【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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244 かわいそうな人

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 病室の中にいた看護師は、一太を迎えるとすぐに出ていった。何かあればこちらのボタンを押してください、と病人の枕元のボタンを示して。
 もう本当に、これ以上回復のためにできることはないのだろう。この人に、危篤と聞いて駆けつける家族がいなかったから、側についていてくれたのだ。
 一太はベッドを見下ろした。
 痩せた女に繋がれた色んな機械だけが、ピッピッピッと音を出していた。回復の見込みがないのならそれは、命を繋ぐものではなく命の終わりを告げるためのもの。音に変化があったら、きっと女の命は終わりなのだ。
 かわいそうに、と一太は思った。
 かわいそうに。
 今際の際、そばに居るのは、この人が避けて避けて嫌がってきた人間だ。仕方ない。どうしても、一太に連絡が来るのだ。
 かわいそうに。
 この人は、一太から、逃げても逃げても逃げきれなくて、かわいそうだ。
 お前がいなければ幸せだった、といつも言っていたものなあ。一太さえいなければ、のぞむのぞむの父親と三人で仲良く暮らせたんだろう、きっと。まあ、子どもの世話をするのが下手な人だったから、小さなのぞむの世話をちゃんとできたかどうかは怪しいけれど。
 しばらくそうして女の顔を眺めていたら、病室の扉がノックされ、一太が答える前に開いた。
 案内の看護師が止める間もなく中に入ってきたのは。

「あ? 家族しか入れないんじゃなかったのかよ?」
のぞむ
「なんだ、その格好? 七五三か」

 学校の制服に見える服を着たのぞむは、ずかずかとベッド横に来て女を見下ろした。家族しか入れないんじゃなかったのかよ、と言いながら、のぞむは、一太に出て行けとは言わなかった。
 一太は、後ろに下がってのぞむと距離を取った。すぐには手が届かない距離を。案内の看護師はすぐに出ていったから、病室はあっという間に三人だけだ。ここにいるのが、家族という事なのか。世間で言うところの、家族。その三人がどう暮らしていたのかとか関係なく、最後の時に近くにいられる人。例えばこの女に、実はとても親しくしていた人間がいたとしても、結婚したりして同じ戸籍に入っていなければ、ここには入れない。
 おかしなものだ。
 でも。のぞむが来た。良かったね、と一太は思う。少しずつ、望《のぞむ》から距離を取りながら。
 良かったね、あなたの会いたがっていた息子が来たよ。
 
「本当に死にかけてやんの」

 しばらく黙って女を見下ろしていたのぞむが、ぽつりと言った。
 今まで来なかったのは、体調が悪いという話が、この人がのぞむを呼ぶための嘘だとでも思っていたのだろうか。
 よく似た二人だな、と一太は思った。
 
「昔のお前にそっくりだな、この顔」

 今は違うのなら、嬉しい。

「なあ」

 何も答えない一太に焦れたように振り返ったのぞむは、は? と顔を歪めた。

「何、離れてってんの?」

 いつの間にか、のぞむから結構な距離ができている。一太からは、もうベッドに横たわる人の顔も見えなかった。

「意味分かんねえ」

 のぞむが近寄ってこようとするので、一太は黙って出入り口の扉付近まで後ずさる。

「なんだ、そりゃ。何しに来たんだ、お前」

 む、とした顔をしたのぞむは、けれど大人しくベッド横に戻った。
 一太は、ほっとしてその場に佇む。
 何しに来たかなんて、分からない。本当に。ただ、ここにいられるのがのぞむと自分の二人だけだった。ただ、それだけ。

「何しに来たんだろう」

 思わず漏れた一太の言葉にのぞむが振り返って。まじまじと一太の顔を見た。
 しばらくして、へらと笑う。

「意味分かんねえ。遺産をもらいに来たとか、何か文句言いにきたとかじゃねえの?」

 また口を閉じた一太に向かって、のぞむはべらべらと話し続けた。

「てかお前、臭くね? 何? 焼肉? 焼肉とか食ってんの? いい格好してさ。いい生活してるんなら、俺にもおすそ分けしてくれよな」
「……」
「俺なんてさ、父親とかいう男の家に無理やり連れて行かれて、でも、そこに俺がいたら困るとかってさ。そこの子どもに会わせたくない、とか何とか言われて、家にいてほしくないからって寮のある高校とか入れられてさ。外出もそうそうできねえから、外食なんて夢のまた夢だよ。ガチガチの校則あって、毎日毎日うるさくてたまんねえ」
「……」

 嫌な思いをして家に居なくて済む上に、学校にも通わせてもらっているなんて最高じゃないか、と一太は思ったが黙っていた。のぞむの父という人は、かなり稼ぎのある人だったのだろう。そういえば、のぞむの父が出ていった後も、住んでいる場所を追い出されることなく、三人で住み続けていられた。あの家も、息子ののぞむのために、出ていった父親が残してくれたものだったのかもしれない。
 何となく、以前より落ち着いた様子ののぞむを見て、一太はほっとした。その場所で、ちゃんと勉強して働きに出て、自分で暮らせるようになるといい。

「連絡きた時は、外出できる、ラッキーとか思ってたんだけどさ。本当に死にかけてるとか思わねえじゃん。何かさ、勝手だよな、こいつ」

 のぞむから見てもそうなのなら、相当なものだろう。

「遺産あんのかな」

 あるわけが無い。あるとして借金だろう。そういう人だ。

「お前、どうすんの? あったら」
「いらない」

 即答した一太に、のぞむが目を見開いた。

「あ? 遺産だぜ? 金じゃなくてもさ、なんかこう、この人の何か」
「欲しいものなんて、ないよ」
「いや、お前ほんと、何で……」

 その時、規則的だった機械音が少し乱れた。

「あ?」

 振り返ったのぞむにつられて、一太もベッドの横に近寄る。
 女の目が開いていた。

「あ、起きたのか、かあ……」

 女の目は、真っ直ぐに一太を見ていた。一太だけ。……女の口が動く。
 またきた、と。
 それから、少しだけ口角を上げて目を閉じた。
 繋がれた機械の音が、ピーピーピーピーとけたたましい音を立て始め、看護師が病室に駆け込んできた。
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