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#10 ノストラダムスの大予言
箸休め 少女が抱えた罪の象徴
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本を開く。この時だけは普段の退屈さから逃れ、約三十一万立方ミリ、残り約二時間の自由を得る。色彩の無い文章の中に、ありとあらゆる色彩を創造しながら、私はまた一枚、ページを捲る。
この一時、私はあらゆる制限から解放される。一人での外出も許されない私が、何よりも自由を感じていられる、そういう一時。
特に何も感じていない。喜びも悲しみも、怒りも落胆も無い。ただ諦めていた。『そういう物だ』としか感じられない。私がこの体に生を受けたその瞬間から、私がこの力を持って生まれた時点で、こうなる事は分かっていた。だから、もうどうでも良い。
「お嬢様。そろそろ……」
「分かってるよ。分かってる。分かってる……」
私は本を閉じ、自分の部屋を出る。退屈な仕事だ。ただ自分より弱い異形の者を、なるべく効率的に処理するだけの仕事。毎日のようにこれを繰り返し、その対価のように、時々護衛という名の見張りを伴って、私は街へ繰り出す。それが私の日常。
資料にある『岩戸咲良』という人間は、生まれながらに超常的な力を持っていた。全能の神に等しい術式、最強の退魔師と並ぶ霊力量、類稀な霊力操作と武術の才能……退魔師として求められる資質を、私は最初から持っていた。
だからこそ、私は岩戸家の宝物となった。大切に大切に、壊れないよう、失くさないよう、保管された。今の岩戸家は、ほぼ私のワンマンチーム。お父様もお兄様も優秀だが、もし欠けたとて、私一人でその穴は埋められるだろう。だから必然、権力も私に集まり始める。
だが、私はそんな物に興味は無かった。ありとあらゆる物は、私にとっては『押し付けられた物』でしかない。それでもこの仕事を辞めないでいるのは、そうしなければ生きて行けないから。それ以外に理由は無い。
「お嬢様、本日も素晴らしい……」
「世事は要らない。後何体殺せば外出できるんだ?」
「この怪異で最後です。どこに行かれるので?」
「本屋でも行くさ」
実際、そこしか行く場所が無い。大した趣味も無い私の行先なんて、どうせこんな物だろう。私は顔に付いた泥を手で拭って、その場を離れる。
本屋に居る間も監視は続く。私は適当な数冊を手に取り、それをレジに運ぶ。だが途中で人とぶつかってしまい、私は抱えていた本を、全て床にばら撒いてしまった。
「ああ……」
「すみません。お怪我はありませんか?」
「問題無……」
そこまで言い掛けた所で、私とぶつかった彼の顔を見た。彼は本を拾うだけで、私の方を見もしなかったが、私は彼の横顔を見る事ができた。その肌は陶器のように美しく、その目と髪は美しい烏の濡れ羽色で、その顔立ちは芸術品のように整っている。
「どうぞ。すみませんでした」
「ああ。こちらも不注意だった。何かお詫びを……」
「いえ大丈夫です。私も用事があるので、失礼します」
彼はそう言うと、さっさと本屋を出て行ってしまった。それを見届けた護衛の二人が私の近くまで戻って来た。
「如何しますか?」
「何もしない。こっちの不注意だった。それだけだ」
私は本をレジへ運び、それを購入する。そろそろ夕方だし、もう岩戸家に戻らなければ。
自分の部屋へ戻った私は、本を開く事も無く、本屋で見た彼の事を考えていた。思えば、久しく他人の事を考えていない。それなのに私は、彼の事で頭が一杯になっている。
彼の声を聞きたい。彼の目を覗き込みたい。彼に触れたい。彼と同じ空間に居たい。彼と同じ釜の飯を食べたい。彼と話して、彼と笑って、彼と日々を過ごして、それで可能な限り、一緒の時間を共有したい。
「かっこよかったなぁ……」
そう口に出した事にすら気付かない程、私は名前も知らないあの男の事を考えている。私にしては珍しい。と言うよりは、私らしくない。
しかし今の状態では、彼と過ごすなど夢のまた夢だろう。彼の事はさっさと忘れるのが吉だ。自分にそう言い聞かせながら、私は小説のページを開いた。
彼の姿を見掛けてからおおよそ二年半と少し。私は突然、岩戸真司の書斎に呼び出されていた。
「……今、何と?」
「だから、一つプレゼントをあげるという話だ」
私は自分の耳を疑った。お父様が私にプレゼントを贈る事は以前もあったが、今回は訳が違う。そのプレゼントは『一人暮らしする権利』と『その為の家』だ。後者は然程問題ではない。問題は前者だ。今までお父様は、私をどうにか手元に置いて、そのまま縛り付ける事に心血を注いでいた筈だ。それなのに、今更何を……
いや、ここで詮索するのは不自然だ。それに、一応は私に与えられた数少ない権利だ。堪能しよう。
そして、一人暮らしを始めて二日目の私は、とんでもない事に気が付いた。私は荒れた家の中を見て、ただ何も出来ず、立ち竦んでいる。
「まさか……ここまで何もできないとは……」
なんと私、生活力がほぼ無いに等しかったのだ。いや考えれば分かる事だ。炊事も掃除も洗濯も、今まで使用人に任せていたせいで、何一つとして上手く事が運ばなかった。
このままでは不味い。このままでは、私は一月とこの生活を続けられない。実家から使用人を一人連れて来るかな。いやでも、自分でこの生活を選んだのにそれでは、少し不自然だろう。家政婦でも雇おうか。うん。それが良い。
そうと決まれば仕事だ。貯金もあるが、現時点で大きく手を付けたくはない。相場を調べるのも重要だ。今は軍資金を集めなければ。私は赤色のコートを身に着け、協会本部へ向かう。
「小説家に……なりたい」
「良い夢だ!」
その三日後の晩、運命の神とかいう存在に、私は初めて感謝した。何の気なしに向かった任務の現場で、書店で出会った彼と再会したのだ。彼は私の事を覚えていなかったようだが、私は二年半もの間、彼を忘れた事は無かった。だからか、私は彼の姿を見た時、自身の胸が酷く高鳴ったのを感じた。
ああ嬉しい!奇跡が起こったとしか言えない!心臓の鼓動が煩い!二年半、片時も忘れられなかった彼が目の前に居て、願っていた事が現実になる!
彼は、八神蒼佑と名乗った。その後、彼は一度岩戸家で様々な検査を受けた。結果として退魔師の適正がある事が分かった。親戚も居らず、親と連絡もできないらしい彼は、岩戸家の退魔師として雇われる事になった。
「で、彼は今後どうなるのです?」
「正直、本家の退魔師はもう十分だ。そうだな……咲良、待遇を任せても?」
「私はそれで構いません」
「じゃあ、彼には咲良の世話役兼お目付け係として働いてもらおう」
一人暮らし生活は一週間も続かなかったが、それ以上に喜ばしい事が起こっている。彼と一つ屋根の下で暮らす事が可能になった!それだけで、私の今までの全てが無駄ではなかったと思える。
その翌日から、彼は私の世話役として、私と共に生活する事になった。彼は私と違い、ありとあらゆる家事を難無くこなした。お陰で私の生活水準は、実家に居た時とそう変わらない物となり、不思議な事だが、岩戸家から協会の任務の斡旋も止んだ。
退魔師としての才能もあったらしい彼は、たった二年で白金級退魔師と、条件さえそろえば金剛級退魔師と同等の力を発揮できるようになった。
「凄いな。体外の霊力制御は才能だから仕方が無いとして、武術も霊力操作も、甘い所はあるが上等だ」
「ありがとうございます」
しかし本当に凄い。全くの素人からここまで来るのに、たった二年はかなり短い。これは八神くんの、協会の中の立場に直接影響する事なので、素直に喜ばしい。
ただ私は、少し気掛かりな事があった。八神くんは時々、夜中にどこかへ出掛けては、朝方帰って来て、そのままいつのもように生活しているようなのだ。詰まりその日、八神くんは睡眠を取っていない。普通に心配だ。
だが困った事に、八神くんを尾行する事は不可能なのだ。長い事他人を信じない生活を送って来たせいか、私が全力で霊力と気配を隠しても、尾行していると気付かれてしまう。動かなければ気付かれないが、十分もすれば気付かれるだろう。車を使う時もあるから、下手に動く事はできない。
なら正面から聞いてみようじゃないか。言えない事もあるだろうが、一応命の恩人兼雇用先に、一切合切何も言えないなんて事は流石に……
「すみません。『守秘義務』という奴です」
あった。しかしそんな事を言われては益々気になる。しょうがない事と割り切ろうか。いや無理だな。最近知った事だが、私は気になった相手の事になると、こういう事は割り切れない性質らしい。
まあしかし、車は岩戸家の物だ。あの運転手は前に見た事がある。お父様を問い詰めれば、きっと何か分かるだろう。私は八神くんが協会の任務に向かっている間に、私は岩戸家本部へ向かい、お父様が八神くんに、何か面倒な仕事を押し付けていないかを調べる事にした。
「成程……八神くんが夜中外出……まあ、彼も男って事じゃないか?」
「お兄様?ふざけてるなら全力で顔引っ叩きますよ?」
「頭が吹き飛んでしまうかも知れないねぇ」
いや否定はできないが。だけど肯定もしたくないな。いやしかし、そうなのだろうか。そうかも……
いやいやいや待て。確かにその可能性は捨てきれないが、結論を出すにはまだ早い。第一八神くんもハッキリとは言ってなかったんだ。そもそも何だ『守秘義務』って。
お父様に聞こう。一応は八神くんの雇い主だし、何か知ってるとしたらやはりお父様だろう。私はお父様の書斎に向かい、お父様を問い詰める。
「成程。気付いていたのか」
「そりゃもう二年だ。気付きますよ」
お父様は少し顎に手を当てて考えてから、一冊のファイルを私に寄越した。そこには、『敵対勢力一覧』と書いてあった。
「何ですかこれ?」
「岩戸家は表でも事業を行っているだろう?それをよく思わない、敵対勢力を纏めたファイルさ」
まあ、よくある事か。私はそのファイルを開き、そして目を見張った。その殆どが、ここ一、二年で壊滅している。そしてその全ての原因が、『襲撃』とあった。
「これは……」
「全て、八神くんのお陰さ」
「……は?」
私の頭の中で、いくつかのピースが噛み合う音がした。体内での霊力の操作、徒手の武術、武具の扱い、その全てが、たった二年稽古を続けたとは思えない伸び幅だった。まるで、二年間、毎日命のやり取りを繰り返して来たように。
気付けば、私は岩戸真司の首に手を掛け、空気の出入り口を塞ぐ、一歩手前まで来ていた。私は自分の内側に、黒く、熱く、どこまでも不快な何かを感じている。
「お前……何をしたか分かっているのか!」
「分かっていますよ。一人の少年を誑かし、その人間を人殺しにさせた」
「だったら!」
「ですが、彼は『岩戸家の退魔師』ですよ?」
その言葉に、私ははっとした。八神くんはあくまでも岩戸家に所属している退魔師で、岩戸真司は八神くんに、絶対的な命令を下せる権利がある。詰まり、岩戸真司が八神くんをどうしようと、彼の勝手という事になる。
「貴様ぁ……!」
「ご心配せずとも、彼の精神が壊れないよう、彼には予め極めて強力な術を施してあります。血液を用いた、未来永劫解けない術をね」
潔いのではない。ここで嘘を吐くリスクをこの男は理解している。そして同時に、私がこの男を殺すリスクも。ここでコイツを詰めても無駄だ。拷問でも口は割らないだろう。ならここは、一度事務所に帰り、どうにか彼の術を……
いや待て。それで良いのか?術を解けば、彼はたちまち、ただの二十歳の若者だ。そんな人間が、あれだけの組織に属した人間を殺した事実を受け止め切れるだろうか。
いや、ここで考えるのはよそう。ここは事務所に帰り、一度策を練らなければ。私は岩戸真司の首元から手を離し、出入り口へ向かう。
「最後に一つ」
「何なりと」
「何故、彼を選んだ?」
私がそう聞くと、岩戸真司は口角を上げて、満足気に答えた。
「貴女様が、『かっこいい』と仰せになった、只一人の男児でしたので」
その言葉に胸が貫かれた。ああそうか。私がぽつりと言ったあの一言で、八神くんの人生は狂ったんだ。私が狂わせたんだ。私が奪ったんだ。八神蒼佑という一人の人間の、平穏も、日常も、自由も、全て私が奪った。その事実に、私は倒れてしまいそうになった。
絞り出せたのは「そうか……」の一言だけで、私は覚束ない足取りで、なんとか事務所まで戻った。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
帰ると、事務所の中の居心地が、少し変わったように感じた。罪悪感だろうか。私はお気に入りの赤いコートを脱いで、洗面台へ向かう。
少し経つと、八神くんが夕飯の支度を始めた。もう台所に火を点ける音も聞き慣れた。だけど今日だけは、それも気に留められなかった。だからか、八神くんが台所から離れ、私が横になっているソファから少し離れた椅子に腰掛けたのも、全く気が付かなかった。
「先生、どうかしましたか?」
「へ?」
「いや、先生が夕食の献立を聞いて来ないのも珍しいので。それに、様子も変でした」
ああ成程。どうやら態度に出てしまっていたらしい。
話してしまおうか。黙っているのも辛い。いやしかし、それは余りにも無責任じゃないか?彼を元の生活に戻すのもできないのに、彼の責任を肩代わりするのもできないのに、ただ単に『君に術が掛けられている』では、ただ彼が寄せてくれている信頼を裏切って終わるんじゃないか?
ここで初めて、私はある事に気付いた。私は、ただ八神くんに嫌われたくないだけなんだ。ここで何も言わないのは、きっとそれだけの理由なんだ。ああ本当にどうしようも無い人間だ。自分で自分が嫌になる。私は自分の心に蓋をして、いつもの笑顔を顔に浮かべる。
「大丈夫さ。で、今日の夕飯は何だい?」
「肉じゃがと鮭、それと菜っ葉です」
「卵は?」
「ありません」
「え~」
その日の夕食は、味がしなかった。
この一時、私はあらゆる制限から解放される。一人での外出も許されない私が、何よりも自由を感じていられる、そういう一時。
特に何も感じていない。喜びも悲しみも、怒りも落胆も無い。ただ諦めていた。『そういう物だ』としか感じられない。私がこの体に生を受けたその瞬間から、私がこの力を持って生まれた時点で、こうなる事は分かっていた。だから、もうどうでも良い。
「お嬢様。そろそろ……」
「分かってるよ。分かってる。分かってる……」
私は本を閉じ、自分の部屋を出る。退屈な仕事だ。ただ自分より弱い異形の者を、なるべく効率的に処理するだけの仕事。毎日のようにこれを繰り返し、その対価のように、時々護衛という名の見張りを伴って、私は街へ繰り出す。それが私の日常。
資料にある『岩戸咲良』という人間は、生まれながらに超常的な力を持っていた。全能の神に等しい術式、最強の退魔師と並ぶ霊力量、類稀な霊力操作と武術の才能……退魔師として求められる資質を、私は最初から持っていた。
だからこそ、私は岩戸家の宝物となった。大切に大切に、壊れないよう、失くさないよう、保管された。今の岩戸家は、ほぼ私のワンマンチーム。お父様もお兄様も優秀だが、もし欠けたとて、私一人でその穴は埋められるだろう。だから必然、権力も私に集まり始める。
だが、私はそんな物に興味は無かった。ありとあらゆる物は、私にとっては『押し付けられた物』でしかない。それでもこの仕事を辞めないでいるのは、そうしなければ生きて行けないから。それ以外に理由は無い。
「お嬢様、本日も素晴らしい……」
「世事は要らない。後何体殺せば外出できるんだ?」
「この怪異で最後です。どこに行かれるので?」
「本屋でも行くさ」
実際、そこしか行く場所が無い。大した趣味も無い私の行先なんて、どうせこんな物だろう。私は顔に付いた泥を手で拭って、その場を離れる。
本屋に居る間も監視は続く。私は適当な数冊を手に取り、それをレジに運ぶ。だが途中で人とぶつかってしまい、私は抱えていた本を、全て床にばら撒いてしまった。
「ああ……」
「すみません。お怪我はありませんか?」
「問題無……」
そこまで言い掛けた所で、私とぶつかった彼の顔を見た。彼は本を拾うだけで、私の方を見もしなかったが、私は彼の横顔を見る事ができた。その肌は陶器のように美しく、その目と髪は美しい烏の濡れ羽色で、その顔立ちは芸術品のように整っている。
「どうぞ。すみませんでした」
「ああ。こちらも不注意だった。何かお詫びを……」
「いえ大丈夫です。私も用事があるので、失礼します」
彼はそう言うと、さっさと本屋を出て行ってしまった。それを見届けた護衛の二人が私の近くまで戻って来た。
「如何しますか?」
「何もしない。こっちの不注意だった。それだけだ」
私は本をレジへ運び、それを購入する。そろそろ夕方だし、もう岩戸家に戻らなければ。
自分の部屋へ戻った私は、本を開く事も無く、本屋で見た彼の事を考えていた。思えば、久しく他人の事を考えていない。それなのに私は、彼の事で頭が一杯になっている。
彼の声を聞きたい。彼の目を覗き込みたい。彼に触れたい。彼と同じ空間に居たい。彼と同じ釜の飯を食べたい。彼と話して、彼と笑って、彼と日々を過ごして、それで可能な限り、一緒の時間を共有したい。
「かっこよかったなぁ……」
そう口に出した事にすら気付かない程、私は名前も知らないあの男の事を考えている。私にしては珍しい。と言うよりは、私らしくない。
しかし今の状態では、彼と過ごすなど夢のまた夢だろう。彼の事はさっさと忘れるのが吉だ。自分にそう言い聞かせながら、私は小説のページを開いた。
彼の姿を見掛けてからおおよそ二年半と少し。私は突然、岩戸真司の書斎に呼び出されていた。
「……今、何と?」
「だから、一つプレゼントをあげるという話だ」
私は自分の耳を疑った。お父様が私にプレゼントを贈る事は以前もあったが、今回は訳が違う。そのプレゼントは『一人暮らしする権利』と『その為の家』だ。後者は然程問題ではない。問題は前者だ。今までお父様は、私をどうにか手元に置いて、そのまま縛り付ける事に心血を注いでいた筈だ。それなのに、今更何を……
いや、ここで詮索するのは不自然だ。それに、一応は私に与えられた数少ない権利だ。堪能しよう。
そして、一人暮らしを始めて二日目の私は、とんでもない事に気が付いた。私は荒れた家の中を見て、ただ何も出来ず、立ち竦んでいる。
「まさか……ここまで何もできないとは……」
なんと私、生活力がほぼ無いに等しかったのだ。いや考えれば分かる事だ。炊事も掃除も洗濯も、今まで使用人に任せていたせいで、何一つとして上手く事が運ばなかった。
このままでは不味い。このままでは、私は一月とこの生活を続けられない。実家から使用人を一人連れて来るかな。いやでも、自分でこの生活を選んだのにそれでは、少し不自然だろう。家政婦でも雇おうか。うん。それが良い。
そうと決まれば仕事だ。貯金もあるが、現時点で大きく手を付けたくはない。相場を調べるのも重要だ。今は軍資金を集めなければ。私は赤色のコートを身に着け、協会本部へ向かう。
「小説家に……なりたい」
「良い夢だ!」
その三日後の晩、運命の神とかいう存在に、私は初めて感謝した。何の気なしに向かった任務の現場で、書店で出会った彼と再会したのだ。彼は私の事を覚えていなかったようだが、私は二年半もの間、彼を忘れた事は無かった。だからか、私は彼の姿を見た時、自身の胸が酷く高鳴ったのを感じた。
ああ嬉しい!奇跡が起こったとしか言えない!心臓の鼓動が煩い!二年半、片時も忘れられなかった彼が目の前に居て、願っていた事が現実になる!
彼は、八神蒼佑と名乗った。その後、彼は一度岩戸家で様々な検査を受けた。結果として退魔師の適正がある事が分かった。親戚も居らず、親と連絡もできないらしい彼は、岩戸家の退魔師として雇われる事になった。
「で、彼は今後どうなるのです?」
「正直、本家の退魔師はもう十分だ。そうだな……咲良、待遇を任せても?」
「私はそれで構いません」
「じゃあ、彼には咲良の世話役兼お目付け係として働いてもらおう」
一人暮らし生活は一週間も続かなかったが、それ以上に喜ばしい事が起こっている。彼と一つ屋根の下で暮らす事が可能になった!それだけで、私の今までの全てが無駄ではなかったと思える。
その翌日から、彼は私の世話役として、私と共に生活する事になった。彼は私と違い、ありとあらゆる家事を難無くこなした。お陰で私の生活水準は、実家に居た時とそう変わらない物となり、不思議な事だが、岩戸家から協会の任務の斡旋も止んだ。
退魔師としての才能もあったらしい彼は、たった二年で白金級退魔師と、条件さえそろえば金剛級退魔師と同等の力を発揮できるようになった。
「凄いな。体外の霊力制御は才能だから仕方が無いとして、武術も霊力操作も、甘い所はあるが上等だ」
「ありがとうございます」
しかし本当に凄い。全くの素人からここまで来るのに、たった二年はかなり短い。これは八神くんの、協会の中の立場に直接影響する事なので、素直に喜ばしい。
ただ私は、少し気掛かりな事があった。八神くんは時々、夜中にどこかへ出掛けては、朝方帰って来て、そのままいつのもように生活しているようなのだ。詰まりその日、八神くんは睡眠を取っていない。普通に心配だ。
だが困った事に、八神くんを尾行する事は不可能なのだ。長い事他人を信じない生活を送って来たせいか、私が全力で霊力と気配を隠しても、尾行していると気付かれてしまう。動かなければ気付かれないが、十分もすれば気付かれるだろう。車を使う時もあるから、下手に動く事はできない。
なら正面から聞いてみようじゃないか。言えない事もあるだろうが、一応命の恩人兼雇用先に、一切合切何も言えないなんて事は流石に……
「すみません。『守秘義務』という奴です」
あった。しかしそんな事を言われては益々気になる。しょうがない事と割り切ろうか。いや無理だな。最近知った事だが、私は気になった相手の事になると、こういう事は割り切れない性質らしい。
まあしかし、車は岩戸家の物だ。あの運転手は前に見た事がある。お父様を問い詰めれば、きっと何か分かるだろう。私は八神くんが協会の任務に向かっている間に、私は岩戸家本部へ向かい、お父様が八神くんに、何か面倒な仕事を押し付けていないかを調べる事にした。
「成程……八神くんが夜中外出……まあ、彼も男って事じゃないか?」
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「頭が吹き飛んでしまうかも知れないねぇ」
いや否定はできないが。だけど肯定もしたくないな。いやしかし、そうなのだろうか。そうかも……
いやいやいや待て。確かにその可能性は捨てきれないが、結論を出すにはまだ早い。第一八神くんもハッキリとは言ってなかったんだ。そもそも何だ『守秘義務』って。
お父様に聞こう。一応は八神くんの雇い主だし、何か知ってるとしたらやはりお父様だろう。私はお父様の書斎に向かい、お父様を問い詰める。
「成程。気付いていたのか」
「そりゃもう二年だ。気付きますよ」
お父様は少し顎に手を当てて考えてから、一冊のファイルを私に寄越した。そこには、『敵対勢力一覧』と書いてあった。
「何ですかこれ?」
「岩戸家は表でも事業を行っているだろう?それをよく思わない、敵対勢力を纏めたファイルさ」
まあ、よくある事か。私はそのファイルを開き、そして目を見張った。その殆どが、ここ一、二年で壊滅している。そしてその全ての原因が、『襲撃』とあった。
「これは……」
「全て、八神くんのお陰さ」
「……は?」
私の頭の中で、いくつかのピースが噛み合う音がした。体内での霊力の操作、徒手の武術、武具の扱い、その全てが、たった二年稽古を続けたとは思えない伸び幅だった。まるで、二年間、毎日命のやり取りを繰り返して来たように。
気付けば、私は岩戸真司の首に手を掛け、空気の出入り口を塞ぐ、一歩手前まで来ていた。私は自分の内側に、黒く、熱く、どこまでも不快な何かを感じている。
「お前……何をしたか分かっているのか!」
「分かっていますよ。一人の少年を誑かし、その人間を人殺しにさせた」
「だったら!」
「ですが、彼は『岩戸家の退魔師』ですよ?」
その言葉に、私ははっとした。八神くんはあくまでも岩戸家に所属している退魔師で、岩戸真司は八神くんに、絶対的な命令を下せる権利がある。詰まり、岩戸真司が八神くんをどうしようと、彼の勝手という事になる。
「貴様ぁ……!」
「ご心配せずとも、彼の精神が壊れないよう、彼には予め極めて強力な術を施してあります。血液を用いた、未来永劫解けない術をね」
潔いのではない。ここで嘘を吐くリスクをこの男は理解している。そして同時に、私がこの男を殺すリスクも。ここでコイツを詰めても無駄だ。拷問でも口は割らないだろう。ならここは、一度事務所に帰り、どうにか彼の術を……
いや待て。それで良いのか?術を解けば、彼はたちまち、ただの二十歳の若者だ。そんな人間が、あれだけの組織に属した人間を殺した事実を受け止め切れるだろうか。
いや、ここで考えるのはよそう。ここは事務所に帰り、一度策を練らなければ。私は岩戸真司の首元から手を離し、出入り口へ向かう。
「最後に一つ」
「何なりと」
「何故、彼を選んだ?」
私がそう聞くと、岩戸真司は口角を上げて、満足気に答えた。
「貴女様が、『かっこいい』と仰せになった、只一人の男児でしたので」
その言葉に胸が貫かれた。ああそうか。私がぽつりと言ったあの一言で、八神くんの人生は狂ったんだ。私が狂わせたんだ。私が奪ったんだ。八神蒼佑という一人の人間の、平穏も、日常も、自由も、全て私が奪った。その事実に、私は倒れてしまいそうになった。
絞り出せたのは「そうか……」の一言だけで、私は覚束ない足取りで、なんとか事務所まで戻った。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
帰ると、事務所の中の居心地が、少し変わったように感じた。罪悪感だろうか。私はお気に入りの赤いコートを脱いで、洗面台へ向かう。
少し経つと、八神くんが夕飯の支度を始めた。もう台所に火を点ける音も聞き慣れた。だけど今日だけは、それも気に留められなかった。だからか、八神くんが台所から離れ、私が横になっているソファから少し離れた椅子に腰掛けたのも、全く気が付かなかった。
「先生、どうかしましたか?」
「へ?」
「いや、先生が夕食の献立を聞いて来ないのも珍しいので。それに、様子も変でした」
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ここで初めて、私はある事に気付いた。私は、ただ八神くんに嫌われたくないだけなんだ。ここで何も言わないのは、きっとそれだけの理由なんだ。ああ本当にどうしようも無い人間だ。自分で自分が嫌になる。私は自分の心に蓋をして、いつもの笑顔を顔に浮かべる。
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この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。
また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。
マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。
世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。
ユニークアイテムな女子(絶対的替えの効かない、唯一無二の彼女)「ゆにかの」
masuta
キャラ文芸
恋と友情、そして命を懸けた決断。青春は止まらない。
世界を股にかける財閥の御曹司・嘉位は、U-15日本代表として世界一を経験した天才投手。
しかし、ある理由で野球を捨て、超エリート進学校・和井田学園へ進学する。
入学式の日、偶然ぶつかった少女・香織。
彼女は、嘉位にとって“絶対的替えの効かない、唯一無二の存在”だった。
香織は、八重の親友。
そして八重は、時に未来を暗示する不思議な夢を見る少女。
その夢が、やがて物語を大きく動かしていく。
ゴールデンウィーク、八重の見た夢は、未曾有の大災害を告げていた。
偶然か、必然か……命を守るために立ち上がる。
「誰も欠けさせない」という信念を胸に走り続ける。
やがて災害を未然に防ぎ、再びグラウンドへと導く。
その中で、恋もまた静かに進んでいく。
「ずっと、君が好きだった」告白の言葉が、災害と勝負を越えた心を震わせる。
それぞれの想いが交錯し、群像劇は加速する。
一人ひとりが主人公。人生に脇役はいない。
現代ファンタジーとリアルが交錯する青春群像劇。
本作は小説家になろう、オリジナル作品のフルリメイク版です。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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