のような者が、兵糧という領域で病に口を出すこと自体が、軍の秩序を乱す行為なのだ。
井上の目は、千兵衛を「無能な異端者」と見定めている。
会議の空気は、井上の怒りによってぴりぴりとさらに張り詰めた。
「伊吹千兵衛。
貴様のやり方、この井上がしかと見届けさせてもらう」
井上は冷ややかな声で言い放った。
「今後、貴様の独断専行は許さぬ。
兵糧は、定められた基準に基づき、無駄なく運用せよ。
特に、そのような得体の知れぬものを弄んで、貴重な備蓄を浪費することはまかりならぬ」
会議が終わり、千兵衛は陣幕の外に出た。
冬の風が顔を撫でる。
体は冷えているが、それ以上に、井上治部少輔という明確な、そして強力なライバルが現れたことへの緊張で、心がきゅっと引き締まる。
井上は、千兵衛のいくさ飯の理念を否定する最初の、そして最も手強い相手となるだろう。
彼の伝統と合理主義(彼自身の考える)は、千兵衛の柔軟な創意工夫と真っ向から対立する。
納豆は、その対立の象徴となった。
千兵衛は、自身の信念を改めて固めた。
飢餓と病は、決して兵士たちの命を奪わせない。
そして、納豆のような、見た目は悪くとも力を持つ食材の重要性を、井上治部少輔に、そして軍全体に証明して見せる。
飢餓との戦いは、兵站内部の権力争いと、食に対する価値観の衝突という、新たな局面を迎えたのだ。
【今回のいくさ飯】
『異臭を放つ、栄養の塊。 行軍納豆(仮称)』
大豆を発酵させて作られる、独特の匂いとねばねばした食感を持つ食品。
千兵衛は、その見た目や匂いから敬遠されがちだが、高い栄養価(特にタンパク質)と消化を助ける力に注目し、病が流行する陣中で兵士に提供した。
飢餓と病で弱った兵士にとって、貴重な滋養となるが、その型破りな性質は、兵站内の伝統主義者との対立の原因となる。
(現代の納豆。栄養豊富、発酵食品、匂いが特徴。兵站内の対立の象徴)
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