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235 聖杯
しおりを挟むデアドラにつづいて馬車から降りたソレイユ。
そこは総石造りの丸い舞台を見下ろしている観覧席でした。
演劇や音楽を鑑賞するためのモノとはちがう。かといって剣士たちが武を競うためのモノともちがう。
どちらかというと女神に仕える神官らが祭事を行う場所に雰囲気が似ています。
だけれども荘厳さはまったくありません。一切の装飾を排除されたがゆえに備わる厳粛なる静けさに満ちていました。
舞台に周囲に等間隔で立っているのは、頭の上からつま先までをすっぽりとおおう純白のローブ姿の者たち。顔もマスクでかくされており目元しか見えません。
神官長に手を引かれて、舞台の中央にあらわれたのはサン。
「これより聖女の儀が行われる。せっかくのあの娘の晴れ舞台なのだから、ぜひソレイユにも見せてやろうとおもってな」とデアドラ。
聖女の儀とは? 首をかしげるソレイユ。
「なぁに、むずかしいことは何もない。聖杯につがれた酒を……と、今回は幼子ゆえに甘い果実水か。それを飲み干すだけのこと。これにより聖女の名を女神さまよりたまわるのだ」
ここはその特別な儀式が行われる場所だと聞いて、目を細めた黄金のオオカミ。
そのワリにはこの場所に漂う気配が、どうにも気にいらない。
特別な場所には、特別な想いが積み重なって、自然と格があがるもの。訪れる者にハッとさせる何かをまとうもの。
だというのに、ここにはソレがありません。
特別は特別でも、まるで墓所にいるかのような、不吉な何かを連想させるニオイがかすかに漂っている。
おかしいとの疑念ばかりがソレイユの中に強まっていく。
そんな彼をムシして儀式は淡々と進行していき、サンに手渡されたのは白いちいさな盃。
あれこそが聖杯。儀式のたびに新しくあつらえられる品だという。
そこに神官長がみずから首の長い銀の酒器より、透明な液体をそそぐと、聖杯の中身が赤くかわりました。
ふと、目の前の聖杯から顔をあげた幼女。
サンがはるか檀上にいるソレイユの方を見て、ニコリと微笑みました。
それは彼がよく知る、春をもたらすあたたかい笑みではなく、冬をまえにして散り行く山々のような情景をおもい起こさせる、さみしい笑み。
ゾクリと悪寒が走りました。それとともにかすかに鼻がとらえたのは、甘い死の香り。「まさか!」気づいたときにはすでに手遅れでした。
サンがクイっとひといきに盃の中身を飲み干す。
じきにそのちいさなカラダがふらりふらりとゆれたかとおもうと、チカラが抜けて、ヒザから崩れおちるように倒れてしまいました。
そばにいた神官長は大音声にてこう言いました。
「女神の聖杯にて、ことの真偽はもはや明白。この者は断じて聖女ではない。偽りである。天をもおそれぬ大逆の徒なり。だが裁きは下った。おおいなる慈悲にて穢れた魂は浄化された」
ピクリとも動かないサンを足下に転がしたまま、こいつは何を言っている? なぜサンを助けようとしない。
たったいま起こったできごとが信じられずに、呆然とたちつくすソレイユ。
「やはりニセモノであったか。これだから下賤(げせん)の者はおそろしい。幼子ですらもが神をかたっては、世をたばかるのだからな」
となりでデアドラが何かを言っているが、そんなことはどうでもいい。
それよりもどうしてサンを放っておく? かりにも小さな女の子が冷たい石畳のうえに倒れているのだぞ? 周囲の者たちは何を考えている? どうして、どうして、どうして、どうして……。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、思考がうまくまとまらない。
ただソレイユの中で世界が急速に色をうしなったことと、自分のココロが声にならない悲鳴をあげつづけていることだけはたしかでした。
フラフラと階段をおりていき、舞台にいる幼女のもとへと向かう黄金の水色オオカミ。
「サン」
呼びかけても返事はありません。
「サン、サン……。そんなところで寝たらカゼをひいてしまうよ。だから起きなさい」
やさしく話しかけるも反応はなく、あの笑顔を向けてくれることもない。
いくら名前を呼ぼうとも、もう、二度と彼女が答えられないことは、ソレイユにもとっくにわかっていました。それでも愛しいその名を呼ばずにはいられない。
「いけません、ソレイユどの。その者はあなたをたばかっていたニセモノ。あなたが仕えるべきほんとうの主人は、あちらにおられるデアドラさまなのです」
舞台へたどりついた黄金の水色オオカミに、そんな戯言をほざいたのは神官長。
「そうだぞ。わたくしこそがオヌシの主にふさわしいのだ。そんな者は放っておいて、こちらへこい」
檀上より、わけのわからないことを叫んでいるのはデアドラ。
こいつらはさっきからいったい何を言っている? わからない。ニセモノだのほんものだの、そんなことは関係ない。サンはサンであろうに。
前をさえぎろうとした神官長を前足の一撃で殴り倒し、ようやくサンのもとへと到着したソレイユ。
先ほど感じたかすかな甘い死の香り。
それは床に落ちていた盃からかすかに漂っていました。
なんたる不覚か……、盃の方に細工がほどこされており、あの液体と混ざることで毒性が発生する仕組みであったのです。だから気がつけなかった。
サンはまるで眠っているようでした。
だけれども息はしていない。いくら鼻先をこすりつけても、顔を寄せても、もうやさしく撫でてくれることはない。
生命の灯火がとうに消えてしまっている。
いいや、ちがう。消えたのではない、消されてしまったのだっ!
ソレイユは激怒した。
なおもそばでやかましかった神官長のカラダが、いっしゅんで氷の像となる。それを無造作に蹴倒し、粉々に砕ける音を聞きながら、彼は一連の茶番劇の筋をおぼろげながら悟りました。
すべては自分を手に入れるために行われたこと。
そのためにサンが、まだまだあどけない、ココロやさしい女の子が犠牲になってしまった。
ソレイユは激怒した。
舞台の周囲にいた全員が、いっしゅんで氷の彫像と化しました。
ソレイユは激怒した。
半狂乱となっているデアドラが護衛に無理矢理、馬車へと放り込まれて逃げていくも、それごとぐしゃりと巨大な氷の塊が押しつぶす。
ソレイユは激怒した。
なにより不甲斐ない自分に。みすみす彼女を死なせてしまった自分に。最後に見せた笑みの意味にもまるで気がつかなかった、マヌケな自分に。
彼の怒りに呼応するかのように、天から雲が落ちてきました。
ソレイユは激怒した。
怒りがカラダをつきやぶり、膨大なチカラが解き放たれる。
空から落ちてきた雲が地表をのみ込み、氷となった。
海からせまるのは山よりも高い波。ザブンとのみ込み、やはり氷となった。
生きとし生ける者、善と悪、貴人も民も、ケモノもムシも植物も、岩も山も砂も、なにもかもが等しく氷となった。
ついには大地そのものが氷となった。
ここに黄金の毛を持つ水色オオカミの旅が終焉を迎える。
そしてアルカディオン帝国は、唐突にその長い歴史に幕を閉じ、楽園は消失、北の極界と呼ばれる場所が地の国に誕生したのです。
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