【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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「は? な……んだ、今の? え? おい、おい!」

 のぞむが、横たわる女の体に手をかけて揺さぶっていた。看護師がのぞむの手を押さえて、落ち着いてください、と言った。そのまま、のぞむの体を引きずるようにして女から離す。
 スペースの空いたベッド横に立った医師が、冷静に女に繋がれていた機械を確かめ、胸を開いて聴診器を当て、女の瞼をめくって光を当て、首元や手首を確認して一つ頷いた。

「お亡くなりになりました」
「は?」

 のぞむが呆然と呟く。

「十八時三分。お亡くなりになりました」
「は? え? は?」

 時計を確認して、しっかりと宣告された言葉になんと返したらよいのか分からず、一太は頭を下げる。一太の方が話が通じると思ったのか、のぞむを押さえていた看護師が一太の方を向いて言った。

「管などを外してお体を綺麗にして差し上げたいと思います。少しお時間を頂けますか?」
「……はい。よろしくお願いします」
「は? いや、嘘だろ? 終わり? あれで? あれで終わり?」

 のぞむが喚いた。

って、それが最後? それで終わり? は? あいつに、あいつになんか言って終わりって……嘘だろ? あいつの事なんていらないって、家族でも何でもないって、ずっと言ってきたじゃねえか。あいつがいなきゃ俺ら幸せだったって。なのに、? しかも笑ってやがった? 訳分かんねえ。訳分かんねえよ! 俺は? 俺のこと、見えてねえの? 俺になんか言うんじゃねえの? 俺になんかねえの?」

 女の方へ行こうとするのぞむを、女性の看護師が必死に押さえている。医師が、一太をちらりと見てから、のぞむの側に立った。

「すみません。最後の処置をするので病室の外で少しお待ち頂けますか?」

 医師はそう言いながら、看護師と二人がかりでのぞむを連れて病室を出た。一太は、距離をあけて後ろをついて行った。談話室までそのまま歩いて行くと、晃と誠、陽子と鈴木がいた。一斉に立ち上がる四人へ向かって、また医師が頭を下げた。

「村瀬様がお亡くなりになりました」
「……っ」

 危篤、と言われて駆けつけたのだから、そうなるかもしれないと分かっていたはずなのに、何となく全員が息を飲むのが分かる。

「処置をした後は、どなたもお会いになれます。少々お待ちください」

 歩いているうちに大人しくなったのぞむから手を離した医師が言って、看護師と共に談話室を出ていった。

「いっちゃん」

 晃と誠、陽子が一太に寄り添うのを見たのぞむが、ぎゅと眉間に皺を寄せる。

「またお前らかよ」

 晃と誠を睨みつけながら言って。
 それから、一太に向かって吐き捨てた。

「なんで? なんで最後にお前に笑ったんだ、母さんは」

 なんで、と言われても、そんなこと一太に分かるわけがない。あの人と一太が関わり合う事など、成長してからはほとんど無かったのだから。あの人が一太に声を掛けてくるのは、虫の居所が悪い時だけ。八つ当たり、憂さ晴らしのため。一太は、そう気付いてからは、極力近寄らないようにしていた。そのくらいの知恵はあった。

「笑ってたの? あれ」
「笑ってただろうが」
「そうなのか」

 そのことすら、一太にはよく分からなかった。

「は? 意味分かんねえ。見たら分かるだろうが」
「分かんなかった」
「は?」
「よく、分かんなかった」
「は。馬鹿なんじゃねえの。人の表情も分かんねえとか、だからお前は母さんに嫌われ……」

 のぞむは、言いかけた言葉を止めて一太の隣に立ったあきらを見上げた。

「なんだ、お前? やんのか?」

 一太は呆れてのぞむを見る。昔、じっと目を見返しただけで殴られたことがあった。一太が、のぞむに喧嘩を売っている目付きだったとか何とか言っていた。売られた喧嘩は買って、その上で勝たなければ生きていけないのだと。その時の一太は、もう二度とのぞむの目を見ないようにしようと思っただけであったが、今考えれば、のぞむの生きている世界もだいぶおかしいものだった。

のぞむ。俺は、あの人やのぞむの顔なんてあんまり見ていなかったから、よく分かんなかったよ。あの人のことをよく知っているのぞむが笑ったって言うんなら笑ったんだろうし、笑って逝けたのなら良かったんじゃないかな」

 一太の心はとても落ち着いていて、落ち着いていられないらしいのぞむのことを、不思議な気持ちで見ていた。

「はあ? まじでお前……」
「あ」
「なんだよ?」

 そうか。のぞむは、あの人が死んで悲しいのか。そうか。
 一太は、ふいに気付いた。
 悲しんでいるのぞむと、そうではない自分に。

「俺はもうお別れは済んだから、後は役所の方にお任せしようと思う。あの人のもので受け取りたいものがあれば、全部、のぞむが受け取っていけばいい」
「……」

 ぽかんとのぞむは口を開けるが、一太にものぞむの気持ちは分からない。自分たちはどこまでも、ただ一緒に暮らしていただけの他人だった。

「そ、それでいいのかよ。お前、また来たって母さんが言ったってことは、前にも来てんだろ? そんだけ来てんのに、そんだけ会いたかったのに、そんな、だって、母さんが死、死ん、死んだ、のに」

 最後の方は、のぞむの声は震えていた。ああ、良かったね、と一太は、すでに顔もおぼろげなその人に胸のうちで話しかけた。あなたには、泣いてくれる人がいたよ。
 本当に、一太の心は穏やかだった。
 数ヶ月前に会いに来たあの日。あの人の意識がしっかりしているうちに、この子はいらないと叫んでくれたから。だから、一太はもう、あの時にお別れは済んでいたのだ。あの時は、親子であることを諦めきれていなくて、だから、いらないと改めて叫ばれて辛かった、けれど。
 もう一人じゃないから。
 あの時も、今も。
 
のぞむ。あの人と俺の間には何にもない。だから、俺は何にもいらない」
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