『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

第二部 江戸闇聴聞 ～絡繰りの音～

第二十四話 井伊家上屋敷、権威と異臭

　古寺での忌まわしい事件から数日、市と木暮同心は、円盤の符号が指し示す新たな舞台、江戸城下へと足を踏み入れた。

　格式高い大名屋敷が軒を連ねる一角。深川の活気や、郊外の静寂とは全く異なる、厳重な警備と、張り詰めた空気が町全体を覆っている。

　市の鼻腔には、高級な香木の匂いと、そして、どこか冷たい、人の思惑が交錯する匂いが混じり合って入ってくる。

　市と木暮同心は、周囲に溶け込むよう注意しながら、井伊家上屋敷周辺での水面下の捜査を開始した。
　
　市の耳は、屋敷から漏れてくる微かな音、周辺を行き交う武士や使用人の足音、そして、風に乗って運ばれてくる話し声に耳を澄ませる。

　木暮同心は、奉行所の情報網を使い、井伊家上屋敷の日々の様子や、出入りする人物について調べていた。

　厳重な警備を掻い潜り、影の組織がどのようにこの場所で活動しているのか。そして、彼らが何を企んでいるのか。円盤の符号が、その謎を解く鍵となるはずだ。市は、指先で円盤の凹凸を繰り返し辿りながら、脳裏に響く符号の「音」と、この江戸城下の雰囲気を結びつけようとした。

　しばらくして、市は、あの不自然な「音」が、井伊家上屋敷の内部から、微かに響いているのを感じた。それは、あの古寺で聞いた音に似ているが、より洗練され、注意深く聴かなければ聞き逃してしまうほどの音量だ。特定の周波数で、規則的に響いている。

　そして、その音に混じって、あの甘く淀んだ香りとは違う、しかしどこか不自然な、薬品のような匂いが微かに漂ってくる。それは、以前、古寺の蔵でも感じた匂いだ。影の組織が使用する、新たな香りの一部だろう。

「木暮さん。あの音と匂いは、井伊家上屋敷の中から聞こえます。特定の場所、屋敷の奥の方からです」

　市は、自身の感覚が捉えた情報を木暮同心に伝えた。木暮同心は、市の言葉に緊張した面持ちで屋敷を見つめた。
幕府の中枢に関わる井伊家上屋敷に、影の組織が入り込んでいるのか？

　円盤の符号と、井伊家上屋敷の関連性は、さらに深まった。市の指先が辿る符号のパターンが、屋敷の内部構造、特定の部屋、あるいは、地下の通路のようなものを示唆しているように感じられる。符号は、単なる場所の座標ではない。それは、影の組織がこの場所で仕掛ける「絡繰り」の設計図の一部なのかもしれない。

　捜査を進める中で、市と木暮同心は、井伊家上屋敷に出入りする一人の若い侍に不審な気配を感じ取った。彼の足音には、微かな不規則さがあり、纏う匂いには、隠しきれない緊張と、そして、あの薬品のような匂いが混じっている。彼は、井伊家の侍だが、どこか怯えているように見える。

　市は、その侍の傍らを通り過ぎる際、彼の体から漂う匂いの中に、微かに、あの甘く淀んだ香りの澱みが混じっていることに気づいた。そして、彼の息遣いには、不自然な揺れがある。彼は、影の組織の「術」（香りや音絡繰り）の影響を受けているのではないだろうか？

　市と木暮同心は、その侍の後をつけた。彼は、屋敷の裏手にある、人通りの少ない通用口から、何かの包みを持って出てきた。その包みから、あの薬品のような匂いが強く漂っている。

「あれは… 影の組織のメンバーか？ あるいは… 奴らに操られているのか…」

　木暮同心は小声で呟いた。影の組織は、井伊家の人間を操り、屋敷の中で何かをさせているのだ。そして、その「何か」には、あの薬品のような匂い、そして、非道な製造物に関わるものが含まれている可能性が高い。

　円盤の符号、井伊家上屋敷、不自然な音と匂い、そして、操られている侍。これらが全て繋がり、影の組織がこの場所で何を企んでいるのか、その具体的な内容が少しずつ明らかになっていく。

　彼らは、井伊家を利用して、幕府の重要な情報を盗むのか？ 
あるいは、井伊家の人間をすり替え、幕府の中枢に潜り込もうとしているのか？ 
非道な製造物と絡繰りの道具が、どのように使われるのか？

　市の頭の中で、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の恐るべき全貌が、おぼろげながら形を成し始めた。それは、単なる強盗や権力掌握ではない。人間の生命と、社会の根幹を揺るがすような、根源的な企みだ。

　師・源七爺さんが命を懸けて追っていた闇は、江戸の中心、幕府の中枢にまでその根を張っていたのだ。師の無念と、この恐るべき企みを阻止するという決意が、市の中に強く燃え上がる。

　江戸城下の夜は更けていく。厳重な警備の隙間を縫って、影の組織が仕掛ける新たな「絡繰り」の音が、微かに響いている。

　市は、自身の五感を信じ、木暮同心と共に、その音と匂いを追って、江戸城下の闇に潜む影の組織の核心へと迫っていく。