【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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131 家庭の味

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 晃の部屋には、ベッドの横にすでに布団が一つ敷かれていて、いつでも寝られるようになっていた。狭い部屋は冬のふかふかの布団で埋め尽くされて足の踏み場もない。

「すぐに降りてこいってことだな」

 荷物を部屋の端に置いた晃が、少し笑いながら言った。

「え?」
「この部屋は寝る時だけ入れってことだよ。ここに僕たちが閉じこもってしまわないようにしてるんじゃない? 居間に降りてこいって」
「へえ」

 一太は、布団を半分にたたんで座ってもいいんじゃないかな、と思いながら、晃と一緒にいたい陽子の思いを見て笑ってしまった。母親ってそういうものなのか。
 そういえば、託児室や幼稚園に迎えに来るお母さんたちも、数時間ぶりに会う子どもと熱烈な抱擁を交わしていた。
 子どもの方も、それまでご機嫌で遊んでいたのが嘘のようにお母さんを見て泣き出したりする。そして、あの、うちの子ずっと泣いてましたか? とお母さんを心配させてしまうのだ。
 いいええ、楽しく遊んでいましたよ。ずっとにこにこでしたけどねえ。お母さんを見てほっとしたのかな、あはは、なんて先生たちは苦笑いする。
 預かる時もそうだ。まるで、この世の終わりみたいに泣く子がいる。しくしくと静かに泣いてしがみついてくる子がいる。親しい人と離れるのが怖くて悲しい気持ちは一太には分からないけれど、そうなんだなってことは分かった。離れるのが不安なのは、子どもの方だけじゃないんだなってことも。
 
「温かい飲み物が入ったわよー」

 階下から声がかかる。
 晃が、くすと笑った。

「行こう、いっちゃん。寒いし」
「うん」

 陽子さんは晃くんが帰ってくるのをとても楽しみにしていた。たぶん、他の家族たちも。
 せめて、邪魔にならないように過ごそう、と一太は決意する。手伝えることは手伝って、それからどこか邪魔にならない端っこで過ごさせてもらえたら……。

「いっちゃん、こっちこっち。この紅茶ね、いつものと違うんだけどなかなか香りが良くて、最近お気に入りなの。どう?」
「え、あ、はい。えと、美味しい、です」
「でしょー? 少し持ってく? 袋に半分分けとくね。忘れないように持ち帰り袋に入れておくから。あ、今ね、ストレートティだから好きに牛乳入れてミルクティにしてね。いっちゃん、ミルクティ好きだもんね。砂糖はいらなかったよね?」
「は、はい……」
「私と好み一緒。飲み物は、あんまり甘くない方がいいよね」
「はい」

 暖かいリビングダイニングに入るなり陽子に手招きされて、端っこどころかダイニングテーブルの真ん中の席に一太は着席している。
 もちろん紅茶の好みは陽子さんの言う通りだ。何故、こんなに詳しく覚えているのだろう。この家にお邪魔して紅茶を頂いたのは一回だけなのに。紅茶を知ったのも、その時なのに。
 そして当たり前に、この新しい香りとやらの紅茶パックも持ち帰ることになっているみたいだ。……持ち帰り袋とは何だろう。

「ね、本当に飲み物だけでいいの? お茶菓子出そうか?」
「母さん。いっちゃんのお腹が壊れる」
「ああ。そうね。うん、そうだった。いっちゃん、無理に食べちゃ駄目よ。残してもいいから丁度いい量を食べるのよ?」
「ええ、と。はい……?」

 たくさん掛けてもらえる言葉たちにろくな返事はできていないけれど、陽子が気にした様子はなかった。にこにこと一太が紅茶を飲むのを見ている。
 もう、本当に母さんがうるさくてごめんね、と隣に座った晃くんは呆れているけれど。
 何だろう。温かい紅茶が喉を通ったからだろうか。胸がぽかぽかと温かかった。

 *

「手伝います」
「座ってていいのに」

 そんなやり取りの後の昼食準備。エビフライは揚げるだけ、レタスはちぎるだけだと言う陽子と二人でキッチンに入る。
 いざキッチンに立ってみれば、チキンライスも作るらしい。量が多いので、具を炒めて味をつけたら大きなボウルに入れたご飯に具を混ぜ込んだ。

「おお」
「別にご飯炒めなくていいもんね、チキンライスは」

 言われてみればその通り。量が多い家の工夫かあ、と一太は頷く。とはいえ、これから先、一太がその技を使う場面というのは想像ができなかった。結婚して、子どもが生まれて……といった未来が全く思い浮かばないからだ。家庭、というものに縁が薄いからか。家族の普通を知らないからか。
 母と弟の二人分の料理を作らされてきたが、ただの仕事だった。作らなければならないから作っていた。その対価に、一太は住む場所を得ていたのだ。作ることで何とか食材の余りを食べることができた。慣れてきたら、かさ増しなどして僅かな自分の分を確保した。生きるための仕事。
 やっとの思いで一人になったら、全くキッチンに立つ気になれなかった。一太は、二十年生きてきて、料理を作ってあげたくて作ったのは晃にだけだ。ただ一人だけ。

「卵で包もうか。いっちゃん、どんなオムライスがいい?」
「どんな……?」

 オムライスに種類があったとは知らなかった。

「くるっと包んじゃうか、上にふわふわの卵乗せて真ん中で割ってふわって落とすか」
「ええ、と」

 何それ。見てみたい。
 けれど、もしかして他の人がくるっと包む方を選んだら、陽子さんは一太のためだけにふわっをしなければならなくなる。一太のためだけに、そんな手間は掛けられない。

「くるっと包むのなら卵は何個?」

 そんな所にまで選択肢が? 一太が家で晃にオムライスを作る時、何も聞かずに卵一つで包んでいた。
 そういえば昔、作り方を調べようと図書室で読んだ本には、卵二個と書いてあったかもしれない。やってみたら卵一個でも充分チキンライスを包むことができたから、節約で一個にしたのだった。そうしたら、弟におかわりと言われた時に対応できるし、上手くいけば自分の分を確保できるから。

「一個……です」
「あら、おんなじ。うちも一個。薄焼き卵はチキンライスの味を邪魔しなくて好きなのよ。ま、節約でもあるけどね。一人二個づつ使ってたら一パック無くなっちゃうもんね」

 ほっとした。一太のオムライスは、晃のいつもの形になっていたようだ。
 オムライス一つとっても、こんなに様々な各家庭の味や形があるんだなあ、と一太は驚いた。オムライスはたまたま同じような形だったが、これから何か作る時は細かく晃に確認した方がいいのかもしれない。陽子さんにもたくさん教えてもらえたら、晃の好みの料理を作ることができる。
 これから。そう、これから。
 そう考えて一太の頬が緩む。これからも、俺は晃くんに料理を作るんだなあ、と思って。
 そして、ほんの少しだけ思い出した。
 最後に会った時に、お前の料理が食べたいって言った弟のこと。何年も、ほとんど毎日作って出して、一度も美味しいと言わなかった。一太も心を込めて作っていた訳ではないけれど。
 それでも、一太の料理が弟にとって家の味だったのだ。久しぶりに一太に会って、作ってほしいと願うくらいには。
 弟は、のぞむは、一太の作るオムライスの卵が一個であることを知らない。だから、いつか誰かに作ってもらう時、一個で作ってほしいと伝えることはできない。
 共に暮らしてきた。でも、知っていることなんて本当に少ない。やっぱり自分たちは、よく言われていた通り、家族ではなかったんだろう。
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