サクラメント300

朝顔

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26 あなたの幸せ

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 その日は静かにやってきた。
 心は半分で、決意と恐れに分かれていた。

 何が恐いのかは分かっている。
 自分を見た時に、夕貴の顔が恐怖で染まることだ。
 獣になってしまったあの日を思い出してしまう。

 もう二度と夕貴を傷つけることなどないと誓うが、幸せそうな二人を見たら、また何かおかしくなってしまうかもしれないと恐かった。


 冬から春へ。
 季節の変化はあっという間だ。
 昨日まで寒かったのに急に暖かくなって、すぐに春に変わってしまったように思える。

 佐倉が顔を上げると、桜並木はほぼ満開くらいになっていた。週末ということもあって辺りは写真を撮る人で溢れかえっていた。

「すぐそこのカフェだ。時間は少し早いが、大丈夫だろう」

 佐倉の目の前には腕時計で時間をチェックしている梶の姿があった。
 今日この場を用意してくれたのも、ここまで来ることができたのも、全て梶のおかげだった。

 梶がいなければ、佐倉はこの桜並木の道を歩くことなどなかった。
 いまも一人孤独に贖罪の日々を続けていたはずだ。

 叔父の危篤の知らせを受けて、佐倉は故郷に帰ったが、そこに追いかけてきたのが梶だった。
 日本に向かう飛行機の機内で、梶は偶然にも夕貴の運命の番である津久井と出会った。
 梶が持っていたSAKURAの写真集をきっかけに話が進んだらしい。
 津久井を迎えに空港に夕貴が来たことにより、二人の名前を知った梶は、佐倉の過去に出てきた人物との一致に気がついた。
 こうして今度は佐倉の話になり、二人から会わせて欲しいと頼まれたらしい。

 梶からその話を聞いた佐倉は混乱した。
 自分は二度と顔を見たくない、恐怖対象になっているだろうと思っていたからだ。
 夕貴のトラウマを呼び起こしてしまうかもしれない。だから直接会って謝罪できずにいた。
 それに、おそらく二人は結婚しているだろうと思っていたので、番になった二人の姿を見るのも恐かった。

「大丈夫だ。言っただろう、夕貴さんは怪我から回復して、もう歩けるようになっている。未春に会いたいと言ってきたのは向こうだ」

 叔父の容体が落ち着いたことを確認した佐倉は、梶とともに新幹線に乗って戻ってきた。
 それから一週間後、津久井と連絡をとっていた梶は、待ち合せ場所を決めて、いよいよ二人に会う時間を作ってくれた。

 待ち合わせ場所の近くまで来たら、足が止まってしまった佐倉に向けて、梶は手を差し出してきた。

 本当に梶のおかげだ。
 この人がいなかったら、自分は一歩も進んでいなかった。
 そう思った佐倉は、梶の手を掴んで歩き出した。


「智紀……ありがとう」

「ちゃんと、言いたかったこと。悔いがないように伝えてこい。待っているから」

 カフェに着いたら佐倉は梶の手を離した。
 ここまでお膳立てしてもらったが、決着は自分でつけたいと思っていた佐倉は、一人で店に入ることを選んでいた。
 梶にずっと甘えていい問題ではない。
 自分が引き起こしたこと、ちゃんと謝らずに逃げてしまったこと、それは他の誰かに頼って解決する問題ではないからだ。

 梶に背中を押されて佐倉はカフェの中に入った。

 店内は空いていて、待ち合わせだと言うと外のテラス席に案内された。
 そしてそこには、五年ぶりに会う夕貴と、その隣には津久井の姿があった。
 夕貴は五年前より少し髪が伸びて、大人っぽい雰囲気になっていた。
 そして佐倉の姿を見ると元気よく立ち上がり、あの時怪我をした足を使って、スタスタと軽快に歩いて近寄ってきた。

「未春、久しぶり」

「夕貴……足は……大丈夫なのか? 痛みは? まだ通院して……」

「もう大丈夫。通院の必要もないし、元に戻ったよ。未春の方がずいぶん痩せたんじゃない? 腕とかもっと太かったのに……ちゃんとご飯食べてるの?」

 こんな風に気にかけてもらえるなんて、世話好きだった夕貴のことを思い出して、胸が熱くなってしまった。

「夕貴……ごめん、俺……あの時、ひどいことを……」

「ちがっ、違うんだ。悪いのは僕だったんだよ。ずっと謝りたかったんだ」

 テラスの出入り口で二人で涙目になっているので注目を浴びてしまった。
 津久井からとりあえず座ろうと声をかけられて、佐倉は夕貴と席に着いて、ドリンクを注文することにした。

 ドリンクが運ばれてくる間、お互いの近況などを話した。夕貴はフラワーアーティストとして、有名になっていて、海外にまで出向くこともあるそうだ。
 作品の販売はネットが中心だが、十分に食べていけるくらい稼いでいると聞いてホッとしてしまった。

 コーヒーが運ばれてきて、一口飲んだらようやく本題に入ることになった。

「あの頃、未春のことを好きだったのに、僕は津久井さんにも惹かれてしまって、自分でもどうしたらいいか分からなかった。津久井さんとは、遺伝子的に相性がいいというのが後に分かるんだけど、仕事にのめり込んでいる未春との関係に寂しさを感じていたのもあって、気持ちが止められなくなっていたんだ」

 やはりそうだったかというのが佐倉の本音だった。津久井と出会う前から、夕貴とは微妙に心の距離ができていた。
 気が付かなかったわけではない、佐倉は忙しいことを理由に、真剣に向き合わなかった。
 その時の気持ちを思い出して胸が痛んだ。

「でも……僕がいいって泣いてくれた未春を見て、やっぱりちゃんと未春と生きていきたいって決めたんだ。津久井さんと会っていたのも本当に偶然で、その気持ちを伝えていたんだ。もう、二度と会わないって……」

「これは本当だよ佐倉さん。君との関係で夕貴は悩んでいて相談もされたけど、あの時は今の恋人と生きていくから、もう連絡も取らないし会わないとキッパリ言われたんだ」

「あの日、その場面を未春に見られて……、今思えば完全に僕の説明不足だった。未春を怒らせてしまった時だって……恐がらないで受け入れなきゃいけなかった。ちゃんと未春を選ぶって決めたのに……逃げてしまったのは僕なんだ。未春を傷つけたまま、何もできずに逃げてしまった……だからあんな事に……。事故は僕の自業自得で、未春は何も悪くない」

「いや、いいんだよ。逃げてよかったんだ」

 ポロポロと涙を流して自分が悪かったという夕貴に、佐倉は違うと気持ちを伝えた。
 夕貴をこれ以上泣かせたくないと思っていたが、また泣かせてしまった。

「あの時の俺は正気じゃなかった。本気で何をするか分からなかった。一瞬だけ正気に戻って力が弱まっただけで、あのまま夕貴がいたらもっと傷つけていたと思う。……だからよかったんだ。俺から逃げて……よかったんだよ、夕貴」

 夕貴は涙を流しながら肩を震わせていた。
 そんな夕貴をさりげなく横から支えた津久井を見て、二人はお似合いだなと思った。
 こんな風に寄り添う二人を見たら、きっと気が動転しておかしくなると思っていたけど、実際は心は穏やかで苦しくもならなかった。
 それはきっと、あの男のおかげだなと佐倉は目を閉じた。

「そうだ、二人は結婚したのか?」

 仲睦まじい様子を見て、すでに番の関係にあるだろうと思ったが、津久井と目を合わせた夕貴は、軽く首を振ってから笑った。

「お互い仕事が忙しくて、まだなんだ。でも今年中にはしようかなって考えてるところだよ」

「そうか……、じゃあ付き合いは順調なんだな。それだけが気掛かりだった。夕貴には、幸せになって欲しいと思っていたから」

「うん、もう大丈夫。僕は幸せだから、未春も幸せになってよ」

 夕貴の笑顔を見て、胸につかえていた何かがスッと落ちていくような気持ちになった。
 恐かったのはもう一つ、夕貴が辛い思いをしているのではないかということだった。
 幸せだと聞いて、心が軽くなったのを感じた。

「ああ……そうだな」

「あの人、梶さんとお付き合いしているの? ずいぶん親身になってくれたから」

「えっ……いや、付き合っては……」

「濃すぎるくらいアルファって感じだよね。アルファ同士のカップルも珍しくないし、いい人なら逃さないようにしないと」

 まさか夕貴とこんな会話をする日が来るとは思わなかった。
 愛し合った者同士、別々の道を歩み、別のパートナーの話をする。
 変な感じはしたが、それほど悲しい気持ちにはならなかった。

 それはきっと、お互いの関係をちゃんと見つめて、気持ちを整理していたからだろうと思った。

「幸せになってね、未春」

 そう言われて佐倉は微笑んで頷いた。

 長く長く、長いトンネルの先にやっと光が見えた。

 最後は連絡先を交換して、握手をした後、夕貴と津久井は二人で先に席を立って帰って行った。

 一人残った佐倉は、息を吐いて頬にあたる風の気持ちよさを感じた。

 もう寂しくなどない。
 ずっと続いていた贖罪の日々がついに終わった。
 あんなに苦しんだ日々が、嘘のようにあっさりと終わってしまった。

 しかしこれでやっと前に進むことができる。
 軽くなった足元で、梶がプレゼントしてくれた靴が、良かったねと微笑んでくれているように見えた。

「早かったな。もういいのか?」

 気がつくと隣に梶が座っていた。
 二人と入れ替わりで入ってきたようだった。
 二人が座っていた対面の席ではなく、隣に座るのが梶らしいと思ってしまった。

「短かったけど、ちゃんと話し合えた。直接謝ることもできたし、受け入れてくれた。二人は幸せそうだったし、これでやっと俺も前に進める」

 よかったなと言って梶は佐倉の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 梶に触れられて、緊張していた心も体も解れていくのを感じた。

「ん? もしかして、これは例のか?」

「……そう。いいって言ったんだけど、絶対受け取れないからって置いて行かれてしまった」

 佐倉の前には、机の上に厚みのある封筒が置かれていた。
 飛んできた花びらが封筒の上に載って、また吹いてきた風で空に舞い上がった。

 それを見ながら梶が手を握ってきたので、佐倉も優しく握り返した。

 花びらが飛んでいく様子を二人で静かに眺めた。




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