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035 カイケン
しおりを挟むなぁ、そこのあんた。
銃口を向けられたことがあるかい?
へへヘ、オレはあるぜ。
それも飼い主からな。
あいつはことあるごとにオレを蹴飛ばしては、こう言っていたっけか。
「この駄犬めっ!」と。
オレは甲斐犬(かいけん)だ。
甲斐犬の毛並みは黒虎毛、中虎毛、赤虎毛とに分かれており、歳を経るに従って虎毛がよりはっきりしてくるのが特徴だ。
赤茶けた褐色の縞の黒毛、勇壮な虎模様をしているから『虎毛犬(とらげいぬ)』と呼ばれることもある。
見た目だけじゃないぜ。自分よりも大きなイノシシやカモシカにも臆することなく立ち向かう気概を持つ。
山の険しい地形や自然をものともしない強靭な肉体を持ち、賢く勇猛で主人に忠実であるがゆえに、狩猟犬として猟師に重宝がられてきた歴史を持つ。
かくいうオレもまた猟犬だった。
だが、飼い主によればオレは失敗作のみそっかす、役立たずのムダ飯喰らいなんだと。
けどよぉ……オレから言わせてもらえば、ヘッポコなのはむしろあいつの方だ。
せっかく獲物を見つけて、ワンワン追い立て、すっかりお膳立てを整えてやったというのに、肝心なところでポカをやらかすのはいつもご主人さまだ。
どうしてこれをはずすのかなぁ。
イヌの身ながら小首をかしげずにはいられない。
いっそのこと目をつむって撃ったほうが、たぶん当たるんじゃねえのか。
それぐらいのへたっぴ。
もっとも、そのおかげでオレは命拾いをしたんだけどな。
ある日のことだった。
やたらとジメジメして朝から蒸し暑い日だった。
狩りは失敗続きで、飼い主はずっとムスっとしており機嫌が悪かった。
一方で、お連れさんたちはホクホク顔だ。狩猟仲間たちの成果は上々だったから。
そんなこともあってか、仲間たちからちょいとからかわれた飼い主がついに癇癪(かんしゃく)を起こした。
ただし、怒りの矛先が向けられたのはオレだったけどな。
いわゆる八つ当たりというやつだ。じつにみっともない話さ。
口汚くののしる、足蹴にする、拾った枝でぶつ、とやりたい放題。
見かねた仲間たちが止めようとするも、かえって顔を真っ赤にしてムキになるばかり。
すっかり頭に血がのぼっていやがんの。
ばかりか、ついには銃をこっちに向けやがった。
「おいっ、さすがにそれはやりすぎだぞ」
仲間たちからこぞってたしなめられるも「うるせぇ!」と引き金をひく。
バーン!
しかし先にも述べたように、うちの飼い主ときたらとにかく銃の扱いがへたっぴにて。
弾は明後日の方向に飛んでいきオレは助かった。
でもそれで終わりじゃなかった。
引っ込みがつかなくなったのか、飼い主がさらに銃をぶっ放す。
バーン!
今度もはずれた。
が、さっきよりもずっと近くの地面にて弾が跳ねた。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるという。
さすがのオレも、これ以上は付き合い切れないと身を翻す。
背後から怒声と銃声が追ってくるも、もう知ったこっちゃねえ。
いくら忠義に厚い甲斐犬にだって限度がある。心底愛想が尽きた。
オレはふり返ることなく、ひたすら樹々の合間を駆け抜けてゆく。
飼い主とはそれっきり。
三行半を突きつけたオレは自由になった。
そんなオレだが山で暮らすうちに、いつしか十六頭ばかりの群れを率いるようになっていた。
みな都会を追われたり、無責任な飼い主によって山に捨てられた犬たちだ。
いきなりこんなところに放り出されてどうしていいのかわらかず、途方に暮れているのを見かねて、ちょいと世話を焼いてやったら懐かれた。
山暮らしはけっして楽じゃなかったけれども、仲間たちとの生活はそれなり充実していたし、楽しくもあった。
でも、そんな日々は突如として終焉を迎える。
山狩りにあったのだ。
べつに人里に降りて悪さをしたこともなければ、沢釣りをしている者や山歩きをしている者にちょっかいを出したこともない。
それどころか迷っている人間を、道案内して助けてやったことすらある。
なのに、大勢の人間たちによって追い立てられてた。
次々と捕まり、檻へと放り込まれていく仲間たち。
皮肉なことに、それを率先して手伝っていたのはかつての同胞……猟犬であり、猟師たちであった。
それでもオレは懸命に戦った。
仲間たちを守ろうと決死の抵抗を試みる。
けれども気づいたときには橋の上に追い詰められており、かたわらに残っていたのは群れで一番の若僧のみ。
せめてコイツだけでもどうにかして逃がそうと、オレは決意する。
だが――
ドンッ!
押されたひょうしにオレの体が宙に浮いた。
やったのは若僧だ。どうやらこいつもオレと同じことを考えていたらしい。不覚にも先を越されてしまう。
突き落とされたオレは川のなかに落ちた。
数日前に降った雨のせいで川は増水しており、あっという間にオレは下流へと流されていく。
どうにかして水の上に顔を出すと、遠ざかる橋の方から聞こえてきたのは感謝と別れを告げる遠吠えであった。
〇
次に気がついたときには、どこぞの浅瀬に転がっていた。
てっきり溺れ死んだとおもったが、どうやらまだ生きているらしい。
とはいえ体中が悲鳴をあげている。息も苦しい。
それに目を開けたら世界がおかしなことになっていた。
右側が夜で左側だけ昼……
あぁ、ちがう、そうじゃない。右目が見えなくなっていたのだ。流されるうちに、あちこちぶつけた際に潰れてしまったのだろう。
半分水に浸かったままにて、体はろく動かず、血の気もすっかり失せている。
もはや風前の灯火といったところか。
だからそのまま目を閉じようとするも、そのタイミングで影が差し人の気配がした。
オレが億劫そうに薄目を開けたら、ふたりの人物がこちらを覗き込んでいる。
ひとりは目つきの鋭い青年で、もうひとりはたおやかな妙齢の女であった。
男は「放っておけ」と言うも女が「そんなのダメよ」と言い張り、結局は男が折れてオレを連れ帰る。
かくしてオレは九死に一生を得た。
これがオレと御方さまと碓氷(うすい)とが初めて逢ったときの話だ。
恥ずかしながら、オレは御方さまのところに世話になることで、初めてイヌの幸せというやつを知った。
誰かの隣に寄り添う、その意義を知った。
だからこそ、オレは――
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